第19話「白い谷」
荷馬車を降りたのは、王都を出て二日目の朝だった。
「ここから先は、馬車の道がないんです」
街道沿いの小さな辻で、無口な御者に礼を告げ、俺たちは東の山並みへと足を向けた。振り返れば、王都の時計塔は、もう霞の向こうに小さく沈んでいた。
あの城壁の上のガルムの影は、あれきり、一度も見ていない。追手の気配もない。だが、安堵よりも先に立つのは、あの静けさの不気味さだった。「泳がされている」という疑念は、王都から離れるほど、むしろ濃くなっていくようだった。
考え込みかけた俺の背中を、サナが遠慮なく叩いた。
「ほら、辛気くさい顔しない! 山ん中じゃ、暗い顔してると足を取られるよ」
「……あんた、人の心を読むのか?」
「読めないよ。顔に全部書いてあるだけ」
「さーて、ここからが本番だよ。まあ、この面子なら四日ってとこかね」
先頭を行くサナが、肩越しに振り返る。旅慣れた足取りは、山道に入っても、まるで乱れなかった。
「サナお姉ちゃん、はやい……」
「ほら、チビ助。ばてるの早すぎ」
「だって、昨日まで王都で見張りづめだったんですもん……」
音を上げたミオを、サナはひょいと背負い上げた。文句を言いながらも、その手つきには一切の迷いがない。何度も、こうしてきたのだろう。
「ミオちゃん、私の荷物と代わりますか?」
「ユキ様にそんなこと、させられませんっ」
「もう。『お姉ちゃん』の練習は、どうしたんですか」
「う……ユ、ユキお姉ちゃん……」
「はい、よくできました」
背中のミオと、隣を歩くユキの、そんなやり取りを聞きながら、サナがにやりと笑った。
「なんだい、もうすっかり姉妹じゃないか。里の連中が見たら、泣いて喜ぶよ」
道は、次第に険しくなっていった。それでも、以前ユキと二人で越えた北の山道とは、まるで気分が違った。道を知る者がいる。魔法で戦える者がいる。何より――目的地に、待っている人たちがいる。
一人と一人だった旅が、いつの間にか、四人になっていた。
二日目の夜は、岩陰の窪地で野営になった。
「ほい、着火」
サナが枯れ枝の山に指先を向けると、ぱちん、と小さな紫電が弾け、一瞬で火がついた。火打ち石と格闘してきたこれまでの野営を思うと、ため息が出るほどの手際だった。
「便利だな、雷ってのは」
「だろ? ま、氷も大概便利だけどね。あんたの水路の凍らせ方、ありゃ大したもんだ。制御が細かい」
サナは、焚き火に鍋をかけながら、こともなげに続けた。
「明日の朝、ちょいと手合わせしてみるかい。あんたの腕、見ておきたい」
「……お手柔らかに頼む」
「はっは。善処するよ」
鍋が煮える間、ミオとユキは、里の話に花を咲かせていた。誰それが料理上手だとか、冬の保存食の仕込みがどうとか、他愛のない話だった。ユキの相槌が、一つ一つ、本当に嬉しそうだった。
その輪から少しだけ外れて、俺は、ずっと胸につかえていた問いを、サナにぶつけることにした。
「なあ、サナ。一つ、聞きたいことがある」
「ん?」
「あんたも、ミオも……俺の名前を、前から知ってたみたいな反応をした。なんでだ? 俺は、セレスティアとは何の関係もない、ただの村の生まれだぞ」
サナの、鍋をかき回す手が、止まった。
焚き火の爆ぜる音だけが、しばらく、その場を満たした。
「……気づいてたか」
「誤魔化すのが下手なんだよ、あんたたち」
「はは。違いない」
サナは、乾いた笑いを一つ零して、それから、焚き火の炎に目を落とした。
「悪いけど、あたしの口からは言えない。順番ってもんがある。……里に着いたら、長老様から直接聞きな」
「長老様、から……?」
「ああ。ただ、一つだけ言っとく」
サナの目が、こちらを向いた。焚き火の照り返しの中で、その表情は、いつもの豪快さを潜めていた。
「あたしらは、あんたのことを『白い巫女様の連れ』だから探してたんじゃない。――『クロ』って名前は、ずっと前から、あの里にあったんだ。あんたがユキ様と出会うより、もっとずっと前からね」
背筋を、冷たいものが走った。
俺がユキと出会ったのは、半年前だ。それより前から、会ったこともない山奥の里に、俺の名前が「あった」。
「……どういう、意味だ」
「だから、それを長老様から聞けって話。あたしだって、半分もわかっちゃいないんだ」
サナはそう言って、鍋の中身を椀によそい始めた。それ以上は、何を聞いても「里に着けば」の一点張りだった。
湯気の立つ椀を受け取りながら、ふと、輪の向こうのユキと目が合った。話は聞こえていなかったはずだが、彼女は、俺の表情から何かを察したらしい。声には出さず、口の動きだけで、そっと問うてくる。
――だいじょうぶ、ですか?
――ああ。
同じように、口の動きだけで返す。ユキは、少しだけ心配そうな顔をしたまま、それでも小さく頷いてくれた。
その夜、寝袋の中で、俺はなかなか寝付けなかった。
なぜクロに、力の「器」があったのか――精霊すら答えを持たなかった、あの問い。それと、この「名前」の話は、繋がっているのか。
隣では、ユキとミオが、寄り添うように眠っていた。二つの白い髪が、焚き火の残り火に、淡く照らされている。
守るべきものは、確かに増えた。なのに、自分の足元だけが、まだ靄の中にある。その靄の先に、里の長老とやらが、いる。
翌朝。約束通り、河原の開けた場所で、俺はサナと向かい合っていた。
半年前の俺なら、誰かと「手合わせ」なんて、考えることすらできなかっただろう。畑仕事と薪割りしか知らなかった、ただの村の子供だ。
だが、この旅は、否応なしに俺を戦いの中に置き続けた。村を襲った追手。ガルムの夜襲。王都の水路。命のやり取りを潜り抜けるたび、体は勝手に覚えていった。考えるより先に動かなければ、死ぬ。その感覚だけは、どんな訓練よりも深く、骨に刻み込まれている。
それに、氷の魔法だけは、物心ついた頃から数え切れないほど使ってきた、俺の相棒だ。時間の力と違って、消耗を恐れず、思い切り振るえる。
……とはいえ、相手は本職の用心棒。勝てるなんて、露ほども思っていなかった。胸を借りるつもりで、息を整える。
「ルールは単純。先に相手の体に一撃入れた方の勝ち。魔法あり、殺傷なし。……いくよ!」
言い終わるより早く、紫電が走った。
速い。考えるより先に、地面を蹴って横に跳ぶ。着地点の土が、黒く焦げていた。
「反応はいい!」
二撃目。三撃目。雷は、目で追ってから避けられる速さじゃない。撃たれる前の、サナの指先の動きを読むしかない。
指が、上を向いた。
――足元だ。
跳ばずに、滑った。咄嗟に足裏に張った薄氷で、地面を滑走する。直後、さっきまで立っていた場所に、稲光が突き刺さった。
「へえ……!」
サナの目の色が、変わった。楽しくてたまらない、という顔だった。
こっちの番だ。滑走の勢いのまま、指を鳴らす。サナの周囲の地面から、氷の壁を三方向、同時に立ち上げた。
「囲った――」
「甘い!」
氷壁ごと、紫電が貫いた。砕けた氷の破片の向こう、サナの指先が、すでに俺の鼻先に突きつけられていた。
「……あたしの勝ち、だね」
「……完敗だ」
大の字に座り込んだ俺に、サナは手を差し伸べながら、にっと笑った。
「いや、上等上等。歳を考えりゃ、末恐ろしいよ。特にあの足元の氷、ありゃいい判断だ」
「雷が速すぎるんだよ……」
「速さだけが取り柄でね。……ま、あんたの本当の力は、こんなもんじゃないんだろうけどさ」
さらりと落とされた一言に、差し伸べられた手を掴んだまま、固まった。サナは、それ以上何も言わず、俺を引き起こした。
この人たちは、どこまで知っているのか。その問いは、また喉の奥に、引っかかったままになった。
見物していたミオとユキが、駆け寄ってくる。
「クロ様、すごかったです! サナお姉ちゃん相手に、あそこまで動けるなんて……」
「クロさん、怪我はないですか」
「ああ、平気だ。……手加減、してもらったしな」
「してないよ? 殺傷なし以外は」
「……マジか」
からからと笑うサナに、どっと疲れが出た。それでも、不思議と悪い気分ではなかった。全力でぶつかって、全力で負けた。それだけのことが、妙に清々しかった。
四日目の昼、道が、途切れた。
正確には、切り立った岩壁が、谷の行く手を完全に塞いでいた。回り道らしきものも、見当たらない。
「サナ、道を間違えて――」
「間違えちゃいないよ。……ミオ、頼む」
ミオが、こくりと頷いて、岩壁の前に立った。壁の一点、何の変哲もない岩肌に、小さな手のひらを、そっと押し当てる。
「――『ほどけ』」
少女が囁いた、瞬間。
岩壁が、揺らいだ。
水面に映る景色が波紋で崩れるように、目の前の岩肌が、すう、と薄れて――その向こうに、細い山道が現れた。
「これ、は……」
「里の入り口を『封じて』あるのさ。セレスティアの血筋の力でしか、ほどけない仕掛けでね」
サナが、事もなげに言った。隣で、ユキが呆然と、その光景を見つめていた。
「封じる、力……これが……」
「あんたの中に眠ってるのも、これと同じ系統の力だよ。ま、巫女様のは、こんな児戯とは桁が違うらしいけどね」
ユキは、自分の両手のひらを、じっと見下ろした。半年間、ただの「呪われた白い髪」だと思ってきたものの正体が、初めて、目に見える形で示された瞬間だった。恐れと、それから、微かな好奇心のようなものが、その横顔に同居していた。
道を抜けると、視界が、一気に開けた。
白い谷が、そこにあった。
すり鉢状の谷あいに、雪を被った小さな家々が、寄り添うように建っている。畑の跡、燻る煙突の煙、干された洗濯物。谷の奥には、凍った小さな滝と、社殿のような古い建物が見えた。
二十人ほどの、小さな里だと聞いていた。だが、その光景には、数では測れない、確かな温度があった。滅んだ国の生き残りたちが、十年かけて、雪の中に作り上げた居場所。逃げ延びた者たちの、意地と祈りの形だった。
「ただいまー! チビ助と、お客人のご到着だよー!」
サナが、谷に向かって声を張り上げた。
家々の戸が、次々と開いた。駆け出してくる人々。その誰もが、ユキの姿を認めた瞬間、足を止め、目を見開き――そして、泣き崩れるように、その場に膝をついた。
「ああ……ああ、巫女様……」
「生きて、おられた……本当に……」
「セレスティアの灯火が……まだ、消えていなかった……」
十年分の祈りが、嗚咽になって、白い谷に満ちていく。老いた男が、幼子を抱いた女が、皆、涙を隠そうともしなかった。ユキは、その光景を前に、言葉もなく立ち尽くしていた。灰色の瞳から、堪えきれなくなった涙が、一筋、頬を伝った。
「わた、し……私、ずっと、独りだと……」
震える声は、そこで途切れた。頭巾から零れた白い髪を、隠す必要は、もうここにはなかった。生まれて初めて、その髪の色が、誰かの希望になっている場所に、彼女は立っていた。
「独りなものかい」
人垣が、静かに割れた。
社殿の方から、一人の老婆が、杖をつきながら、ゆっくりと歩いてくる。真っ白な髪を長く垂らし、深い皺の刻まれた顔に、澄んだ目をした老婆だった。人々が、深く頭を垂れる。
「長老様……」
ミオの囁きで、それが誰なのか、わかった。里の誰よりも、その一歩一歩に、皆の視線が寄り添っていた。
老婆は、ユキの前に立つと、皺だらけの両手で、そっとユキの頬を包んだ。
「……大きゅう、なられた。姫様に、よう似ておいでじゃ」
「あ……」
「お帰りなさいませ、ユキ様。十年、ようご無事で」
ユキが、声を上げて泣いた。子供のように、老婆の胸に縋って。それを咎める者は、誰もいなかった。谷に降る雪だけが、静かに、その光景を包んでいた。
長い、長い抱擁の後――老婆の澄んだ目が、ふと、こちらを向いた。
その視線が、俺を捉えた瞬間。
老婆は、少しも驚かなかった。まるで、そこに俺が立っていることを、初めから知っていたかのように、深く、深く、頷いた。
「……ようやく、来なさったか」
杖をついて、俺の前まで歩み寄り、老婆は言った。
「時を継ぐ子。――おまえさんの名前はな、十年前から、この里に届いておったのじゃよ」
十年前。
俺が、まだ二つの頃。時間の力の「芽」すら、目覚めるずっと前。ユキとの出会いどころか、この世界の何一つ、まだ始まってすらいなかった頃。
谷を満たしていた再会の熱が、俺の周りだけ、すっと引いていくような感覚があった。
「……誰から、ですか」
掠れた声で、なんとかそれだけを問うた。
老婆は、答える代わりに、谷の奥の社殿を、静かに見上げた。
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