第22話「満月の儀」
社殿に集まった顔ぶれは、皆、一様に険しかった。
昨夜、月下の誓いの直後に告げられた、サナの報せ。あれから一夜が明け、日の高いうちに、里の主立った者たちが社殿へ呼び集められていた。長老、サナ、ドドさん、そして俺とユキ。囲炉裏を囲む顔ぶれの中で、ミオだけが、緊張に硬くなった顔で、長老の斜め後ろに控えている。
「三日、一羽も鳴かねえ。……こいつは、獣が逃げたんじゃねえ。『何か』が、山に入ってやがる」
ドドさんの低い声に、囲炉裏の火が、ぱちりと爆ぜた。
「見つかった、ってこと?」
サナの問いに、ドドさんは首を横に振った。
「わからねえ。里の入り口の封は、破られちゃいねえ。ただ……外の山を、ぐるぐる回られてる感じだ。檻の外を歩く獣みてえにな」
探られている。まだ、見つかってはいない。だが、時間の問題かもしれない。誰もが、口には出さずに、同じことを考えていた。
「――儀は、今宵、行う」
沈黙を破ったのは、長老だった。
「長老様、しかし、こんなときに」
「こんなときじゃからこそ、じゃよ、サナ」
長老は、静かに、けれどきっぱりと言った。
「敵が迫っておるなら、なおのこと、あなた様には思い出していただかねばならん。封の中には、記憶だけではのうて、巫女の力の銘……力の使い方そのものが、眠っておるのじゃ。次の満月まで待てば、ひと月。それまで敵が待ってくれる保証など、どこにもありゃせん」
「けど、儀式の最中は、無防備になるんだろ? 万一、そこを突かれたら」
俺の問いに、長老は頷いた。
「じゃからこそ、外はサナとドドに固めてもらう。それにな、小僧。仮に今夜を見送ったとして……力も記憶もないまま囲まれるのと、巫女の力を取り戻した上で囲まれるのと、どちらがましか、という話でもある」
身も蓋もない言い方だったが、正論だった。反論の言葉は、出てこなかった。
視線が、ユキに集まった。
ユキは、膝の上の手を、一度だけ固く握って――顔を上げた。
「お願いします。今夜、封を解いてください」
その声に、もう迷いはなかった。昨夜、月の下で交わした約束が、彼女の背筋を、まっすぐに支えていた。
「よう言われた。……では、支度にかかる。サナ、ドド、見張りの采配はお前たちに任せる。ミオは、わしの手伝いじゃ」
「はいっ」
評定が解けると、それぞれが、迷いのない足取りで持ち場へと散っていった。
その散り際に、長老は、最後に俺を呼び止めた。
「時を継ぐ子。おまえさんにも、役目がある」
「俺に、ですか」
「儀の間、ユキ様の手を、握っていておやり」
思わず、聞き返しそうになった。長老は、皺の奥の目を細めて、続けた。
「封を解くというのはな、凍った川に、素手で穴を開けるようなものじゃ。解かれる側は、十年分の記憶の流れに、一人で呑まれることになる。……流されぬためには、杭がいる。今のユキ様にとって、この世で一番確かな杭は――おまえさんじゃろうて」
「……わかりました」
「ふぉっふぉ。即答かい。よい返事じゃ」
日が暮れるまでの間、里は、静かな緊張の中で動き続けた。
男衆は見張りに散り、女衆は社殿を清め、ミオは長老の指示で、祭壇に古い道具を並べていく。ユキは、里の女衆の手で、白い装束に着替えさせられていた。
俺はといえば、ドドさんに頼まれて、社殿の周りの雪を固め、いざというときの足場を作っていた。手を動かしながら、視線は何度も、西の尾根へと向かう。白く霞んだ稜線は、静まり返ったまま、何も答えなかった。
いつの間にか、隣にサナが立っていた。
「今夜、儀の間は、あたしらが外を固める。中のことは、何も心配しなくていい。……あんたは、あんたの役目だけ考えな」
「ああ。……頼む」
「任された」
短いやり取りだけを残して、サナは見張りの配置へと戻っていった。頼もしい背中だった。
「ユキお姉ちゃん、すっごく綺麗です……!」
「そ、そうでしょうか。なんだか、落ち着かなくて」
社殿の前で顔を合わせたユキは、雪のような白装束に身を包んでいた。滅んだ国から持ち出され、十年間大切に仕舞われてきたという、巫女の正装だった。着慣れない衣に戸惑う仕草は、いつものユキのままで、少しだけ、ほっとした。
「これ、母の……先代の巫女様の、装束だったそうです」
袖口を、そっと指先でなぞりながら、ユキは言った。
「今夜、思い出すんですよね。この装束を着ていた人のことも……全部」
「ああ」
「……ちゃんと、思い出したいです。怖いけど。私を守ってくれた人のことを、知らないままでいる方が、ずっと怖いから」
それから、ユキは、ふと空気を変えるように、袖を広げてみせた。
「変じゃ、ないですか?」
「……似合ってる。ちゃんと」
「っ……そ、そういうことを真顔で言うの、ずるいです」
頬を赤くして俯くユキに、後ろでミオが「おおー」と、ませた声を上げた。
やがて、日が落ちた。
雲一つない夜空に、満月が昇っていく。
見張りの篝火が、谷のあちこちに、ぽつりぽつりと灯った。里の子供たちは、女衆と共に一番奥の家に集められ、戸締まりが確かめられた。静かな夜だった。静かすぎる、夜だった。鳥の声どころか、風の音すら、今夜は谷に届かなかった。
社殿の中は、すべての蝋燭が消され、代わりに、天井の格子窓から差し込む月光だけが、祭壇の前を白く照らしていた。計算され尽くした造りだった。満月の夜、月がもっとも高くなる刻、光はちょうど、祭壇の中央に立つ者の上に降り注ぐ。
その中央に、ユキが座した。
俺はその隣に膝をつき、言われた通り、彼女の左手を、両手で包むように握った。指先は、氷のように冷たかった。
「……クロさん」
「ん?」
「私が何を思い出しても……戻ってきたら、いつも通りに、笑ってくださいね」
「ああ。約束する」
ユキは、小さく笑って、目を閉じた。長い睫毛が、月光の中で、微かに震えていた。
長老が、祭壇の前に立つ。ミオが捧げ持つ古い鈴を一つ手に取り、澄んだ音を、りん、と一つ、鳴らした。
「――白の理の御名において」
古い、古い言葉だった。意味は半分もわからない。だが、長老の声が紡ぐ祝詞に合わせて、月光が、濃くなっていくのがわかった。格子窓から降る白い光が、まるで水のように質量を持ち始め、ユキの白装束の上に、静かに積もっていく。
「封じたるは母の手、慈しみの楔。満ちる月の白きをもって、いま、その糸を解かん――」
祝詞が進むにつれ、ユキの呼吸が、深く、ゆっくりと変わっていった。眠りに落ちる寸前のような、規則正しい息。握った手のひらから、彼女の鼓動が、とく、とく、と伝わってくる。
りん。
鈴が、二度目に鳴った、その瞬間。
握ったユキの手が、灼けるように熱くなった。
「……っ!?」
ユキの全身から、白い光が、溢れ出した。月光と同じ色の、けれどもっと深い、雪の底のような光。彼女の内に眠っていた「封じる力」が、十年の眠りから、目を覚まそうとしていた。
「クロ! 手を離すでないぞ! おまえさんが、杭じゃ!」
長老の声が飛ぶ。言われるまでもなかった。離すものか。
だが――次の瞬間、想定していなかったことが、起きた。
ユキの白い光に呼応するように、俺の体の奥で、十二の刻が、疼いた。
どくん、と。心臓とは別の何かが、大きく脈打つ。
継承のあの日以来、感じたことのない胎動だった。時計塔で覚えた、あのざわめきとも違う。もっと近い。もっと深い。まるで、ずっと探していた片割れに、ようやく出会えたと――俺の中の力そのものが、歓喜しているような。
刻むものと、封じるもの。対の力。両輪。――共鳴。
「な……」
視界が、白に呑まれた。
社殿が消える。月光が消える。上も下もない、真っ白な奔流の中を、俺の意識だけが、ユキの手の熱に繋がれたまま、引きずり込まれていく。
これは、まずい。そう思うのに、恐怖はなかった。この流れの先にあるものを、俺は、視なければならない気がした。
あの夜、俺は「これから」を視た。世界が滅びる、未来を。
なら、今視ようとしているのは――。
白が、晴れた。
視界いっぱいに、雪景色が広がっていた。
けれど、白い谷ではない。もっと大きな、もっと美しい、雪の都だった。白亜の建物が立ち並び、通りには色とりどりの外套を着た人々が行き交い、子供たちの笑い声が、澄んだ空気に響いている。都の中心に、雪の結晶を象った紋章を掲げる、白い神殿が聳えていた。
見たことなど、あるはずがない。なのに、わかった。
――セレスティア。
これは、ユキの記憶だ。封じられていた、十年前の。
景色が、巡る。
神殿の回廊を、小さな足が、ぱたぱたと駆けていく。すれ違う神官たちが、目を細めて頭を下げる。『ユキ様、お転びになりますよ』『だいじょうぶ!』。中庭の池には薄氷が張り、その上を、誰かの魔法が作った光の魚が、泳いで見せていた。厨房からくすねた焼き菓子。老神官の膝の上で聞いた、古い国の物語。どの記憶の断片にも、あの白い髪の少女を慈しむ、たくさんの眼差しがあった。
彼女は、愛されていた。国中の誰からも。
『――さま。ひめさま、みてみて!』
鈴を転がすような、幼い声がした。
視界が、揺れる。小さな両手が、不格好な雪兎を掲げていた。この視界の主――幼いユキ自身の、手だった。
『まあ。上手にできましたね、ユキ』
柔らかな声と共に、視界いっぱいに、その人が現れた。
長い、白い髪。ユキと同じ灰色の、けれどもっと深く澄んだ瞳。白い巫女の装束を纏った、若く美しい女の人が、幼いユキの前に膝をつき、雪兎ごと、小さな手を包み込んだ。
『ふふ。お手々が、こんなに冷えて』
温かい。手が、頬が、胸の奥が。視界の主の感じているぬくもりが、そのまま流れ込んでくる。
母だ。
ユキの母。セレスティア最後の王女。先代の、白い巫女。
『ひめさま、うたって。ゆきのうた』
『またですか? ユキは本当に、あの歌が好きですね』
母は笑って、幼い娘を膝に抱き上げ、静かに歌い始めた。古い、子守唄だった。雪よ、雪よ、白き雪よ――言葉の意味より先に、旋律の優しさが、胸に沁みた。
窓の外には、暮れなずむ雪の都。膝の上のぬくもり。髪を梳く、細い指。歌声に合わせて、幼いユキの瞼が、ゆっくりと重くなっていく。世界のすべてが優しかった頃の、なんでもない、一日の終わり。
ああ、と思った。
ユキは、これを忘れていたのか。忘れさせられて、十年間、独りで。
こんなにも温かい記憶を、一つも持たないまま。あの雪の夜道を、たった独りで歩いてきたのか。
握っているはずの、現実のユキの手の熱が、遠くで、微かに震えた気がした。
歌が、ふつりと、途切れた。
母の顔が、窓の外へ向く。その横顔から、すう、と表情が消えていく。
視界の端で、雪の都の空が――赤く、染まり始めていた。
鐘が鳴る。悲鳴が、遠くから聞こえる。白亜の街並みの向こうに、いくつもの火の手が上がっていく。ついさっきまで、光の魚が泳ぎ、子供たちの笑い声が響いていた、あの美しい都が。
『ひめさま……? おそら、あかいよ……?』
幼いユキの声が、震えた。母は答えず、娘を強く、強く抱きしめた。抱きしめながら、その口が、早口に何かを囁き始める。祈りのような、詠唱のような、押し殺した声。膝の上の娘に、恐怖を悟らせまいとするように。
窓の外。燃える都の大通りを、黒い外套の一団が、粛々と進んでくるのが見えた。剣を提げ、隊列を乱さず、逃げ惑う人々には目もくれず――まっすぐに、神殿だけを目指して。
その先頭を歩く、一人の男。
まだ若い。だが、その左目には、真新しい刀傷が走り、その首元には――月の光を弾いて、小さな金属盤が、鈍く光っていた。
針のない、時計盤。
「……ッ!」
視界の外で、現実の俺の心臓が、跳ねたのがわかった。
いた。
十年前の、燃えるセレスティアに――あの男が、いた。
若き日の、ガルムが。神殿へと続く大通りを、まっすぐに、こちらへ向かって。
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