第20話「十年前の言伝」
その夜、白い谷は、十年ぶりの祝いに沸いた。
里で一番大きな家に、住人が全員集まった。囲炉裏には大鍋がかけられ、山鳥と根菜の煮込みが、湯気と一緒に旨そうな匂いを立ち上らせている。誰かが古い弦楽器を持ち出し、誰かが手拍子を打ち、狭い家の中は、人の熱気で溢れ返っていた。
二十人足らずの、小さな里だ。それでも、この夜ばかりは、その倍もいるかのような賑わいだった。老人も、幼子も、誰一人欠けることなく、同じ火を囲んでいる。
「巫女様、こちらも! 干し肉の炙りです、うちの自慢で」
「ユキ様、お口に合いますか。山葡萄の甘煮なんですが」
「わ、私、こんなにたくさん……ありがとう、ございます……」
次から次へと差し出される皿に、ユキは目を白黒させていた。困り果てて、助けを求めるようにこちらを見る。俺は椀を掲げて、笑って返した。悪いが、そっちは自力で乗り切ってくれ。
「ほら、兄さんも遠慮しない! 育ち盛りだろ!」
とはいえ、俺の椀にも、サナが問答無用で煮込みを山盛りにしてくる。断る間もない。……まあ、実際、旨かった。骨の髄まで凍えた旅の後の熱い飯というのは、それだけで、少し泣きそうになる味がした。
「この芋、甘いな。うちの村のとは、種類が違うのか」
「お、わかるかい。雪の下で越冬させるんだよ。寒さに耐えた芋は、甘くなる」
給仕をしていた年配の女性が、嬉しそうに教えてくれた。雪深い土地なりの、暮らしの知恵。塩気の強い干し肉も、酸味のある漬物も、どれも長い冬を生き抜くための味だった。旅の携帯食では、決して満たされなかった何かが、腹の底から満ちていく。
「クロ様クロ様、あのですね、ご飯のあとは温泉です! 約束してた、里の温泉!」
頬を膨らませて干し肉を頬張りながら、ミオが袖を引いてくる。
「ああ、言ってたな。楽しみにしてた」
「ふふん、うちの温泉はすごいんですよ。疲れが、どろーって溶けるんです」
「どろーって、なんですか、ミオちゃん」
「どろーは、どろーです! ユキお姉ちゃんも入ればわかります!」
宴の輪の中で、ユキとミオが笑い合っている。その周りで、里の人々が目を細めている。ほんの数日前まで、王都の夜を息を殺して逃げていたのが、嘘のようだった。
――そして、その温かさの分だけ、俺の胸の奥のざわめきは、輪郭を増していた。
『おまえさんの名前はな、十年前から、この里に届いておったのじゃよ』
長老は、あれきり何も語らず、「今宵は祝いの夜。話は、皆が寝静まってからにしよう」とだけ言い残して、社殿へ戻っていった。
宴の後、俺は里の男衆に連れられて、谷の裏手の温泉に浸かった。
雪の中に湧く、小さな露天の湯だった。肩まで沈むと、ミオの言っていた「どろー」の意味が、すぐにわかった。張り詰めていた何かが、湯に溶け出していく。旅の間、体のどこに力が入っていたのかを、抜けて初めて思い知らされた。
「はー……生き返る……」
「若いの、いい浸かりっぷりじゃねえか」
隣で、髭面の大男が豪快に笑った。里で狩りを担っているという、ドドさんだ。岩のような肩に、古い傷がいくつも走っている。
「あんた、氷が使えるんだってな。サナと張り合ったって聞いたぞ」
「張り合ったというか、一方的に転がされたというか……」
「がっはっは! あいつに勝てる奴なんざ、里にゃいねえよ。気にすんな」
湯気の向こうで、男たちの笑い声が弾ける。魔法の使える者、使えない者。それを分け隔てる空気は、この里には、まるでなかった。皆が「持っているもの」を持ち寄って、生きている。それだけの場所だった。
「そういや、若いの。旅の間、風呂はどうしてたんだ」
「川があれば水浴び、なければ手拭いで拭くだけです。この時季は、川も凍ってるんで……」
「うへえ、聞くだけで縮み上がるわ。ま、今夜からは毎晩浸かれるぞ。湯だけは、うちの里の贅沢だからな」
岩の隙間から絶えず湧き続ける湯が、雪の夜気に、白い柱を立てている。谷の反対側からは、女湯の方の、ミオのはしゃぐ声と、ユキの控えめな笑い声が、微かに届いていた。
――俺の村と、同じだ。
ふいに、故郷の湯気を思い出して、胸の奥が、少しだけ軋んだ。収穫祭の後、村の男衆と浸かった、あの井戸端の行水。トマスと競った水の掛け合い。父さんと母さんは、今頃、どうしているだろうか。
湯から上がる頃には、月が、谷の真上まで昇っていた。ほとんど、満月に近い形だった。
夜が更け、家々の灯りが落ちた頃。
俺とユキは、ミオに先導されて、雪の参道を社殿へと上った。月明かりに照らされた古い社殿は、昼に見たときよりも、ずっと大きく、静かだった。
「緊張、しますね」
石段の途中で、ユキが、白い息と一緒に、小さくそう零した。
「ああ。……けど、やっと答えに手が届く。半年、ずっと知りたかったことだ」
「はい。……クロさんが隣にいてくれて、よかった。一人だったら、この石段、上れなかったかもしれません」
「奇遇だな。俺も、同じこと考えてた」
ユキが、少しだけ笑った。強張っていた横顔が、僅かに緩む。それだけで、俺の足取りも、幾分か軽くなった。
「長老様、お連れしました」
「ご苦労じゃったな、ミオ。……おまえは、もうお休み」
「え、私も聞いちゃ――」
「ミオ」
短い一言に、少女は口を尖らせながらも、渋々と頭を下げて、参道を下りていった。
社殿の中は、蝋燭の灯りだけが、ぽつりぽつりと揺れていた。祭壇の奥に、雪の結晶を象った古い紋章が掲げられている。セレスティアの、国章なのだろう。
長老は、祭壇の前に敷かれた茣蓙に、俺たちを座らせた。
「さて。……何から話したものかの」
「長老様。私の記憶の封のことも、クロさんの名前のことも……全部、聞かせてください」
ユキが、まっすぐに切り出した。長老は、その目をしばらく見つめ返してから、ゆっくりと頷いた。
「よい目をしておられる。……姫様と、同じじゃ」
蝋燭の灯りの中で、長老は、眩しいものを見るように、目を細めた。
「姫、様……昼間も、そうおっしゃっていました。私の、母のこと、ですか」
「そうじゃ。あなた様の母君――セレスティア最後の王女にして、先代の白い巫女。わしが、生涯お仕えした御方じゃよ」
王女。
隣で、ユキの息が止まったのがわかった。巫女の家系、とだけ聞かされてきた出自。その実態は、滅んだ国の、王族の血だった。
「わ、私が……王女様の、娘……?」
「そうじゃ。もっとも、セレスティアでは、王家と巫女は、そもそも分かたれておらなんだ。白き髪は、巫女の血筋にのみ生まれ、王家には、最も濃く現れる。国を治めることと、力を封じ続けること。その両方が、あの家の背負うた定めじゃった」
「そんな……私、ずっと、ただの……」
ユキの声が、揺れた。俺は、何も言わず、その手の上に、自分の手を重ねた。冷え切った指先が、俺の手の中で、微かに震えていた。
しばらくして、震えは、ゆっくりと収まっていった。ユキは、一つ息を吐き、顔を上げた。
「……続きを、お願いします」
「あなた様の記憶の封は、あの滅びの夜、姫様が御自ら施されたものじゃ。幼い娘の心を守るため。そして――巫女の役目のありかを、追手の目から隠すためにな」
「母、さまが……」
「封は、わしの手で解くことができる。じゃが、急いてはならん。封を解けば、あなた様は思い出す。役目のことだけではない。……あの夜、何を見て、何を失うたのかも、すべてな」
蝋燭の火が、ゆらりと揺れた。祭壇の雪の紋章に、影が伸びては、縮む。
「三日後が、満月じゃ。封を解くには、月の力を借りるのが一番負担が少ない。それまでに、心の支度をしておかれよ」
ユキは、膝の上の手を固く握って、深く、頷いた。震えは、していなかった。灰色の瞳の奥に、三日後の満月を、もう見据えているような光があった。
「……はい。お願いします」
長老の視線が、次に、俺へと移った。
「さて。時を継ぐ子や」
「……名前の話、ですね」
「うむ。十年前――セレスティアが滅んだ、まさにその夜のことじゃ」
長老は、遠い焔を見るような目で、語り始めた。
「国は燃え、雪は赤く染まり、わしらは姫様の御命令で、幼いあなた様を……ユキ様を連れて、散り散りに落ち延びた。わしの組が、命からがら山中に逃げ込んだ、その晩のことじゃった」
長老の声は、静かだった。だが、その静けさの下に、十年経ってなお生々しい痛みが、確かに透けていた。ユキは、身じろぎもせず、自分の知らない「あの夜」の話に、耳を傾けていた。
「火も焚けず、雪の中で、皆で身を寄せおうておった。誰もが、明日をも知れぬと思うておった。……そのときじゃ」
「――『それ』は、月の光の中から、現れた」
「それ……?」
「人の形をしておったが、人ではなかった。銀色の、淡い光を纏うた御方でな。追手かと身構えるわしらに、その御方は、ただ静かに、こう言い残されたのじゃ」
長老は、目を閉じ、十年間唱え続けてきたのだろう言葉を、一字一句、なぞるように口にした。
「『――白き巫女の対となる者は、すでにこの世に在る。名を、クロ。時を継ぐ子。刻の理が目覚めしとき、二つの力を、必ず巡り会わせよ』」
心臓が、大きく跳ねた。
銀色の光を纏った、人ならざる存在。
脳裏に、あの春の日の光景が、鮮やかに蘇る。消えゆく間際、俺に十二の刻を託した――あの、精霊。
「その人は……その御方は、他に何か。姿は、声は、女の人でしたか」
思わず身を乗り出した俺に、長老は静かに首を横に振った。畳みかけるような問い方に、自分の余裕のなさが、そのまま表れていた。
「光が強うてな、姿かたちは、ようわからなんだ。声は……そうさな、鈴の音のようで、ひどく、疲れておられた」
疲れていた。何百年も、独りで力を抱え続けた果ての、あの声。
間違いない。同じ存在だ。あの精霊は、俺と出会う十年も前から――俺がまだ二つの、何も知らない子供だった頃から、俺の名を知り、ユキとの巡り会いを、この里に言い残していた。
偶然じゃ、なかったのか。
あの日、俺が精霊と出会ったことも。ユキが、俺の村の近くで行き倒れていたことも。全部――。
『ちょうどよかった、とさえ思うわ。渡す相手が、無関係な誰かじゃなくて』
継承のあの日、精霊が零した一言が、まったく違う重さで、耳の奥に蘇った。あのとき俺は、力の「芽」の話だと思って聞き流した。だが、違ったのかもしれない。あの言葉は、もっとずっと長い、俺の知らない物語の、続きだったのかもしれない。
「クロさん……」
隣で、ユキが、心配そうにこちらを見ていた。今度は、彼女の手が、俺の手の上に、そっと重ねられた。冷えていたはずのその手は、いつの間にか、温かかった。
「……長老様。その御方の言伝は、それで全部ですか」
問うた声が、自分でも驚くほど、掠れていた。
長老は、しばし黙った。蝋燭の火が、爆ぜる。それから、老いた目が、これまでで一番深い色を湛えて、俺を見た。
「いいや。……もう一つだけ、ある」
「教えて、ください」
「これだけはな、十年間、誰にも明かさず、わし一人の胸に仕舞うてきた。じゃが、おまえさんは、聞く権利がある者じゃ」
隣で、ユキが息を詰めるのがわかった。社殿の空気が、一段と冷たく、張り詰めていく。
長老は、息を整え、最後の言葉を、ゆっくりと告げた。
「『――十二の刻すべてが目覚めしとき、その子は、世界と、ただ一人を、天秤にかけることになる』」
世界と、ただ一人を。
言葉の意味が、すぐには飲み込めなかった。いや――飲み込むことを、心が拒んでいた。
十二の刻が、すべて目覚めたとき。まだ触れることすら許されない、あの《12時》までもが、目覚めたとき。俺は、何かを選ばされる。世界と、誰か一人を、秤にかけて。
蝋燭の火が、音もなく、一つ消えた。
「銀の御方はな、最後に、こうも言い残された」
長老の声が、微かに、震えた。
「『そのときが来たら、伝えてほしい。……ごめんなさい、と』」
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