第23話「雪のうた」
『――こちらへ! 姫様、神殿の奥へ!』
記憶の中の世界が、激しく揺れた。
母の腕に抱かれたまま、幼いユキの視界が、燃える回廊を駆け抜けていく。ついさっきまで、光の魚が泳いでいた中庭。老神官と物語を読んだ書庫の扉。その全部が、赤い光に舐められ、黒い煙に呑まれていく。
すれ違う神官たちが、口々に何かを叫んでいた。逃げ惑う足音。崩れる梁の音。窓の外を、火の粉が、雪と混じって舞っていた。美しかった雪の都の、断末魔の光景だった。
幼いユキには、その意味の半分も、わかっていなかっただろう。ただ、母の胸にしがみつき、母の匂いの中に、顔を埋めていた。恐怖の中で、それだけが、世界のすべてだった。
『皆は、子らを連れて先に落ちよ! 手はず通りに!』
『姫様は――』
『わたくしには、まだ、果たすべき務めがあります』
母の声は、張り詰めていた。けれど、幼い娘を抱く腕の力だけは、最後まで、少しも揺らがなかった。
『かかさま、こわい……こわいよぅ……』
『大丈夫。大丈夫ですよ、ユキ』
走りながら、母は娘の耳元に、何度も何度も、同じ言葉を落とした。まるで、その言葉ごと、娘の中に遺そうとするように。
やがて、重い扉が開かれ、閉じられた。
喧騒が、遠のく。
そこは、神殿の最奥――祭壇の間だった。
天井の高い、静かな部屋。祭壇の奥には、雪の結晶を象った国章。格子窓から差し込む月の光が、燃える都の赤に侵されながら、それでもまだ、白く床を照らしていた。
母は、幼いユキを、控えていた若い神官の腕に、そっと預けた。
『あなたに、この子を託します』
『姫様……!』
若い神官の顔に、見覚えがあった。深い皺が刻まれる前の――あの長老の、十年前の顔だった。まだ、壮年の。
『必ずや。この命に代えましても、必ずや、お守りいたします』
『命に代えては、なりません』
母は、静かに、けれど強く、首を横に振った。
『生きて、守りなさい。生き延びた者だけが、この子の帰る場所になれるのですから』
その言葉の通りに、この人たちは、十年間、生きて、待っていたのだ。白い谷で。あの涙の出迎えの意味が、今さらのように、胸に迫った。
母は、それから、祭壇の前へと歩み出た。
こちらに、背を向けて。
月光の中、白い巫女装束の背中が、祭壇の前に、まっすぐに立つ。長い白髪が、月の光を受けて、静かに佇んでいる。両手を組み、頭を垂れ、祈りを――。
「――ッ」
視界の外で、観ているだけの俺の意識が、凍りついた。
この後ろ姿を、知っている。
古い祭壇。白い髪。祈るように立つ、その背中。
精霊の記憶の奔流の中で、一度だけ過ぎった、あの光景。継承の夜、押し寄せる何百年分の記憶の中で、なぜかその一片だけが、妙に鮮明だった。祈るような想いと共に、精霊が見つめていた――誰かの、後ろ姿。そして、いつかユキが話してくれた、繰り返し見るという夢。祭壇の前の白い後ろ姿が、振り返る寸前で、闇に呑まれる――あの夢と。
同じだ。寸分違わず、同じ構図だった。
なぜだ。
なぜ、精霊の記憶の中に、この人がいる。何百年を生きた精霊と、十年前に逝った、ユキの母。二つの存在は、どこで、どう繋がっている。
問いは、記憶の流れに呑まれて、形になる前に押し流された。
母の祈りが、終わる。
彼女は振り返り、神官の腕の中の娘の前に、膝をついた。燃える都の音が、扉の向こうで、まだ続いている。時間が、ないのだ。
『ユキ。……よく、お聞きなさい』
『かかさま……?』
『あなたはこれから、長い、長い旅に出ます。かかさまは、一緒に行けません』
『やだ……! やだ、かかさまも、いっしょ……!』
小さな手が、母の装束に縋りつく。母は、その手を、両手でそっと包んだ。ああ――と、思った。町で、ユキがしてくれた仕草と、同じだった。冷えた手を包む、あの温め方。彼女は、覚えていなかったはずなのに。体だけが、ずっと、覚えていたのだ。
『ごめんなさいね。……でも、これだけは、忘れないで。あなたが忘れてしまっても、あなたの中から、なくなりはしないから』
母は、娘の額に、自分の額を、こつりと合わせた。
『あなたは、愛されて生まれてきた。この国の、誰よりも。……そして、いつか』
母の声が、初めて、微かに震えた。
『いつか、あなたの隣に、対となる子が立つ日が来ます。そのときは……その子と、二人で。一人で背負っては、駄目。二人で、生きなさい』
『かかさま、なにいってるの……? ユキ、わかんない……』
『わからなくて、いいのです。今は』
母は、涙の膜の張った目で、微笑んだ。
対となる子。
観ているだけの俺の胸を、その言葉が、まっすぐに刺した。この人は、知っていたのか。銀の御方の言伝が里に届くより前に――それとも、巫女の血筋に代々伝わる、定めのようなものとして。確かめる術は、どこにもない。ただ、母の言葉と、月下でユキと交わした誓いが、十年の時を挟んで、同じ形をしていた。
一人で背負っては、駄目。二人で、生きなさい。
――あんたの言う通りにするよ。声に、ならない声で、そう答えていた。
それから、母は、娘の小さな額に、白く光る指先を、そっと当てた。
『――ごめんなさい。そして……おやすみなさい、ユキ』
白い光が、灯る。
視界が、揺らぎ始める。母の顔の輪郭が、光に溶けて、ぼやけていく。遠くで、あの子守唄が聞こえた。雪よ、雪よ、白き雪よ。歌っているのか、それとも、記憶の中の残響なのか、もう、わからなかった。
薄れゆく視界の最後に、母は、もう一度だけ、祭壇を振り返った。
その口が、誰もいない祭壇の虚空へ向けて、何かを、告げた。
音は、届かなかった。唇の動きだけが、白い光の向こうに、確かに見えた。
――たのみます、と。
そう、動いた気がした。
誰に?
問いごと、世界が、白に呑まれた。
「……っ、は……!」
肺が、大きく空気を吸い込んだ。
社殿。月光。祭壇。握ったままの、ユキの手。――現実だった。戻って、きたのだ。
全身が、汗で濡れていた。心臓が、まだ、記憶の中の炎の熱を覚えているかのように、激しく脈打っている。
「クロ……大丈夫かえ」
長老の声。ミオが、真っ青な顔で、こちらを覗き込んでいる。どれほどの間、意識を飛ばしていたのか。格子窓の月は、まだ、ほとんど動いていなかった。長い長い旅をしてきたはずなのに、現実の時間は、ほんの僅かしか、過ぎていなかったらしい。
「俺は、いい……それより……」
隣を、見た。
ユキが、目を開けていた。
まっすぐに、祭壇を見つめたまま。灰色の瞳から、涙が、あとからあとから、零れ落ちていた。声もなく、嗚咽もなく、ただ、静かに。十年分の涙が、堰を切ったように、流れ続けていた。
「……おかあ、さま」
掠れた声が、その唇から、落ちた。
「おかあさま……おかあ、さま……っ」
思い、出したのだ。全部。
母の顔を。声を。ぬくもりを。子守唄を。そして――別れの夜を。
十年間、「思い出せない」という形でしか、持てなかったもの。独りで雪道を歩きながら、あるはずの温もりの、輪郭さえ辿れなかったもの。それが今、一度に、胸に戻ってきたのだ。喜びと、悲しみと、どちらが大きいかなんて、きっと本人にも、わからない。
俺は、何も言わなかった。言えることなど、何もなかった。ただ、握ったままの手を、強く、強く、握り返した。ユキの指が、応えるように、俺の手を握り返してくる。
ミオが、そっとユキのそばに寄り、その背中を、小さな手で、ゆっくりとさすった。長老は、目を伏せ、静かに祈りの姿勢を取っていた。誰も、急かさなかった。この涙は、十年、待たされた涙だった。
どれほど、そうしていただろう。
涙の雨が、少しずつ、小降りになっていく。ユキは、何度か深く息をして、それから、濡れた顔のまま、ゆっくりと、こちらを向いた。
約束を、思い出した。
――戻ってきたら、いつも通りに、笑ってくださいね。
だから俺は、精一杯、いつも通りに、笑ってみせた。
「……おかえり、ユキ」
ユキの顔が、くしゃりと歪んだ。泣き顔のまま、それでも彼女は、確かに、笑った。
「…………ただいま、です」
その後、社殿の囲炉裏端で、白湯を飲みながら、俺たちはそれぞれの視たものを、長老に話した。
俺が記憶の中に引き込まれていたことに、長老は、驚きこそすれ、狼狽えはしなかった。
「両輪の共鳴、か。……文献でしか知らぬ話じゃったが、まさか、この目で見る日が来ようとはな。おまえさんたちの力の結びつきは、わしらの想像より、ずっと深いのかもしれん」
ミオは、白湯のお代わりを注ぎながら、そわそわと、俺とユキの顔を交互に見ていた。聞きたいことが山ほどあるのを、必死に我慢している顔だった。
ユキの記憶は、戻っていた。母のこと、国のこと、あの夜のこと。そして、封と共に遺されていた「巫女の力の銘」――理屈ではなく、手足の動かし方のように、封じる力の使い方が、体の奥に灯っているのだという。
「不思議な感じです。目を閉じると、力の……手綱のようなものが、ちゃんと、そこにあるのがわかるんです。十年間、ずっとあったのに、見えていなかっただけで」
そう言って、ユキは、自分の掌を、静かに見下ろした。泣き腫らした目は、まだ赤い。それでも、その声には、これまでになかった、静かな芯が通っていた。その指先に、ほんの一瞬、雪のような白い光が、ふわりと灯って、消えた。
「……! 今の、意識してやったのか」
「はい。……まだ、これくらいですけど」
はにかむように笑うユキの隣で、ミオが、目を輝かせて身を乗り出した。
「すごい、すごいです、ユキお姉ちゃん! 私の隠形なんて、覚えるのに三年かかったのに!」
「ミオちゃんが三年かけて磨いた力の方が、ずっとすごいですよ」
「え、えへへ……そ、そうですかね……」
照れて頬を掻くミオに、囲炉裏端の空気が、束の間、和らいだ。張り詰め続けた夜の中で、その小さなやり取りだけが、ささやかな灯りのようだった。
「……役目の中身、みたいなものは、思い出したのか」
「いいえ。……私、あのとき、まだ二つでしたから。難しいことは、何も。ただ……」
ユキは、自分の胸元に、そっと手を当てた。
「母が何かを、ずっと守っていたことだけは、わかります。あの祭壇で。命よりも、大切に」
「祭壇、か」
俺は、あの光景を、もう一度なぞった。そして、意を決して、口を開いた。
「長老様。……記憶の中に、あの男がいました。ガルムが。十年前の、燃えるセレスティアに。今よりずっと若かったが、間違いない。左目の傷も、あの時計盤も」
囲炉裏の火が、爆ぜた。
長老は、目を閉じ、長い、長い息を吐いた。
「……そうかえ。やはり、あの夜の賊は、『塔』の手の者じゃったか。十年前から……いや、もっとずっと前から、奴らは、巫女の血を追うておったのじゃな」
「なら、今、外にいるかもしれない連中も」
言いかけた、そのときだった。
思考の底で、ばらばらだった欠片が、不意に、一つの形に嵌まった。
追わなかったガルム。泳がされた道行き。三日前から鳴かない鳥。そして、今夜――封が解かれ、巫女の力が、十年ぶりにこの世に目覚めた夜。
奴らは、十年間、巫女を探し続けていた。だが、探していたのは、記憶を失くした、ただの少女じゃない。
「……なあ。奴らが待ってたのは」
自分の声が、遠く聞こえた。囲炉裏の火が、嫌に大きく、爆ぜた音を立てた。
「今夜、なんじゃないのか。封じられたままの巫女じゃ、意味がない。力の戻った、『完成した巫女』を――」
言い終わるより、先だった。
夜の谷を、低く、長く――角笛の音が、貫いた。
一度。二度。三度。
見張りの、警報だった。
社殿の中の全員が、弾かれたように立ち上がった。ユキの手が、俺の袖を掴む。その指先は、震えていた。だが、その瞳は――もう、逃げるだけだった頃の色を、していなかった。
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