第29話「水晶の色」
試験の日の朝は、憎らしいほどの晴天だった。
「ほら、二人とも。忘れ物はないね。番号札、筆記具、昼の弁当」
「ある。……三回目だぞ、その確認」
「いいんだよ、何回だって。あたしはね、こう見えて、送り出す側ってのが初めてなのさ」
サナは、俺とユキの襟元を順に直し、最後に、ぽんと二人の背中を叩いた。
「行っといで、姉弟。……大丈夫。あんたたちは、この十日、やれることを全部やった」
「……行ってきます」
「行って、きます!」
宿を出て、朝の大通りを、学院へと歩く。同じ方向へ向かう志願者たちの姿が、通りのあちこちにあった。誰もが、緊張を顔に貼りつけて、口数少なく歩いていた。
俺たちも、その中の二人だった。目的こそ違えど、この試験に落ちれば先がないのは、皆と同じだ。
「……手、冷たくなってますよ、サヌス」
隣で、ユキ――キオネが、小さく笑った。人前用の偽名は、もう舌に馴染んでいる。
「姉さんこそ、さっきから同じ頁ばっか開いてるだろ、それ」
「……お互い様、でしたね」
顔を見合わせて、少しだけ笑った。強張っていた肩から、ほんの少し、力が抜けた。
学院の講堂前には、志願者たちが番号順に整列させられていた。
「これより、適性検査を行う! 番号を呼ばれた者から、順に前へ!」
試験官の声が、朝の空気を震わせた。
隣に並んだ志願者の少年が、青い顔で、ぶつぶつと詠唱の練習を繰り返している。その向こうでは、少女が胸の前で、お守りらしき小さな袋を握りしめていた。皆、この日のために、それぞれの何かを賭けて、ここに立っている。
適性検査。魔力の質と属性を視る、最初の関門だ。
講堂の中央には、台座に載った、人の頭ほどの水晶球が据えられていた。志願者が手を翳すと、その者の属性に応じた色が、水晶の中に灯る仕組みだという。
「番号十二! 前へ!」
呼ばれた志願者の少年が、緊張の面持ちで水晶に手を翳す。数拍の間の後――水晶の中心に、橙の光が、ぼうっと灯った。
「火の適性、中位! 次!」
「番号十三!」
次の少女の手の下では、水晶は淡い緑に光った。風の適性、下位。その次は土。その次は、光らずに終わって、志願者の男は青い顔で列に戻った。属性なし。それでも学科で受かる道はあると、ヴォルフは言っていたが――当人の落胆は、見ていて痛いほどだった。
順番が、近づいてくる。
俺は、腹の底で、自分に言い聞かせ続けていた。
――氷だけだ。氷だけを、思え。
十二の刻には、指一本、触れるな。水晶が何を「視る」のかは、わからない。だが、万一にも、あの力の色が水晶に浮かんだら、その瞬間に全部が終わる。
「番号三十一! 前へ!」
俺の、番号だった。
一歩ずつ、台座へ歩く。試験官たちの視線が、肌を刺す。その列の端に――一人、目つきの違う男がいた。試験官の制服を着てはいるが、書類も持たず、ただ、志願者の顔だけを順に眺めている。灰色の外套を、肩に羽織った男だった。
見るな。考えるな。俺は、ただの田舎者だ。
水晶に、手を翳した。
冷たい硝子の感触より先に、体の奥で、十二の刻が、微かに身じろぎするのがわかった。
――駄目だ。眠ってろ。
氷。村の井戸。凍った桶の水。ヴェスの冬の朝。何百回と繰り返した、あの慣れた冷たさだけを、指先に思い浮かべる。
数拍の、永遠のような間。
水晶の中心に――薄青の光が、静かに灯った。
「……氷の適性、中位! 次!」
膝から力が抜けそうになるのを、堪えて列に戻った。よし。中位。上等だ。「合格する程度に優秀で、記憶に残らない程度に平凡」。サナの特訓どおりの位置に、収まってくれた。
だが、本当の山場は、次だった。
「番号三十二! 前へ!」
ユキの、番号。
白い頭巾の少女が、台座の前に立つ。俺は、固唾を呑んで見守ることしか、できなかった。
彼女の力は、封じの力。この国の属性のどれでもない。水晶が、何と答えるか――それは、ヴォルフにも、俺たちにも、予想がつかなかった。昨夜、三人で立てた筋書きは、こうだ。何も出なければ「属性なし」で学科に賭ける。妙な色が出たら――そのときは、その場で考えるしかない、と。筋書きと呼ぶには、あまりに心細い筋書きだった。
ユキが、手を翳す。
翳した指先が、微かに震えているのが、離れた列からでもわかった。
水晶は――沈黙した。
一拍。二拍。三拍。何の色も、灯らない。
見守る志願者たちの間に、気の毒そうな空気が流れた。ああ、また属性なしか、という空気。それでいい。そのまま、何も映さず終わってくれ。
「属性なし、か? 次――」
試験官が言いかけた、そのとき。
水晶の奥の奥で、何かが、ちらりと瞬いた。
色、と呼んでいいのかもわからない、光。白よりもなお白い、雪の底のような、ほんの一粒の煌めき。それは灯ったそばから溶けるように消えて、水晶は、また沈黙に戻った。
講堂が、僅かに、ざわついた。
「……ふむ。今のは」
試験官の一人が、首を傾げて、記録係と何かを言い交わす。俺の心臓は、早鐘を通り越して、止まりかけていた。まずい。まずい、まずい――
「氷の適性、微弱、と記録しておけ。雪国の生まれなら、たまにある。芯まで冷えた血の色だ。……次!」
年かさの試験官の、鶴の一声だった。
ユキは、深々と一礼して、列に戻ってきた。すれ違いざまに見えたその顔は、紙のように白かった。俺は、列の中で、彼女の袖に、そっと指先だけで触れた。大丈夫だ、と伝わるように。
――ただ。
列に戻る間際、視界の端で、あの灰色の外套の男が、手元の帳面に、何かを書き留めたのが見えた。
昼を挟んで、午後は学科試験だった。
昼休み、講堂裏の芝生で弁当を広げながら、俺たちは、午前の「あれ」の話を、声を殺して交わした。
「……びっくり、しました。あんな光、自分でも初めてで」
「水晶に、封じの力の欠片が映ったのかもな。……けど、試験官の爺さんが『雪国の血』で流してくれた。助かった」
「はい。……ただ」
ユキの声が、一段、低くなった。
「あの、灰色の外套の人。私のとき、何かを書き留めていました」
「……見てたか」
「サヌスのときも、じっと見ていました。あの人だけ、他の試験官と、見ている場所が違う気がします」
同じことを、感じていたらしい。管理局の息がかかった者が紛れている、というヴォルフの警告。あの男が、それなのか。確かめる術はないが、警戒に、越したことはなかった。
「午後は、大丈夫だ。学科で妙な力は出ようがない。……姉さんの独壇場だろ」
「ふふ。……はい。任せてください」
これについては、書くことがあまりない。ユキが、強かった。
配られた問題用紙に、彼女は水を得た魚のように筆を走らせ、見直しを二周して、なお時間を余らせていた。終了の鐘が鳴ったとき、その顔には、隠しきれない充実の色が浮かんでいた。丸暗記と言っていたが、あれはもう、暗記の顔ではなかった。
俺はといえば、歴史の年号で三問ほど溺れかけたが、ユキの夜語りのおかげで、なんとか泳ぎ切った。三百年前の王朝交代の件が出たときは、夜の宿で聞いた彼女の声が、そのまま耳元で再生された。
そして、最後の実技試験。
演習場に並べられた的を、指定の位置から魔法で撃つ。単純な試験だが、ここが「強く見せない」訓練の、本番だった。
「番号三十一、前へ! 属性、氷!」
指定位置に立つ。的までは、二十歩ほど。以前なら遠いと感じた距離は、今の俺には、庭先も同然だった。だからこそ、だ。
詠唱を、わざと長く。狙いを、わざと甘く。
一射目。氷の礫は、的の縁を掠って、割れた。
二射目。中心のやや下。
三射目――ここだけは、当てる。的の中心で、氷が砕けて、白い飛沫が散った。
「三射二中、一射掠り! 中の上! 次!」
完璧、だった。サナが見ていたら、満点をくれただろう。受かりそうで、記憶には残らない。狙いどおりの、平凡な好成績。的の前の雪だまりに散った氷の欠片さえ、志願者らしい不揃いな大きさに割れてくれていた。
――のはず、だった。
「……番号三十一。待て」
低い声が、俺を呼び止めた。
あの、灰色の外套の男だった。帳面を手に、ゆっくりと、こちらへ歩いてくる。
「今の三射目。詠唱の途中で、節を一つ、飛ばしたな。なぜだ」
心臓が、跳ねた。
飛ばした。確かに、飛ばした。三射目、当てにいった瞬間、体に染みついた実戦の癖が、無駄な節を勝手に端折ったのだ。並の試験官なら、聞き流す程度の――だが、聞き流さない耳が、ここにあった。
「あ……えっと、その」
言葉に、詰まった。まずい。何か言え。田舎者らしい、何かを――
「――お時間です、試験官殿」
涼やかな声が、割って入った。
書類の束を抱えた、係の在校生だった。一分の隙もない制服。伏し目がちの、静かな佇まい。
ガイア。
「実技の枠が、押しています。次の組の入場が、もう始まりますので」
「……ふん」
灰色の外套の男は、俺の顔を、もう一度だけ、じっと見た。それから、帳面を閉じ、興味を失ったように背を向けた。
「行け。……次!」
列に戻る俺と、書類を抱えて歩き去るガイアは、一度も、目を合わせなかった。
偶然か。それとも。
あの生徒は、俺の窮地を、正確に見ていた。そして、割って入る口実として、これ以上ないほど自然な一言を、これ以上ないほど完璧な瞬間に、置いていった。偶然にしては、出来すぎている。だが、助けられた、と喜ぶには――あの「秒針が、一つ、飛ぶ」の声が、耳の奥に残りすぎていた。
敵なのか。味方なのか。それとも、そのどちらでもない、何かなのか。
考える間もなく、試験は流れ、気づけば、すべての日程が終わっていた。
発表は、三日後だった。
その三日間の長さといったら、言い表しようがないほどだった。サナは「じたばたしても結果は変わらないよ」と笑っていたが、そういう本人が、発表の朝は誰よりも早く目を覚まして、誰よりも先に宿の階段を降りていた。
掲示板の前の人だかりは、悲鳴と歓声が入り混じって、渦を巻いていた。
番号を見つけた者が飛び上がり、見つけられなかった者が、その場に座り込む。列で見かけた顔ぶれの、明暗が分かれていく。畑を売ってもらったと言っていた少年は――いた。番号の前で、声を上げて泣いていた。よかった、と、素直に思った。
「あった……三十一番、あります! サヌス、ありました!」
「三十二番は……あった。姉さんのもある!」
人混みの中で、俺とユキは、番号の並びを三度も確かめ合った。間違いない。二人とも、受かった。
「やった……やりました……!」
「ああ。……姉さんの学科、たぶん相当な点だったぞ」
人前なので、控えめに。それでも、握り合った手の熱だけは、隠しようがなかった。
その夜は、サナが宿の女将と結託して、ささやかな祝いの膳を並べてくれた。鶏の丸焼きに、豆の煮込み、それから、東市場の一番の屋台の焼き菓子まで。
「入学、おめでとさん。……ここからが、本番だけどね」
「ああ。わかってる」
「けど、今夜だけは、ただの祝いだ。難しい顔は明日から。……ほら、キオネ、あんたもっとお食べ。学科の点数分くらいはね」
「ふふ……いただきます」
囲む膳の温かさに、束の間、目的も偽名も忘れそうになる夜だった。ミオに、長老に、里の皆に、この報せを届けられたら――ふと過ぎった思いは、口には出さず、胸に仕舞った。連絡の線は、まだ、繋がっていない。
祝いの席がお開きになり、部屋に戻ると、扉の下に、学院からの分厚い封筒が差し込まれていた。
入学の案内。寮の割り当て。制服の採寸日。事務的な書類を、一枚ずつ検めていく。
その、一番底に。
印字ではない、手書きの小さなカードが、一枚、紛れ込んでいた。
学院の公印も、差出人の署名もない。ただ、上質な白いカードに、流れるような、綺麗な文字だけが並んでいた。
『ご入学、おめでとうございます。
よい「時」を。
――技術研究会』
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