第26話「偽りの姉弟」
「はい、もう一回。あんたたち、名前は」
街道の道端、昼飯の握り飯を頬張りながら、サナが抜き打ちで聞いてくる。もう何十回目かの、設定の確認だった。
「サヌス。東部のトーレ村から来た、学院志望の……弟の方」
「キオネです。姉の方です」
「顔が全っ然似てないけど?」
「腹違いだからです」
ユキが、すまし顔で答える。この言い訳も、だいぶ板についてきた。
「あたしとの関係は」
「遠縁の姉さんで、付き添い。王都で行商の伝手がある」
「よし。……最後。追手に囲まれて、絶体絶命。どうする」
「「逃げる」」
「大変よくできました」
サナは満足げに頷いて、握り飯の残りを口に放り込んだ。
初めの頃は、ひどいものだった。とっさに呼ばれて振り向けなかったり、ユキが俺を「クロさん」と呼びかけて慌てて咳払いしたり。それをサナが道中、飽きもせず叩き直してくれた。今では、寝起きに「サヌス」と呼ばれても、返事ができる。
「にしても、あんたたちが姉弟ねえ。……ま、他人のふりよりは、ぼろが出にくいか」
「どういう意味だよ」
「さあね」
サナは、にやにやしながら、それ以上は言わなかった。隣で、ユキの頭巾の陰の耳が、ほんのり赤くなっていた。
白い谷を発って、二十日余り。往路はガルムに追われての最短行だったが、帰路は違う。街道を避けて大きく迂回し、途中の宿場町では、東部から王都へ向かう学院志願者の隊列を待って、そこに紛れ込んだ。時間はかかったが、そのおかげで、俺たちは今、「大勢の中の三人」だった。
雪は日ごとに嵩を減らし、街道の脇には、気の早い緑が顔を出し始めていた。季節が、確かに動いている。あの谷の皆も、今頃は東への移動の支度を進めているはずだった。
道中は、驚くほど、穏やかだった。追手の影も、視線の気配もない。だが、その穏やかさが、かえって落ち着かなかった。ガルムの「取り立て」は、まだ来ていない。来ていないだけだ。あの男の狩場の中を歩いているのかもしれない、という感覚は、王都が近づくほどに、薄い霧のようにまとわりついてきた。
「ほら、また辛気くさい顔になってる」
「……顔に出すぎだよな、俺」
「自覚があるだけ、ましさ」
サナの容赦のない指摘に、ユキがくすりと笑う。この二人がいる。それだけで、霧の中でも、足は前に出た。
そして、俺たちの前方には――再び、あの城壁が見えていた。
王都リンデール。
高く聳える城壁と、その向こうに覗く尖塔の群れ。中央には、あの時計塔が、変わらぬ姿で空を突いている。初めて見たときは、ただ圧倒されるだけだった。二度目の今は、あの白い塔身が、こちらを見下ろす巨大な目のように見えた。
あの地下に、「何か」がいる。レムじいさんの言葉を知った今、この町の景色は、もう以前と同じには見えなかった。
一度は命からがら逃げ出した町へ、今度は自分の足で、戻ってきた。
「……緊張、しますね」
隣で、ユキが頭巾の縁を、そっと押さえた。
その頭巾の下の髪は、今も、雪のように白いままだ。
出発前、俺たちは当然、髪を染めることを考えた。里の女衆が、木の実と鉄漿で作った、上等の染め粉まで用意してくれた。
だが――染まらなかったのだ。
どれだけ丁寧に染料を揉み込んでも、ユキの髪は、水を弾く油紙のように、色を受けつけなかった。乾かせば、元の白に戻ってしまう。女衆が首を捻り、染め粉を替え、三度試して、三度とも、だった。
『こんなこと、初めてだよ。この染め粉で染まらなかった髪なんて』
『……巫女の血、じゃろうな』
長老は、驚きもせずに、そう言った。
『白は、巫女の色。あなた様の血が、他の色を拒んでおるのじゃよ。……それもまた、力の証。誇りなされ』
誇れ、と言われても、追われる身には厄介なだけの体質だった。結局、髪は頭巾で隠し、どうしても見られたときは「東部の雪国の生まれは、色素が薄い者が多い」で押し通す、という苦しい設定に落ち着いた。
「大丈夫だ。堂々としてれば、案外ばれない。……俺の青髪だって、頭巾一枚で半年ばれなかったんだ」
「ふふ。そうでしたね。……はい。堂々と、します」
頭巾の縁を押さえていた手が、下りた。代わりに、その手は、隣の俺の袖を、そっと摘まんだ。人混みではぐれないための、いつもの合図だった。
城門の検問は、拍子抜けするほど、あっさりと通れた。
春は、学院の入学志願の季節らしい。俺たちのような田舎出の若者が、幟を担いだ商人の列に混じって、ぞろぞろと門をくぐっていく。検問の兵は、人相書きと照らす作業に飽き飽きした顔で、俺たちの顔を一瞥しただけで、手を振った。
「学院志願か。……次」
「は、はい。失礼します」
拍子抜けするほどの、素通りだった。志願者の波に紛れる、というサナの読みは、見事に当たっていた。人は、大勢の中の一人を、いちいち詮索しない。
「……入れた、な」
「入れましたね……」
「ほら、二人とも、きょろきょろしない。田舎者丸出しだよ。……いや、丸出しでいいのか、設定的には」
サナの軽口に、強張っていた肩から、少しだけ力が抜けた。
大通りは、記憶の中と同じ賑わいだった。パンの匂い。呼び込みの声。石畳を鳴らす馬蹄。あの噴水の広場も、菓子屋の屋台も、変わらずそこにあった。
「あ。……あの屋台」
ユキが、小さく呟いた。ミオが力説していた、東市場の焼き菓子の屋台だ。一番おいしい店。甘い匂いは、あの日のままだった。
「帰りに、寄るか。……ミオへの土産話に」
「はい。……絶対、です」
だが――歩くほどに、わかってきた。
変わって、いた。この町の、空気が。
「……なあ。兵の数、多くないか」
「ああ。あたしも数えてた。前に来たときの、倍はいるね」
通りの角ごとに、槍を持った衛兵が立っている。行き交う人々の顔も、心なしか、俯き加減に見えた。呼び込みの声は威勢がいいのに、日暮れ前だというのに、店じまいを始める露店が、やけに多い。賑わいの表面のすぐ下に、何かを警戒する空気が、薄く張っていた。
その理由は、広場の掲示板の前で、わかった。
人だかりの向こう、板に貼られた紙には、五人分の似顔絵と名前が並んでいた。
『尋ね人。以下の者、行方を知る者は衛兵詰所まで』
「行方、不明……?」
「五人。……ここひと月で、五人だってさ」
人だかりの中の話し声に、耳を欹てる。夜勤明けの職人が帰ってこない。市場の娘が使いに出たきり戻らない。共通点はないが、皆、夜に消えている。衛兵は野盗の仕業と言うが、王都の中で野盗など聞いたこともない――。
「気味が悪いったらないよ。うちの人にも、夜歩きはさせられないね」
「学院の生徒も、日暮れ前には寮に戻れって、お達しが出たらしいよ」
囁き交わす声には、皆、同じ色の不安が滲んでいた。似顔絵の五人は、老いも若きも、男も女も、ばらばらだった。ばらばらであることが、かえって、不気味だった。誰でもよかった、ということだからだ。
ユキと、視線が合った。声には出さない。だが、考えていることは、同じだった。
この町では、「時」に触れた者が、消される。レム老人の同僚は、家族ごと消えた。そして今、ひと月で五人。
「……考えすぎなら、いいけどね」
サナが、低く呟いた。誰も、考えすぎだとは、言い返せなかった。
嫌な予感を抱えたまま、俺たちは、大通りを外れた。
宿を探すより先に、確かめたいことが、二つあった。
一つ目は、裏路地の、あの印。
ミオが描いた、十二の刻みの導き。彼女の話では、印は消えにくいチョークで、雨に濡れても数ヶ月は残るはずだった。合流の目印にも、伝言にも使える、俺たちとミオを繋ぐ、細い糸。
出発の朝、手の甲に印を描きながら、ミオは言っていた。『王都の印は、そのままにしてあります。もし、はぐれたり、伝えたいことができたりしたら、印のそばに書き置きを』と。あの得意げな顔を、思い出す。
最初の路地。雨樋の陰。
――ない。
「…… サヌス、さん」
ユキが、素早く周囲に目を走らせてから、囁くように偽名で呼んだ。人気のない路地でも、決めた呼び方を崩さない。訓練の成果は、俺よりも彼女の方に、よほど徹底して表れていた。
二本目の路地。木箱の裏。
ない。
三本目も。四本目も。
正確には、「消えて」いた。壁の漆喰に、擦った跡がある。誰かが、布か何かで、丁寧に、一つ残らず、拭き取っていた。
「雨や風じゃ、ないね。こりゃ……人の手だ」
サナが、擦り跡を指でなぞって、低く言った。
腹の底が、冷えた。
以前、俺自身が、最初の印を一つ、袖で擦り消したことがある。塔の印だと、誤解して。だが、これは違う。あのときの俺のような、偶然の一つじゃない。五つの印、その全部が、印と知った上で、系統立てて消されている。
あの印の意味を知る者は、俺たち以外にいないはずだ。少なくとも、味方の側には。
俺たちとミオを繋ぐ糸が、一本ずつ、断ち切られている。
「……ミオちゃんに、知らせないと」
ユキの声が、掠れた。
「ああ。けど、その手紙をどこに預けるかも……慎重にやらないとな」
「二つ目、行こう。……時計店だ」
早足で、あの古い区画へと向かった。石畳の欠けた道。時を重ねた家々の屋根。歩きながら、俺は、レムじいさんの顔を思い浮かべていた。
儂は残る。この店が、儂の持ち場じゃ――そう言って、あの朝、笑って送り出してくれた老人。年寄りの心配より自分の心配をせい、と。懐の奥には、あの人がくれた懐中時計が、今も変わらず、かち、かち、と時を刻んでいる。
無事でいてくれ。祈るような気持ちで、記憶を頼りに角を曲がると、見覚えのある色褪せた看板が、目に入った。
『歯車と振り子の店 レムの時計店』
その扉に――白い札が、掛かっていた。
『都合により、休業いたします』
「……じい、さん?」
札の文字は、几帳面な、見覚えのある筆跡だった。少なくとも、これを書いたのは、じいさん本人だ。なら、自分の意志で店を閉めたのか。それとも――書かされたのか。
扉を叩く。三回、二回、三回。ミオの合図。
返事は、ない。
もう一度。強く。
沈黙だけが、返ってくる。
「サヌスさん、窓……!」
ユキが、埃っぽいガラス窓に、顔を寄せていた。俺も並んで、店内を覗き込む。
薄暗い店の中は、記憶のままだった。壁一面の時計。棚の時計。作業台の上の、直しかけの時計。あの晩、茶を淹れてくれた奥の居間への戸も、半分開いたままになっている。荒らされた様子はない。ただ、主の姿だけが、なかった。
そして――気づいた。
「……音が、しない」
あの店は、いつだって、幾重にも重なる振り子の音で、脈打つように満ちていた。じいさんが「王都で一番正確」と胸を張った、何十という時計の鼓動。この店そのものの、心臓の音。
今は、無音だった。
壁の時計も、棚の時計も、振り子は皆、力なく垂れ下がったまま、動いていない。一つ残らず、止まっていた。
「全部、止まって……そんな……」
「じいさんが、店を空けるにしたって……時計を止めていくなんてこと、あるのかい」
サナの声も、硬かった。あの老人にとって、時計は商品である前に、四十年連れ添った相棒のはずだ。それを、全部止めて出ていく。まるで――この店の時間そのものを、閉じていったかのように。
ガラスに額を付けるようにして、店内の文字盤を、一つずつ、目で追った。
そして、心臓が、嫌な音を立てた。
「……おい。針を、見てくれ」
「針……?」
「全部の時計の針が――同じところを、指してる」
大きな柱時計も。棚の置き時計も。作業台の小さな懐中時計さえも。
どの文字盤の上でも、二本の針は、寸分違わず、同じ形で止まっていた。
短針は、四を。
長針は、十一を。
「……本当だ。気味が悪いね。全部の時計が、同じ時に力尽きるなんてこと……」
「あり得ません。ぜんまいの残りも、振り子の癖も、一つずつ違うはずですから」
ユキが、掠れた声で言った。時計店の孫娘のような日々を、あの数日で過ごした彼女の言葉には、妙な説得力があった。
偶然、同じ時に止まったのでは、ない。
なら、誰かが、一つずつ、この形に合わせて止めたのか。それとも――何かが、この店の時間ごと、この形で止めたのか。
四と、十一。
胸の奥で、俺の中の何かが、ざわりと蠢いた。あの、時計塔に足を踏み入れたときと同じ、十二の刻の疼き。
四の刻と、十一の刻。《巻き戻し》と、《未来観測》。
――どちらも、俺がまだ一度も、自分の意志で振るえたことのない刻だった。
これは、偶然か。それとも――じいさんが、俺にだけわかる形で遺した、言伝なのか。
意味も、答えも、わからないまま。ガラス越しの薄闇の中で、動かない針だけが、静かに、こちらを指していた。
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