第25話「青き目覚め」
目覚めから、二日が経った。
白い谷には、槌音が響いていた。壊れた柵を直す音。矢を受けた屋根を葺き直す音。戦いの爪痕を、里の皆が、手分けして消していく。その音は、不思議と暗くなかった。誰も死ななかった。それだけで、槌を振るう腕には、確かな力が籠っていた。
「おう、若いの! もう出歩いていいのか!」
三角巾で右腕を吊ったドドさんが、無事な左手で器用に釘を咥え、屋根の上から声を投げてくる。
「ドドさんこそ、その腕で屋根の上は、まずいでしょう」
「がっはっは! 足は二本とも無事だからな!」
理屈になっていない理屈で笑い飛ばし、ドドさんはまた、片手の作業に戻っていった。あちこちで、そんな遣り取りが聞こえてくる。壊されたものを直す音と、軽口と、笑い声。この里は、たぶん、大丈夫だ。そう思えた。
俺はといえば、ようやく寝床から出る許しをもらい、日当たりのいい縁側で、ミオの拵えた粥を食っていた。
「クロ様、おかわりは!」
「……三杯目は、さすがに」
「だめです! 三日分、食べてないんですから!」
有無を言わさず椀を奪われ、四杯目が盛られて戻ってくる。ミオの看病は、献身的で、そして少々、強引だった。
その隣で、ユキが、くすくすと笑っていた。
彼女とは、あれから、記憶の話をしていない。正確には――切り出せずに、いた。
俺が失くしたのは、ただの戦闘の場面じゃない。彼女が勇気を振り絞って口にした「二人なら」と、それに俺が返したという「両輪だろ」。二人の誓いが、初めて実戦で形になった、その瞬間だ。
彼女の中にだけあって、俺の中にない時間。それが、どうしようもなく、申し訳なかった。
「……あの、な。ユキ」
粥を食い終えて、意を決して、切り出した。
「あの夜のこと……悪かった。ユキが言ってくれた言葉ごと、忘れちまって」
ユキは、少しだけ目を瞠って、それから、ゆっくりと首を横に振った。
「謝らないでください。あれは、クロさんが私を……この里を、守るために払ったものです。謝られたら、あの夜のクロさんが、可哀想です」
「けど……」
「それに」
ユキは、悪戯っぽく、少しだけ笑った。
「忘れたなら――また、言わせればいいだけです。何度でも。……私、諦めが悪いんです。クロさんの、おかげで」
参った。完敗だった。
「……ああ。何度でも、言うよ」
「ふふ。楽しみにしてます」
その夜、社殿の囲炉裏端に、皆が集まった。
長老、サナ、腕を吊ったドドさん、ミオ、ユキ、俺。戦いの後始末と、これからの話をするための、評定だった。
「まずは、これじゃな」
長老が、最初に俺を見た。
「おまえさんの『対価』の話。三日、眠るおまえさんの体を診ながら、儂なりに、古い伝承と突き合わせてみた」
囲炉裏の火が、爆ぜた。
「時の理の行使にはな、二重の払いがある。一つは、体力。おまえさんがいつも倒れかけておる、あの消耗じゃ。これは、器の内側――おまえさんの『器』に収まる範囲の行使なら、払いは体力で済む」
「器……」
「じゃが、器から溢れた分は、そうはいかん。溢れた分の払いは――おまえさん自身の、生きた時間で清算される」
生きた時間。
「記憶、ってことですか」
「記憶は、生きた時間の器じゃからな。あの夜、おまえさんは、器を大きく超える力を振るった。その超過の分が、あの夜の記憶と、三日の眠りで、支払われた。……そういう理屈になる」
囲炉裏を囲む顔が、皆、重く沈んだ。
「じゃあ……継承の日に、夕暮れが丸ごと消えたのも。それに、初めて力に触れた、あの高熱の夜も」
継承のあの日。目覚めた後、瞬きの間に、窓の外の夕暮れが夜に変わっていた。そして、力の芽に初めて触れた冬の夜。目覚めたとき、俺は、前日の夕方からの記憶を、丸ごと失くしていた。ただの熱のせいだと、ずっと思っていた。
「おそらくは、な。目覚めたばかりの、小さすぎる器で、大きすぎるものを受け取った。その払いじゃろう」
一年越しに、あの二つの欠落の意味が、埋まった。
精霊が言った『対価』の正体。それが、ようやく、輪郭を持った。この力は、使いすぎれば、俺の生きた時間を――俺が俺である証を、削っていく。
隣で、ユキが、俺の袖を、そっと握った。何も言わなかった。ただ、その手の熱だけが、「一人で聞かせない」と言っていた。
「……なら、俺は、もう大きな力は」
「使うな、とは言わん」
長老は、きっぱりと言った。
「器は、広げられる。体力に限りがあっても、鍛えれば増えるのと同じじゃ。時の理の器も、正しく使い、正しく鍛えれば、少しずつ広がっていく。……方針は、決まったの。おまえさんはこれから、『器を広げる』。溢れさせぬために、な」
器を、広げる。
削られるのを恐れて力を封じるのでも、代償を無視して振るうのでもなく。自分の器そのものを、育てていく。それは、恐怖と付き合いながら前へ進む、俺たちらしい答えの形だった。
「ガルムの言葉が、一つ、気になっとる」
長老が、続けた。
「『時の理は、二度目から遅くなる』。……意味は、儂にも測りかねる。じゃが、あの男は、時の理を扱う者を、何人も『納めて』きたはずじゃ。あれは、知っておる者の言葉じゃよ」
「次に会うときまでの、宿題ってわけかい」
サナが、腕を組んだ。
「で、その『次』の話だけどね。あたしは、来ると思う。あいつは量り仕舞い――値付けをして帰った。商人が値付けの次にやることは、決まってる。……取り立てさ」
「うむ。じゃから、里は動く」
長老の声に、迷いはなかった。
「雪解けを待って、谷を畳む。東の山向こうに、こういうときのために備えてきた避難所がある。……惜しむ者もおろうが、命あっての里じゃ。場所は変わっても、皆がおれば、里は里よ」
十年かけて作った居場所を、捨てる。その決断を、長老は、夕餉の献立でも決めるように、淡々と告げた。里の者たちも、誰一人、喚かなかった。逃げ延びた民の強さとは、こういうものかと、胸を衝かれた。
「それで――おまえさんたちは、どうする」
視線が、俺とユキに集まった。
答えは、ユキと二人、昨日のうちに、話し合って決めてあった。縁側で、粥の椀を挟んで。逃げ続けるのか、隠れ続けるのか、それとも――と、選択肢を数え上げて、最後に二人で行き着いた答えは、同じだった。
「王都へ、行きます」
俺は、皆の顔を、順に見ながら言った。
「巫女の役目の中身。塔の正体。俺の名前の謎に、対価の理。……知らなきゃいけないことが、山ほどある。で、その記録がありそうな場所は、一つしかない。学院です」
「学院て、あんた。追われの身で、王都のど真ん中に?」
「隠れてるだけじゃ、また泳がされるだけだ。なら、向こうの懐で、こっちが探る番だと思う。……幸い、伝手もある」
ヴォルフの、皺深い顔を思い浮かべながら、言った。
「私も、同じ気持ちです」
ユキが、静かに、けれどはっきりと続けた。
「母が守っていたものの正体を、知りたい。知った上で、自分の意志で、役目と向き合いたいんです。……逃げるためじゃなくて、迎えに行くために、王都へ行きます」
「はっ。言うようになったじゃないか。二人とも」
サナが、愉快そうに笑って、それから、当然のように付け加えた。
「なら、あたしも行くよ。里の護衛はドドたちで足りる。あんたら二人だけじゃ、心配で夜も眠れやしない」
「サナが行ってくれるなら、百人力じゃな」
長老が頷き、ドドさんが「谷は任せろ」と、吊った腕とは逆の拳で胸を叩いた。
「サナお姉ちゃん……じゃ、じゃあ、私も!」
「ミオは、駄目じゃ」
長老の静かな一言に、ミオが、弾かれたように振り返った。
「なんで……! 私、役に立ちます! 隠形だって、伝令だって……!」
「役に立つからこそ、じゃよ。里は、これから谷を畳んで、東へ動く。年寄りと子らを連れた、長い道中じゃ。……先の目と、隠れ蓑がいる。おまえの力が、一番いる場所は、そこじゃ」
「……っ」
ミオは、唇を噛んで、俯いた。小さな拳が、膝の上で震えている。正しさと、寂しさの間で、十歳の心が、必死に折り合いをつけようとしていた。
やがて、少女は、顔を上げた。
「……わかり、ました。里は、私が守ります」
「よう言うた」
出発は、三日後の朝と決まった。
その三日、ユキは里の女衆と、保存食だの繕い物だのに追われ、俺はサナに「器を広げる第一歩」と称した地獄の鍛錬に付き合わされた。
「ほら、もう一本! 器ってのはね、限界の一歩手前を往復して広げるもんなんだよ!」
「それ、雷の理屈だろ……! 時の理も同じとは、限らな……っ」
「泣き言は器が広がってから!」
雪の河原に転がされること、数えて三十七回。理不尽な特訓ではあったが、不思議と、嫌ではなかった。恐れて縮こまるより、広げるために転がる方が、ずっと性に合っていた。
夜は毎晩、囲炉裏端で、ミオが「王都で気をつけること」を、先輩面で延々と講義してくれた。
「いいですか、クロ様。王都の屋台で一番おいしいのは、東市場の焼き菓子です。でも三番目の屋台はだめです。おじさんがけちなので、餡が少ないです」
「気をつけることって、そういう……?」
「そういうのが、一番大事なんです!」
大真面目な顔で言い切る少女に、囲炉裏端は、笑いに包まれた。ユキが笑い、サナが笑い、長老が目を細める。この温度を、忘れないでおこうと思った。どこへ行っても、何があっても。
そして、旅立ちの朝が来た。
谷の入り口に、里の全員が、見送りに並んだ。
「ユキ様。……いや、ユキ。どうか、達者で」
長老は、最後だけ、様を付けずに呼んだ。皺だらけの両手が、もう一度、ユキの頬を包む。初めて会った日と、同じ仕草で。
ユキは、涙を堪えて、深く、深く、頭を下げた。
「行ってきます。……必ず、全部を知って、帰ってきます。今度は、私が、皆を守れるように」
最後に、ミオが、俺とユキの前に立った。
昨夜まで、あんなに賑やかだった少女は、今朝は、じっと唇を結んでいた。泣くまいと決めてきた顔だった。あの夜、社殿へ避難していく幼子たちと、同じ顔。この里の子は、泣き方より先に、隠れ方と、我慢の仕方を覚えて育つのだ。
差し出された小さな手には、白いチョークが、一本、握られていた。
「手、出してください。二人とも」
言われるまま出した手の甲に、ミオは、真剣な顔で、小さな印を描いた。円を描く、十二の刻み。あの、王都の路地で俺たちを導いた、彼女の印だった。
「私たちの、印です。消えても、汚れても、ここに描いたことは、消えません。……道に迷ったら、思い出してください。この印の先には、いつでも、私たちがいます」
いつか袋小路の壁で見た、あの五文字を思い出した。にげないで。書き切れなかった続きは、「私たちがいます」だった。あの日から今日まで、この小さな導き手は、ずっと、同じことを言い続けてくれている。
「……ああ。忘れない」
「ミオちゃん……ありがとう」
ユキが膝をつき、小さな体を、強く抱きしめた。ミオは一度だけ、ぐす、と鼻を鳴らして――それから、ぱっと体を離し、精一杯の笑顔を作った。
「さよならは、言いません! 『またね』です! またね、クロ様、ユキお姉ちゃん!」
「ああ。またな、ミオ」
「はい! ……またね!」
雪の谷道を、俺たちは歩き出した。
サナが先頭で、ユキが隣で。手の甲の白い印は、朝の光の中で、まだくっきりと残っていた。振り返れば、白い谷は朝日の中で、いつまでも手を振る小さな影ごと、静かに輝いていた。
村を出る前は、俺はただの子供だった。滅びの未来に怯えるだけの、独りぼっちの子供だった。
今は、違う。
隣に、対となる誰かがいる。背中を預けられる仲間がいる。帰りを待つ場所が、二つもある。そして、進むべき道の先に――解くべき謎と、倒すべき敵が、はっきりと見えている。
十二の刻は、まだ、その半分も目覚めていない。
俺たちの物語も、きっと、同じだ。
行く手の空は、どこまでも青く澄んでいた。雪解けの水音が、遠くで、春の始まりを告げていた。
――第一章「青き目覚め」、了。
第一章「青き目覚め」、これにて完結です。ここまでお付き合いくださった皆様、本当にありがとうございます。
滅びの未来に怯えるだけだった村の子供が、対となる誰かと、背中を預けられる仲間と、帰りを待つ場所を見つけるまでの二十五話でした。
第二章「消えぬ影」は、舞台を再び王都へ。偽りの名前で学院に潜り込む、潜入編の始まりです。
ブックマーク・評価・感想、いつも大きな励みになっています。クロとユキの旅の続きも、見届けていただけたら嬉しいです。




