第24話「白い谷の戦い」
角笛の残響が消えるより早く、社殿の中の全員が、動き出していた。
「ドドは前へ! 弓の者は物見に上がれ! 女子供は社殿の奥じゃ!」
長老の声が、老いを感じさせない鋭さで、夜気を裂いた。谷のあちこちで戸が開き、松明の灯りが、次々と雪の上を走り始める。混乱は、なかった。誰もが、自分の持ち場を知っていた。十年間、この夜が来ることを、覚悟し続けてきた人たちの動きだった。
女衆に手を引かれた幼子が、泣きもせず、じっと唇を結んで社殿へと駆けていく。この里の子は、泣き方より先に、隠れ方を教わって育つのかもしれない。そう思った瞬間、腹の底が、静かに熱くなった。
――守る。この谷を。今夜、絶対に。
「敵は西と北の尾根! 数、三十!」
物見からの声が、谷に谺した。三十。里の戦える人間は、十人に満たない。
「クロ、ユキ様! 社殿への道を固めるよ!」
サナの指先には、もう紫電が爆ぜていた。社殿へと続く谷の細道――両側を岩に挟まれた隘路が、里の生命線だった。ここさえ抜かれなければ、非戦闘員のいる社殿までは届かない。
「ミオは隠れて、伝令と誘導! 戦うんじゃないよ!」
「は、はいっ!」
隠形を纏って、ミオの姿が雪に溶けた。姿は消えても、あの子がすぐそこにいる。それだけで、背中の守りが一枚、増えた気がした。
俺は、隘路の入り口に立ち、右手を地面へ向けた。
「――凍れ」
雪の下の土ごと、斜面を氷で塗り固める。降りてくる敵の足場を、片っ端から崩すためだ。時間の力は、まだ使わない。長老の言葉が、頭にあった。倒れる順番を、間違えるな。
最初の影が、尾根の闇から躍り出た。
そこからは、音の洪水だった。
矢が風を切る。ドドさんの弓だ。一人、二人、斜面を転げ落ちる。氷の足場に踏み込んだ敵が体勢を崩したところへ、紫の閃光が突き刺さる。焦げた匂い。悲鳴。雪煙。
「次、来るよ! 左!」
「わかってる!」
氷の壁を斜めに立て、突っ込んできた二人をまとめて滑落させる。点で受けて、点で返す。サナに叩き込まれた通りに、体が動いた。三日間の稽古が、まさか三日後に命を繋ぐことになるとは、あの鬼教官も思っていなかっただろう。
「兄さん、腕を上げたじゃないか!」
「誰のしごきのおかげだよ!」
叫び返しながら、次の氷を編む。呼吸は、まだ持つ。頭も、回っている。
だが、敵も、ただの兵ではなかった。三人目からは、氷の足場を避け、岩伝いに降りてくる。統率が取れていた。一人が倒れても、誰も足を止めない。あの夜の、王都の男たちと同じ――駒として磨き抜かれた動きだった。
「っ、鏃!」
サナの声と同時に、頭上から矢の雨が降った。氷の庇を頭上に張る。砕ける音が、断続的に響く。防ぎきれない一本が、掠めた頬に、熱い線を引いた。
押されている。じわじわと、確実に。
「クロ様! 東の岩の上、三人、回り込んできてます!」
どこからともなく、ミオの声だけが飛んでくる。姿の見えない伝令は、この乱戦で、何よりの目になっていた。声の示す先へ氷を走らせると、案の定、岩陰から突っ込みかけていた影が、足を取られて転がり落ちた。
「ないす、チビ助!」
「えへへ……じゃなくて! 次、西です西!」
戦場のど真ん中だというのに、二人のやり取りには、妙な調子の良さがあった。恐怖で固まりそうになる体を、その軽さが、辛うじて動かし続けてくれていた。
そのときだった。
隘路の奥――社殿側から、ざり、と雪を踏む音がした。
振り返る。
心臓が、止まりかけた。
大柄な影が、一つ。松明の灯りの届かない闇の中に、静かに立っていた。左目の古い刀傷。首元で鈍く光る、針のない時計盤。
「……なん、で」
ガルム。
前線は、尾根のはずだ。なのに、この男は、俺たちの背後――社殿側に、いた。まるで、最初からそこにいたかのように。
いつからだ。どうやって。里の入り口の封は、破られていないはずだ。答えの出ない問いが、頭の中を駆け巡る。だが、一つだけ、はっきりしていることがあった。この男と社殿の間に、今、立っているのは――俺とユキだけだ。
「囲みは囮だ。頭を潰すのに、正面から行く馬鹿はいない」
低い声が、淡々と告げた。
「サナ! 前は任せた!」
「っ、あんた一人で――」
「一人じゃない」
隣に、ユキが並んだ。白装束のまま、まっすぐに、ガルムを見据えて。
ガルムの目が、僅かに細められた。
「……よく育った。二人ともな」
「あんたの目的は、なんだ」
「仕事だ」
男は、事も無げに言った。
「目覚めた巫女と、時の理の小僧。二つ揃えて、『塔』へ納める。……十年、待った甲斐があったというものだ」
納める。人間を、荷物のように。
「セレスティアを焼いたのも、その『仕事』か」
十年前の記憶の中の、若きこの男の姿を思い出しながら、俺は吐き捨てた。ガルムの表情は、ぴくりとも動かなかった。
「古い話だ。……よく知っているな、小僧」
否定は、しなかった。それが、答えだった。
「断る、と言ったら」
「変わらん。頷こうが、泣こうが、仕事は仕事だ」
ガルムが、腰の剣を、抜いた。構えは、なかった。ただ提げただけの、その立ち姿から、氷水のような殺気が、隘路を満たしていく。
来る。
「《1時・加速》!」
世界が、引き延ばされる。加速した知覚の中で、俺は横へ跳び、氷の槍を三本、同時に放った。
速い。それでも――ガルムの剣は、もっと速かった。
三本の氷が、三つの欠片になって、雪に落ちる。振り抜かれた剣の軌道すら、加速した目でも、線にしか見えなかった。
「ほう。以前より、捌きが良い」
「っ、く……!」
打ち合いにすら、ならない。剣の腹で払われ、蹴りで吹き飛ばされ、雪の上を転がる。肺から、空気が絞り出された。
「クロさん!」
「来る、な……!」
立ち上がる。膝が笑っていた。加速の消耗が、もう脚に来ている。この男は、強い。半年前とは比べ物にならないはずの今の俺で、なお、届かない。
思い知らされたのは、絶望よりも、むしろ落差だった。サナに勝てないのとは、質が違う。サナの強さは、目指せる高さにある。この男の強さは――費やしてきた年月と、屍の数が、根本から違う。
ガルムが、ユキへと、向き直った。
「先に、巫女からだ」
男の腕が、閃いた。抜き打ちに投じられた短刀が、まっすぐに、ユキの肩口へ。
間に合わない――
「――『とどまれ』!」
ユキの両手が、前へ突き出された。
雪色の光が、迸る。
短刀が――止まった。
ユキの眼前、指一本分の距離で。空中に、縫い留められたように。刃は小刻みに震え、光の糸に絡め取られたまま、それ以上、一寸も進めずにいた。
「……止め、た……」
ユキ自身が、一番驚いた顔をしていた。昨夜取り戻したばかりの、封じる力。その初めての実戦が、自分の命を、自分で守った瞬間だった。
思わず、見入っていた。物を凍らせるのでも、弾くのでもない。動きの理そのものを、縫い留める力。俺の「停止」が時を止めるのだとしたら、彼女のそれは――動きを、封じている。似ているようで、まるで違う。なるほど、対の力とは、こういうことか。
「ほう」
ガルムの声に、初めて、明確な熱が灯った。
「『封』か。……なるほど。それが、十年育てた実の味か」
短刀が、力を失って雪に落ちる。ユキは荒い息のまま、それでも両手を下ろさなかった。
「クロさん……! 私、やれます! 二人なら――」
二人なら。
その言葉の続きを、俺は、覚えていない。
覚えているのは、そこまでだ。ユキの声。突き出されたままの、白く光る両手。ガルムの、値踏みするような目。頬を刺す夜気。そこで――途切れている。
――そこから先の記憶が、ない。
気づいたとき、俺は、知らない天井を見ていた。
板張りの、見慣れない木目。囲炉裏の火の爆ぜる音。誰かの、寝息。
「……こ、こ……」
掠れた声を出した瞬間、傍らで影が跳ねた。
「クロ様!? 目が覚めた……目が覚めたんですね!? 長老様ぁー! クロ様がー!」
ミオの声が、家中に響き渡る。ばたばたと足音が集まってくる。サナ、ドドさん、長老――そして、目を真っ赤に腫らした、ユキ。
その顔ぶれを、順番に見た。全員、いる。欠けた顔は、一つもない。それを確かめただけで、視界が、少しだけ滲んだ。
「クロ、さん……」
「……よう。ここ、どこだ」
「里の、私たちの家です。あれから……あれから、三日も、眠ってたんですよ……」
三日。
言葉の意味が、すぐには飲み込めなかった。あれから? あれからって、どこからだ。
体を起こそうとして、腕が震えた。三日分の空腹と、それ以上の、底の抜けたような倦怠感。ミオがすかさず背中に丸めた毛布を差し込み、ユキが白湯の椀を、両手で支えて口元まで運んでくれた。一口含むと、温かさが、胃の底まで染み渡った。
「敵は……ガルムは、どうなった」
「引いたよ」
答えたのは、サナだった。囲炉裏の縁に腰を下ろし、いつになく静かな目で、こちらを見ている。
「あんたが、あの土壇場でやらかした後にね。……ガルムの奴、剣を納めて、こう言ったのさ。『量り仕舞いだ。いい値が付いた』ってね」
「量り、仕舞い……?」
「値付けさ。今夜は殺しに来たんじゃない、測りに来たんだ、ってことだろうよ。……胸糞の悪い話だけど、おかげで、誰も死んじゃいない。怪我人は出たが、全員、命は繋がってる」
誰も、死んでいない。その一言に、体中の力が、抜けた。
「ドドさんは」
「腕を一本、折られたがな。骨がくっつく頃には、また弓を引けるさ」
戸口から顔を出したドドさんは、三角巾で吊った右腕を、無事な方の手で叩いてみせた。その豪快な笑顔に、また少し、胸のつかえが取れた。
「けどな、若いの。礼を言うのは、こっちの方だ。……あんたら二人がいなけりゃ、この谷は、今夜で終わってた。里の全員が、そう思ってるよ」
「それと、置き土産みたいに、妙なことを言い残していった。……『時の理は、二度目から遅くなる』と。あんた宛てだろうね。意味、わかるかい」
「……いや」
わからない。わからないが、嫌な言葉だった。あの男の言葉は、脅しですらなく、いつも、ただの事実の通告だった。だからこそ、意味のわからない通告ほど、恐ろしいものはなかった。
そして、それ以上に――さっきから、ずっと、胸の奥がざわついていた。
思い出せ。あの隘路。ガルムの剣。ユキの「とどまれ」。短刀が落ちて、ユキが何かを言って――そこで、途切れている。糸が、ぷつりと切れたように。
「なあ。俺は……あのあと、何をしたんだ」
部屋の空気が、変わった。
サナとドドさんが、顔を見合わせる。長老の目が、すっと細くなる。そして、ユキが――ユキの顔から、みるみる、血の気が引いていった。
「クロさん……覚えて、ないんですか」
「……悪い。ガルムの短刀を、ユキが止めたところまでは、覚えてる。その先が……ない」
「私が『二人なら』って言って……クロさんが、笑って、言ってくれたんです。『ああ――両輪だろ』って。それで、二人で、あの人に……」
ユキの声が、震えて、途切れた。
両輪だろ。
俺が? 言った? ……思い出せない。言葉も、光景も、何一つ。まるで、最初から、そんな時間など存在しなかったかのように。
必死に、記憶の底を浚った。何度なぞっても、同じだった。ユキの「二人なら」の声の、その先。夜の隘路の、その続き。あるはずの場所に、何もない。
そして、思い出した。継承のあの日、精霊が残した、あの言葉を。
『継承には、対価がいる』
ずっと、わからなかった。あれから何度力を使っても、疲労の他に、支払っているものが見えなかった。だが、もし。もし、対価が「疲労」なんて生易しいものじゃなかったと、したら。
囲炉裏の火が、爆ぜた。
遅すぎる理解が、項から、ゆっくりと骨を伝い下りていった。
俺の中から、あの夜の一番大事な一頁だけが――綺麗に、破り取られていた。
ここまで読んでくださりありがとうございます!
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