第21話「両輪の誓い」
満月までの三日間は、静かに、けれど確かな速さで、過ぎていった。
後から振り返れば、それは、嵐の前に与えられた、束の間の凪だったのだと思う。
一日目の朝、俺は里の連中に交じって、雪下ろしを手伝った。
「おう、若いの! そっちの屋根、頼んだ!」
「はいよ!」
ドドさんの号令で、屋根に上がり、積もった雪を落としていく。単純な力仕事だったが、体を動かすのは、性に合っていた。考えすぎる頭を、いっとき空っぽにできる。
「へっ、いい動きするじゃねえか。魔法だけの優男かと思ったら」
「村じゃ、薪割りと畑仕事ばっかりでしたから」
「はっは! 道理でな!」
屋根の上から見下ろす谷は、朝の光の中で、静かに営みを続けていた。竈の煙、水汲みの列、駆け回る子供たち。守られるべきものの形が、そこにあった。
昼からは、サナに稽古をつけてもらった。
「ほら、また足が止まった! あんたの氷は面で守りすぎだ。点で受けて、点で返す!」
「言うのは、簡単だけどな……!」
飛んでくる紫電を、拳ほどの氷塊で相殺する。三発に一発は、間に合わずに躱すはめになった。壁のような氷で全部受け止める癖を、サナは初日から見抜いていた。
「面で守るってのは、逃げの守りなんだよ。守ったその先が、ない。点で受けるのは、次の一手に繋げるための守りだ。……あんたはもう、逃げるためだけに魔法を使う段階じゃないだろ?」
「……ああ。そう、だな」
雷を寸止めで撃ち込んでくる鬼教官のおかげで、三日もすれば、体の動きは目に見えて変わっていった。魔法の撃ち合いというものを、俺はこれまで、実戦でしか知らなかった。「殺されない工夫」と「勝つための組み立て」は、似ているようで、まるで別物だった。
「筋は悪くない。……ってか、伸びが早すぎて、ちょっと怖いくらいだね」
「そりゃどうも」
「褒めてないよ。急に強くなる奴は、大抵、無茶の仕方も急になるんだ」
サナの軽口は、いつも、最後に少しだけ本音の棘を残した。
そして、そんな日々の間じゅう――ユキは、笑っていた。
ミオと雪だるまを作り、里の女衆に郷土料理を教わり、幼子たちに囲まれて、絵本を読んでやっていた。
「ユキお姉ちゃん、雪だるまの頭、乗せてください! 私じゃ届かないので!」
「ふふ、はい。……あら、ちょっと傾いちゃいましたね」
「か、傾いてても可愛いです! むしろ味です!」
二つ並んだ不格好な雪だるまの前で、姉妹のようにはしゃぐ二人。夕餉の支度では、慣れない手つきで雪下芋の皮を剥き、女衆に笑われながら、それでも嬉しそうに手を動かしていた。誰が見ても、幸せそうな里の日常だった。
だが、俺は気づいていた。
ユキの笑顔が、あの夜から、ほんの少しだけ、形を変えていることに。
ふとした瞬間――ミオが駆けていった後や、囲炉裏の火を見つめているとき。彼女の目から、すっと表情が消える。ほんの一瞬。誰にも気づかれないくらいの、一瞬。そしてすぐ、また笑顔に戻る。
楽しくて笑っているのではなく、笑っていようと決めて、笑っている。十年間、独りで逃げ続けた彼女が身につけた、あの「大丈夫なふりの笑い方」に、それは、とてもよく似ていた。
予言の話を、俺たちは、あれから一度もしていなかった。
『十二の刻すべてが目覚めしとき、その子は、世界と、ただ一人を、天秤にかけることになる』
触れれば、何かが壊れる気がして、俺は切り出せずにいた。ユキも、きっと同じだったのだと思う。二人の間に、言葉にしない何かが、音もなく横たわったまま、三日が過ぎた。
二日目の夕方、見張りに出ていたドドさんが、険しい顔で戻ってきた。
「長老様。西の尾根で、雪崩の跡を見た。……この時季、あの斜面じゃ、まず起きねえ場所だ」
「ふむ。獣か、それとも」
「わからねえ。足跡は、雪が消しちまってた。ただ……嫌な感じが、しやがる。三十年この山で狩りをしてきたが、こういう勘は、外れたことがねえ」
社殿の前で交わされるやり取りを、俺は少し離れた場所で聞いていた。
長老は、しばらく黙って西の尾根の方角を見つめてから、静かに指示を出した。
「見張りを、倍に。子供らは、日暮れ以降、家から出さぬように。……騒ぎ立てる必要はない。じゃが、備えは怠るな」
「へい」
あの疑念が、また頭をもたげる。城壁の上から、ただ見送っていたガルム。追える位置にいながら、追わなかった男。
――泳がされている。
もし、あの男の狙いが、俺たちを泳がせて、この里ごと見つけ出すことだったとしたら。俺たちは、十年間隠され続けてきたこの場所に、自分の足で、狩人を導いてきたことになる。
「……考えすぎだと、いいけどな」
呟いて、頭を振った。確証は、何もない。だが、その夜から、俺は眠りが浅くなった。
三日目。満月の、前夜。
夕食の後、ユキの姿が、見えなくなった。
ミオに聞くと、「少し風に当たってくる、って」と、心配そうな顔で社殿の方を指差した。
「あの、クロ様。……ユキお姉ちゃん、この三日間、夜になると、ときどき独りで外に出てるんです。私、ついていこうとしたんですけど、『大丈夫だから』って笑われちゃって」
「……そうか。ありがとな、ミオ。あとは任せろ」
「はい。……お願いします」
十歳の少女は、大人みたいな顔で、深々と頭を下げた。この子も、気づいていたのだ。ユキの笑顔の、その下に。
雪の参道を上ると、彼女は、社殿の前の広場にいた。
月明かりの下、独りで、夜空を見上げていた。明日には満ちる月が、欠けたところのほとんど見えない形で、白い谷を照らしている。
「……冷えるぞ」
声をかけると、ユキは、振り向かずに答えた。
「クロさんなら、来てくれる気がしてました」
隣に並ぶ。白い息が、二つ、月明かりに溶けていく。しばらく、どちらも黙っていた。谷の底から、微かに、囲炉裏の煙の匂いがした。この三日間、何度も交わした他愛のない言葉たちが、今夜に限って、一つも出てこなかった。
先に口を開いたのは、ユキだった。
「明日、封が解けたら……私、変わってしまうでしょうか」
「変わらないだろ。記憶が戻るだけだ」
「そう、ですよね。……そうだと、いいな」
弱々しく笑って、ユキは、また月を見上げた。それから――ずっと張りつめていた薄氷が、静かに割れた。
「クロさん。……あの予言のこと、なんですけど」
来た。
「『世界と、ただ一人を、天秤にかける』……あの、『ただ一人』って」
「ユキ」
「私の、ことだと思うんです」
遮ろうとした声より、彼女の言葉の方が、早かった。
「だって、そうでしょう? 銀の御方は、私とクロさんを巡り会わせよ、って言い残した。クロさんの一番近くにいるのは、私です。刻むものと、封じるもの。対の力。……天秤の、反対側に乗るのは、私しか、いません」
ユキの声は、震えていなかった。三日間、独りで、何度も何度も、この結論をなぞってきたのだろう。だから、こんなにも静かなのだ。雪だるまを作りながら。芋の皮を剥きながら。子供たちに絵本を読みながら。彼女はずっと、独りで、自分の命の置き場所を考えていた。
「それで、私、決めたんです」
ユキが、こちらを向いた。月を背にした、その表情は、微笑んでいた。
「そのときが来たら――世界を、選んでください」
心臓が、凍った。
月明かりの下、彼女は微笑んだまま、俺の返事を待っていた。まるで、明日の天気の話でもしたかのように。
「私の命一つで、世界が助かるなら、そんなに安い天秤はありません。クロさんは優しいから、きっと迷ってしまう。迷って、傷ついてしまう。だから、今のうちに、私から言っておこうって。……そうすれば、クロさんは、迷わなくて済むでしょう?」
最後まで、言わせなかった。
「――ふざけるな」
自分でも驚くほど、低い声が出た。ユキの肩が、びくりと跳ねる。夜気よりも冷たい何かが、腹の底から込み上げていた。怒りに、一番近い何かだった。
「なんだそれ。三日間、笑って、雪だるま作って、子供に絵本読んで……その裏で、ずっとそんなこと考えてたのか。自分の命の値段の話を、独りで」
「だ、だって、それが一番――」
「一番、なんだ? 合理的? 迷惑がかからない? ……ユキのそれは、優しさじゃない。ただの、独りに戻る癖だ」
言いすぎだと、わかっていた。それでも、止まらなかった。
「言ったよな、前に。一人で抱え込むなって。ユキも言ってくれたよな、俺に。一人じゃないって。……あれは、嘘か」
「嘘じゃ、ありません……! でも、これは、そういう話じゃ……」
「そういう話だよ。全部、同じ話だ」
俺は、懐から、遺跡で書き写した紙を取り出した。ユキ自身が、焚き火の灯りで、一文字ずつ丁寧に写し取った、あの石板の言葉。
「『時を統べる理は、両輪をもって成る』。『片方のみでは、天秤は傾く』。……覚えてるだろ。あんたが写したんだ」
「……はい」
「天秤は、片方だけを乗せるから、傾くんだ。世界か、あんたか、どっちかを選べって話になった時点で、もう負けてる。だったら――選ばない。両方守る。天秤なんて、最初から乗ってやらない」
「そんなの……そんなの、ただの理想です。予言は、『選ぶことになる』って」
「予言がなんだ」
月明かりの下で、俺は、まっすぐにユキを見た。
「俺は、世界が滅びる未来を視た。あんたが瓦礫の中で独りで泣いてる未来を、視た。……それを変えるって決めたから、ここにいる。決まった未来なんて、最初から信じてない。予言だろうが未来視だろうが、同じことだ」
「クロ、さん……」
「それにな。石板を残した奴らは、天秤の話の『答え』まで、ちゃんと彫ってた。『片方のみでは、天秤は傾く』――つまり、昔の刻むものと封じるものも、同じ問いにぶつかったんだ。そして、片方を選ぶんじゃなくて、二人で在り続けることを選んだ。だから『両輪』なんて言葉が、残ってる」
一息に言い切って、俺は、手の中の紙を、そっと握った。
「刻むものと、封じるもの。両輪ってのはさ、片っぽが欠けたら、もう走れないってことだろ。だから――あんたは、天秤に乗るな。俺の隣で、車輪でいろ。最後まで」
ユキの灰色の瞳から、大粒の涙が、零れ落ちた。
一粒、二粒。堪える間もなく、あとからあとから、頬を伝っていく。三日間、笑顔の下に押し込めてきたものが、全部、溢れ出していた。
「……ずるい、です。そんな言い方……断れる人、いません……」
「断らせないために、言ってる」
「〜〜っ、もう……!」
ユキは、涙でぐしゃぐしゃの顔のまま、俺の胸を、拳でぽかりと叩いた。まるで力の入っていない、抗議の一撃だった。それから、そのまま、額を押し当てて、小さく、本当に小さく、頷いた。
「……はい。隣に、います。最後まで」
「ああ。約束だ」
しばらくして、顔を上げたユキの目は、まだ赤かった。それでも、その奥にあった張りつめたものは、もう消えていた。三日間、俺たちの間に張っていた薄い氷が、ようやく溶けた。
「……変、ですね。明日、怖いことを思い出すかもしれないのに。今、すごく……安心してます」
「そりゃよかった」
「クロさんのせいですよ。責任、取ってくださいね」
「取るよ。最後までな」
軽口のような、誓いのような言葉を交わして、俺たちは、少しだけ笑った。
月が、二つの影を、雪の上に長く伸ばしていた。
どれくらい、そうしていただろうか。
参道の下から、雪を踏む足音が、駆け上がってきた。サナだった。その表情を見た瞬間、緩んでいた空気が、一瞬で引き締まった。
「……こんな時間に、悪いね。二人とも、長老様のところへ。今すぐ」
「何かあったのか」
サナは、すぐには答えなかった。稽古のときも、王都の脱出のときも、決して崩れなかったこの人の顔に、初めて、はっきりとした緊張が浮かんでいた。
一度、谷の外の闇へと目をやってから、サナは、低い声で答えた。
「山の鳥が、鳴かない。……三日前から、一羽もだ」
ここまで読んでくださりありがとうございます!
面白かったら ↓の☆☆☆☆☆ をポチッと評価&ブクマしていただけると、とても励みになります(^^)
☆⬇️⬇️⬇️⬇️⬇️☆




