第27話「学院の門」
サナの「行商の伝手」は、口先だけではなかった。
大通りから二本外れた通りの商人宿。口の堅さが看板だという、その二階の一室が、俺たちの当面の拠点になった。相場より安く、飯がつき、何より、宿帳の名前をいちいち詮索しない。
「ここの女将とは、里の干し肉の卸で、もう五年の付き合いでね。……ま、あたしの素性も半分くらいしか知らないだろうけど、そういう間柄が、一番信用できるのさ」
夕餉は、具だくさんの豆の煮込みだった。三人で膳を囲むと、緊張続きの一日の疲れが、湯気と一緒に、少しだけほどけていく。
「キオネ、あんた、箸が進んでないね。緊張が抜けてないのかい」
「あ……いえ。その、美味しいです。ただ……」
ユキは、匙を置いて、窓の外の夕闇に、目をやった。
「レムのおじいさんは、今頃、どこで、夕飯を食べているのかなって……」
誰も、すぐには答えられなかった。休業札の几帳面な文字と、音の消えた店内が、全員の頭の中に、まだ居座っていた。
「……生きてるよ、あの爺さんは」
サナが、豆を頬張りながら、断言した。
「四十年、塔のお膝元でしたたかに生き延びてきた古狸だ。時計を全部止めて、示し合わせたみたいな謎かけまで残して消える爺さんが、そう簡単にくたばるもんかい」
「……そうですね。はい。……そう、思います」
ユキの顔に、ようやく少しだけ、血の色が戻った。
その夜。夕餉の膳を片づけた後、俺たちは車座になって、昼間の「あれ」の話をした。
「で、だ。あんたの見立てを聞かせてもらおうか。……四と、十一。あれが、ただの偶然じゃないって顔をしてたろ」
サナが、切り出した。ごまかしても無駄な目だった。俺は、一つ息を吸ってから、二人に打ち明けた。
「俺の中の十二の刻には、番号ごとに、力の中身がある。1時が加速で、3時が停止……って具合に。で、四と十一にも、あるんだ」
「四の刻は――《巻き戻し》。十一の刻は――《未来観測》」
口にした瞬間、部屋の空気が、変わった。
「時間を、巻き戻す……?」
「未来を、視る……」
「ああ。……そして、この二つは、俺が自分の意志で、一度も使ったことのない刻だ」
「使えない、じゃなくて?」
「使わない、だ」
サナの問いに、はっきりと答えた。
「《巻き戻し》は……怖すぎる。起きたことを、なかったことにする力だ。そんなもの、どれだけの対価を持っていかれるか、想像もつかない。器を超えるどころの話じゃないと思う」
「《未来観測》は……」
言葉に詰まった。隣で、ユキが、そっと俺の袖に触れた。彼女は、知っている。俺が一度だけ、意志とは関係なく「視て」しまったものを。
「……継承の、前の夜に視た、あの滅びの光景。あれが、たぶん、この刻の力だ。俺は――二度と、あんなものを視たくない」
沈黙が、落ちた。
「……で、だ。問題はここからだ。レムじいさんは、俺の刻の番号なんて、知るはずがない。俺自身、里の誰にも、番号までは話してない」
「なのに、店の時計は、全部、四と十一を指して止まってた」
「偶然……にしては、出来すぎだよね」
「じいさんは、時を扱う奴の勘所ってやつを、四十年分、持ってた人だ。俺の力の正体も、たぶん、初日から半分は察してた。……あの人なら、俺にだけ通じる言伝を、時計の針で残すことも、できたのかもしれない」
「なら、意味は? 『四と十一を使え』? それとも『四と十一に気をつけろ』?」
「……わからない」
わからない。それが、正直なところだった。使えと言われても、使わないと決めた刻だ。気をつけろと言われても、何にどう気をつければいいのか。
ふと、懐の重みを、思い出した。
じいさんの、懐中時計。
――もし、どうにもならんくなったら、裏蓋を開けてみるといい。
あの言葉が、今になって、別の重さで響いてくる。指が、無意識に、懐の蓋の縁をなぞった。
「……開けてみるのかい」
サナが、目ざとく、俺の手元を見ていた。
しばらく、迷った。それから、俺は手を離した。
「いや。……やめとく」
「なんでさ」
「『どうにもならんくなったら』って言われたんだ。……まだ、どうにもなってない。俺たちにはまだ、打てる手が残ってる。それを全部打つ前に、切り札を切るのは、じいさんとの約束が違う気がする」
サナは、少しの間、俺の顔をじっと見て――それから、ふっと笑った。
「……いい顔するようになったね、あんた」
「なんだよ、急に」
「なんでもないさ。ほら、明日は早いよ。願書の提出、朝一番に行くんだろ」
翌朝。俺たちは、学院の正門前にいた。
ふた月ぶりに間近で見る石造りの門柱は、記憶のままに厳めしかった。だが、門前の光景は、あの日とはまるで違った。
志願者の列が、門から大通りまで、延々と続いていたのだ。
「すごい数……」
「春の名物らしいよ。学院の門が、平民にも開く、年に一度の日ってね」
俺たちも、列の最後尾に並んだ。前に並ぶのは、上等な外套の商家の子息もいれば、俺たちと同じような、継ぎの当たった旅装の田舎者もいる。誰もが、緊張と期待の入り混じった顔で、順番を待っていた。
「見ろよ、あの制服。かっこいいよなあ……」
「兄ちゃん、絶対受かってよね。母ちゃん、畑売って試験料作ってくれたんだから」
「あたし、水の魔法なら村で一番だったんだから。絶対、大丈夫」
列のあちこちから、そんな声が聞こえてくる。夢と、家族の期待と、なけなしの銭を抱えて、この門の前に立つ者たち。俺たちのように、偽りの名と、別の目的を抱えて並んでいる人間は、たぶん、この列にはいない。
少しだけ、胸の奥が、ちくりとした。
去年の冬、俺とユキは、この門の前で門前払いを食った。資格も、紹介状もない、ただの逃亡者だったから。
今日は、違う。偽りの名前ではあるけれど、俺たちは「志願者」として、正面から、この門に並んでいる。
「――次。名前と、出身を」
受付の席に着いた事務官が、顔も上げずに言った。
「サヌス。東部、トーレ村から」
「キオネです。同じく、トーレ村から」
「姉弟か。……ふん、東部からとは、また遠くから来たな。適性検査と実技試験は十日後。この番号札を失くすな。宿と身元の保証人は」
「王都で行商をしている、遠縁の者が」
「結構。――次!」
あっけないほど、事務的に、手続きは終わった。掌の中の木の番号札が、やけに重く感じられた。
十日後。この札一枚が、学院の中への、正規の入り口になる。
「さて、と。願書も出したことだし……次は、あの爺さんだね」
サナの言葉に、頷いた。二つ目の目的。ヴォルフ。
あのとき、何の見返りもなく、俺たちに禁書を見せてくれた老学者。学院に潜り込むにも、内部の情報を得るにも、あの人との線を繋ぎ直すことが、何よりの近道だった。
資料室のある棟の場所は、覚えていた。志願者は書類手続きの間、敷地の一部に立ち入れる。その動線から、するりと外れて、俺とユキは、あの古い棟へと向かった。サナは正門の外で、見張りを兼ねて待機だ。
古い木の扉を、控えめに叩く。
「……開いておるよ」
しわがれた、記憶のままの声がした。
書物の壁に囲まれた部屋の奥、山積みの資料の向こうで、白髪の老学者が、顔を上げた。
丸眼鏡の奥の目が、俺を捉え――それから、隣のユキの、頭巾の陰の面差しを捉えた。
老人の動きが、止まった。
たっぷり五つ数えるほどの沈黙の後、ヴォルフは、ゆっくりと眼鏡を外し、深い、深いため息をついた。
「……驚いた。てっきり、二度とこの町には戻らんと思うておったが」
「ご無沙汰しています。……その節は、世話になりました」
「名前は、聞かんでおこう」
ヴォルフは、片手を上げて、俺の言葉を遮った。
「代わりに、こちらから聞こう。――東部から来た、志願者の姉弟君。儂に、何の用かな」
あのときと同じ、食えない老獪さだった。偽名も、事情も、何も言っていないのに、この老人は、全部を察した上で、話の枠組みを作ってくれている。
「あの、その前に……一つだけ、確かめさせてください。どうして、私たちを、通報しないんですか」
ユキが、まっすぐに問うた。ヴォルフは、少しだけ目を瞠って、それから、皺だらけの顔で、苦く笑った。
「三十年前にな。門前で『時渡りの民』と口にする若者を、儂は初めて見た。……それが、儂の恩師の、最後の教え子じゃった。その子がどうなったかは、前に話した通りじゃ」
老人の目が、遠くなった。
「二度目の若者を、儂はもう、見捨てんと決めておる。……それだけの話じゃよ」
「……ありがとう、ございます」
「礼はいらん。それで、用向きは」
「学院を、受験します。それと……あのときの続きが、知りたい。時渡りの民のこと。『塔』のこと」
ヴォルフの目が、すっと細くなった。老人は立ち上がり、扉の外の廊下を確かめてから、錠を下ろした。
「……いいか、若いの。前に会うたときとは、状況が違う」
声が、一段、低くなった。
「あれから、時渡り関連の資料は、残っておった分も含めて、すべて封鎖された。禁書区画は施錠が二重になり、鍵は学院長ですら持っておらん。管理しておるのは――『時の管理局』じゃ」
「管理局が、学院の中まで……」
「それだけではない。近頃は、妙なことが続いておる」
ヴォルフは、窓の外――敷地の奥の、禁書区画のある古い塔屋へと、目をやった。
「夜な夜な、あの閉じた区画に、灯りがともるのじゃよ。誰も入れんはずの場所に、な。……それと、時を同じくして、町では人が消え始めた。ひと月で、五人」
行方不明者。掲示板の、五枚の似顔絵。
「関係が、あると?」
「わからん。わからんが……儂の勘は、この学院の中に、ろくでもないものが棲みついておると言うておる。君らが探りに来たものは、確かにこの中にある。じゃが、それを守っておるものも、この中におる。……それだけは、忘れるな」
「……肝に、銘じます」
「うむ。……それとな、姉弟君。受験の話じゃが」
ヴォルフは、声の調子を、少しだけ緩めた。
「適性検査では、魔力の質を視られる。妙な力は、間違っても覗かせるでないぞ。試験官の中には、管理局の息のかかった者もおると聞く。……使うのは、ありふれた属性の魔法だけにしておけ」
「氷なら、あります。物心ついた頃から使ってるやつが」
「上等じゃ。氷は、東部の生まれという筋書きにも合う。……それと君は」
「は、はい」
「試験では魔法を使えるのかな」
ユキが、言葉に詰まった。封じの力は、属性魔法とはまるで別物だ。人前で使えば、一発で正体が知れる。
「……座学と、薬草学なら。里で、教わりました」
「なら、学科で稼ぐことじゃな。学院には、魔法の実技より学識を買われて入る者も、毎年おる。恥じることはない」
老人の助言は、具体的で、実際的だった。三十年、この学院で生き抜いてきた者の知恵だった。
帰り道、俺とユキは、無言で、志願者の動線へと戻った。
胸の中で、ヴォルフの言葉が、渦を巻いていた。夜の禁書区画の灯り。消える人々。学院の中に棲みつく、ろくでもないもの。
長い渡り廊下に差しかかったところで、前から、一人の生徒が歩いてきた。
上等な学院の制服を、一分の隙もなく着こなした、俺と同じ年頃の生徒だった。伏し目がちに、分厚い本を小脇に抱えて、静かな足取りで、すれ違っていく。
なんの、変哲もない光景のはずだった。
なのに――すれ違う、その一瞬。
俺の中の十二の刻が、ざわり、と蠢いた。
時計塔で感じた、あの疼きに似た――けれど、もっと小さく、もっと鋭い、棘のような感覚。
弾かれるように、振り返る。遠ざかっていく、生徒の背中。歩調は、少しも乱れていない。こちらを振り返る素振りも、ない。
だが、見えた。
その襟元で、小さな銀の意匠が、廊下の光を受けて、閃いた。
丸い、盤のかたち。
針の、ない――時計盤。
「……クロ、さん」
隣で、ユキが、掠れた声で囁いた。偽名を忘れるほどに、彼女もまた、あれを見ていた。
学院の中に、ろくでもないものが棲みついている。
ヴォルフの言葉が、たった今、輪郭を持った。
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