第28話「図書室の少年」
「――針のない、時計盤、ねえ」
宿に戻って一部始終を話すと、サナは、行商の荷を解く手を止めて、低く唸った。
「ガルムの首元のあれと、同じ意匠ってことかい」
「小さかったけど、間違いない。丸い盤に、針がなかった。……それに、すれ違った瞬間、俺の中の刻が、疼いた。時計塔のときと似てるけど、もっと小さくて、鋭い感じだ」
「学院の生徒が、塔の関係者……ヴォルフさんの言っていた『ろくでもないもの』は、そのことだったんでしょうか」
ユキの問いに、答えられる者は、いなかった。わかっているのは、ヴォルフの警告が、その日のうちに形になって現れた、ということだけだった。
「一つ、確かめておきたいんだけどね」
サナが、真顔になった。
「その生徒、あんたの正体に、気づいた素振りは」
「……なかった、と思う。振り返りもしなかったし、歩調も乱れなかった。ただ……」
すれ違った、あの一瞬の疼き。あれが俺にだけ起きたことなのか、それとも、向こうにも「何か」が伝わったのか。確かめる術は、なかった。
「気づかれてないなら、それでよし。気づかれてたなら――試験までの十日の間に、必ず何かを仕掛けてくる。どっちにしろ、あたしたちがやることは同じさ。……日常を、完璧に演じること」
「で、どうするんだい。調べるのかい、その生徒」
「……いや。試験までは、深追いしない」
迷いは、あった。だが、答えは決めていた。宿までの帰り道、ずっと考え続けて、出した答えだった。
「今の俺たちは、ただの志願者だ。学院に入る前に怪しまれたら、全部が終わる。調べるのは、中に入ってからでも遅くない。……十日、我慢する」
「ほう。焦って突っ込むかと思ったら」
「誰かさんの教育の賜物だよ。……点で受けて、点で返す、だろ」
「はっ。言うようになったね」
そうして、試験までの十日間が、始まった。
俺の日課は、朝の鍛錬と、氷魔法の「調整」だった。
「はい、やり直し! 今の氷壁、厚すぎ! 田舎の神童レベルまで、あと三割削りな!」
「難しいんだよ、手加減の方が……!」
宿の裏の空き地で、サナの特訓は続いていた。ただし、今回の課題は、これまでと真逆――強く見せない訓練だった。
適性検査で目立ちすぎれば、詮索を招く。かといって弱すぎれば、落ちる。「合格する程度に優秀で、記憶に残らない程度に平凡」という、匙加減の芸当を、体に叩き込む十日間だった。
「あんたの氷は、独学のくせに筋が良すぎる。実戦を潜った奴の魔法は、匂いでわかるんだよ。試験官が並の相手なら誤魔化せるけど……管理局の息がかかった奴が紛れてたら、一発だ」
「……具体的には、どうすれば」
「無駄を足しな。詠唱をわざと長く、狙いをわざと甘く。発動のたびに、ちょっと自信なさそうに眉を寄せる。……そう、それ! 今の顔、実に受かりそうで受からなそうだよ!」
「褒められてる気が、まったくしない……」
不思議な訓練だった。強くなるための鍛錬は、これまで散々やってきた。だが、弱く「在る」ための鍛錬は、初めてだった。そして、これが存外に、難しい。この数ヶ月の逃避行で体に染みついた、最短で、最小で、確実に――という癖を、一つずつ、意識して解いていく作業だった。
「ま、悪いことばかりじゃないよ。手を抜く技術ってのは、裏を返せば、力の出力を細かく刻む技術だ。器の使い方が、うまくなる。……あんたの言う『器を広げる』の、遠回りな稽古だと思いな」
サナの言葉は、いつも通り、乱暴なようでいて、的を射ていた。
一方のユキは、部屋の隅に小さな机を借りて、朝から晩まで、教本に齧りついていた。
教本は、サナが古書店で購ってきた、型落ちの受験用のものだ。ヴォルフに借りる案もあったが、「接触は最小限に」の原則で見送った。あの老学者に、これ以上の危険を背負わせるわけにはいかなかった。
「歴史と地理は、だいぶ頭に入りました。算学も、たぶん。……ただ、魔法理論だけは、どうしても」
「そりゃそうさ。あんたの力は、そもそもこの国の理論の外にあるんだから」
「なので、丸暗記です。理解は、あきらめました」
きっぱり言い切って、ユキはまた教本に戻っていく。その横顔は、悲壮というより、どこか楽しげだった。
夜、俺が鍛錬から戻ると、彼女は決まって、覚えたばかりの歴史を聞かせてくれた。三百年前の王朝の交代。五十年前の大火と、都の再建。話し上手というわけでもないのに、彼女の語る歴史は、なぜだか耳に残った。楽しんで覚えた知識は、人に渡るときも温度を持つのだと、初めて知った。
「……なんだか、嬉しそうだな」
「わかりますか?」
ユキは、頁をめくる手を止めずに、ふふ、と笑った。
「私、机に向かって勉強するの、初めてなんです。逃げてばかりの十年でしたから。……追われて覚えることじゃなくて、自分のために覚えることが、こんなに楽しいなんて、知りませんでした」
その一言は、胸の深いところに、静かに落ちた。
偽りの名前で、偽りの身分で、目的のための受験。それでも――この十日間の彼女は、ただの、試験勉強に励む十二歳の少女だった。それが無性に、守りたいものの形に見えた。
五日目の夕方には、息抜きと称して、三人で東市場へ出た。
「あ。……ありました、あの屋台」
ミオが力説していた、例の焼き菓子の屋台だ。焼きたての生地に餡がたっぷり入ったそれは、噂に違わず、ほっぺたが落ちるほど旨かった。
「……これは、確かに一番だ」
「ミオちゃん、正しかったですね。三番目の屋台と、食べ比べてみますか?」
「けちなおじさんの餡を確かめに行くのかい? あんたたちも物好きだね」
笑いながら、三番目の屋台のものも買って食べた。……本当に、餡が少なかった。三人で顔を見合わせて、こらえきれずに吹き出した。
「ミオに手紙で教えてやろう。『検証の結果、あなたは正しかった』って」
「ふふ。喜びます、絶対」
手紙は、まだ出せていない。印が消された今、里との連絡の線を、どう安全に引き直すか。サナが行商の伝手で慎重に道を探っている最中だった。それでも、伝えたい土産話が増えていくこと自体が、なんだか、悪くなかった。
そして、八日目。
学院から、志願者向けの「施設案内日」の報せが届いた。試験前に、講堂や図書室の一般区画を見学できるのだという。
「行くべきだね。試験当日に迷わないよう、動線を頭に入れときな。……ついでに、例の生徒のことも、遠目でいいから面が拝めりゃ上等だ」
「深追いはしない。……見るだけだ」
案内日の学院は、志願者でごった返していた。
講堂、演習場、食堂。係の生徒に引率されて、志願者の群れがぞろぞろと巡っていく。演習場では、在校生の模範演技として、風の魔法使いが的を次々と射抜いてみせ、志願者たちから歓声が上がった。
「すっげえ……あれが学院生か……」
「おれ、あんなの勝てる気しねえよ……」
隣を歩く志願者たちの、素直な感嘆。俺は曖昧に頷きながら、内心で、サナの採点を思い出していた。――あの風使い、詠唱が三拍も無駄に長い。実戦なら、二射目の前に潰されてる。
……駄目だ、この思考が顔に出る。俺は慌てて、「田舎から出てきて圧倒されている志願者」の顔を作り直した。強く見せない訓練の成果を、こんなところで試されるとは思わなかった。
その最後に案内されたのが、図書室の一般閲覧区画だった。
高い天井まで届く書架の列。梯子のかかった壁面の棚。紙と革と、微かな黴の匂い。学院の禁書区画とは別棟の、誰でも入れる区画だというが、それでも蔵書の数は、去年の冬に見た資料室の比ではなかった。天窓から差す光の帯の中を、埃が、ゆっくりと舞っていた。
「すごい……この本、全部、読めるようになるんですね」
ユキの目が、輝いていた。彼女はきっと、入学したら、試験勉強どころではない勢いでここに入り浸るのだろう。十年分の「読めなかった本」を、取り返すみたいに。
見学の自由時間、俺は一人、書架の間を歩いていた。ユキは歴史書の棚に張りつき、他の志願者たちも、思い思いに散っている。高い書架の列は、迷路のようで、数歩も入れば、人の声が遠くなった。紙の匂いと、静けさだけの世界だった。
魔法理論の棚の前で、足を止めた。背表紙を、目で追う。属性魔法概論。詠唱構造の基礎。この中のどこかに、俺の力の端っこにでも触れる本は、あるだろうか――
「――お探し物ですか」
静かな声が、すぐ傍でした。
心臓が、跳ねた。同時に、体の奥で、刻が――ざわりと、棘のように疼いた。
足音は、聞こえなかった。この静けさの中で、人が真後ろに立つまで、俺が気配に気づかないなんてことが、あるだろうか。
振り向くより先に、わかった。
あの生徒が、そこに立っていた。
分厚い本を数冊、腕に抱えて。あの日と同じ、一分の隙もない制服姿で。伏し目がちだった目は、今は、まっすぐにこちらを見ていた。灰味がかった、静かな目だった。
「……いえ。見学で、その、見て回ってただけです」
声が、上ずらないよう、腹に力を入れた。ただの志願者。ただの田舎者。何も知らない、サヌスとして。
「そうですか。志願者の方でしたか」
生徒は、柔らかく微笑んだ。年頃は、俺と同じくらい。物腰は丁寧で、声は穏やかで――なのに、目の奥だけが、少しも笑っていなかった。
「魔法理論の棚を見る志願者は、珍しい。皆さん、大抵は実技の攻略本を探しに行くので」
「……田舎者なもので。何を読めばいいかも、わからなくて」
「ふふ。正直な方だ」
生徒は、書架に目を移し、細い指で背表紙を一冊、すっと抜き出した。
「でしたら、これを。『属性魔法の成り立ち』。古い本ですが、この国の魔法理論の骨組みが、一番わかりやすく書いてあります」
「……ありがとう、ございます」
受け取った本は、ずしりと重かった。親切だ。どこまでも、親切だった。物腰も、声も、選書の的確さも。なのに、この違和感は、なんだ。
……ああ、そうか。
目線だ。この生徒は、さっきから一度も、俺の「顔」を見ていない。見ているのは、もっと奥――皮膚の下の、俺という入れ物の中身を、検分するような目線だった。
「時計は、お好きですか」
「……え?」
唐突な問いに、声が裏返りかけた。生徒は、自分の襟元を、指先で軽く示した。丸い盤。針のない、時計。
「よく、見ていらしたので。これ、学院の技術研究会の徽章なんです。時計機構の研究をしている集まりで」
「あ……いや、その。珍しい意匠だったから、つい」
「ええ。針がないのは、変でしょう? 『完成した時計に、針はいらない』……創設者の言葉だそうです。私も、意味はよくわからないのですが」
技術研究会。徽章。創設者の言葉。
すらすらと出てくる説明は、どこまでも自然で、検証のしようがなかった。本当のことかもしれない。全部、嘘かもしれない。
生徒は、腕の本を抱え直した。
「私はガイアといいます。図書委員をしています。入学されたら、また会えるでしょう」
「……サヌスです。東部から来ました」
「サヌスさん。良い名前ですね」
ガイアと名乗った生徒は、丁寧に一礼して、書架の向こうへと歩き出した。
終わった。……やり過ごせた、のか?
手の中の重い本を抱えたまま、詰めていた息を、そっと吐き出しかけた、そのときだった。
数歩先で、足音が、止まった。
ガイアは、こちらに背を向けたまま、本の頁をぱらりと一枚めくり――世間話の続きのような、なんでもない調子で、言った。
「そういえば。不思議なことがあるんです、サヌスさん」
「……なん、でしょう」
「私、癖でして。人と話すとき、いつも頭の中で、秒を数えているんです。子供の頃からずっと。狂ったことは、一度もありません」
頁を、また一枚、めくる音。書架の谷間の静けさの中で、その乾いた音だけが、やけに大きく響いた。俺は、動けなかった。抱えた本の重さだけが、腕の中で、現実の感触を保っていた。
「なのに――あなたとすれ違うと、秒針が、一つ、飛ぶ」
ここまで読んでくださりありがとうございます!
面白かったら ↓の☆☆☆☆☆ をポチッと評価&ブクマしていただけると、とても励みになります(^^)
☆⬇️⬇️⬇️⬇️⬇️☆




