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十二刻のクロノス ~時間魔法から始まる時々~  作者: 鏡花
第一章「青き目覚め」

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第19話「白い谷」

荷馬車を降りたのは、王都を出て二日目の朝だった。


「ここから先は、馬車の道がないんです」


街道沿いの小さな(つじ)で、無口な御者に礼を告げ、俺たちは東の山並みへと足を向けた。振り返れば、王都の時計塔は、もう霞の向こうに小さく沈んでいた。


あの城壁の上のガルムの影は、あれきり、一度も見ていない。追手の気配もない。だが、安堵よりも先に立つのは、あの静けさの不気味さだった。「泳がされている」という疑念は、王都から離れるほど、むしろ濃くなっていくようだった。


考え込みかけた俺の背中を、サナが遠慮なく叩いた。


「ほら、辛気くさい顔しない! 山ん中じゃ、暗い顔してると足を取られるよ」


「……あんた、人の心を読むのか?」


「読めないよ。顔に全部書いてあるだけ」


「さーて、ここからが本番だよ。まあ、この面子なら四日ってとこかね」


先頭を行くサナが、肩越しに振り返る。旅慣れた足取りは、山道に入っても、まるで乱れなかった。


「サナお姉ちゃん、はやい……」


「ほら、チビ助。ばてるの早すぎ」


「だって、昨日まで王都で見張りづめだったんですもん……」


音を上げたミオを、サナはひょいと背負い上げた。文句を言いながらも、その手つきには一切の迷いがない。何度も、こうしてきたのだろう。


「ミオちゃん、私の荷物と代わりますか?」


「ユキ様にそんなこと、させられませんっ」


「もう。『お姉ちゃん』の練習は、どうしたんですか」


「う……ユ、ユキお姉ちゃん……」


「はい、よくできました」


背中のミオと、隣を歩くユキの、そんなやり取りを聞きながら、サナがにやりと笑った。


「なんだい、もうすっかり姉妹じゃないか。里の連中が見たら、泣いて喜ぶよ」


道は、次第に険しくなっていった。それでも、以前ユキと二人で越えた北の山道とは、まるで気分が違った。道を知る者がいる。魔法で戦える者がいる。何より――目的地に、待っている人たちがいる。


一人と一人だった旅が、いつの間にか、四人になっていた。


二日目の夜は、岩陰の窪地(くぼち)で野営になった。


「ほい、着火」


サナが枯れ枝の山に指先を向けると、ぱちん、と小さな紫電が弾け、一瞬で火がついた。火打ち石と格闘してきたこれまでの野営を思うと、ため息が出るほどの手際だった。


「便利だな、雷ってのは」


「だろ? ま、氷も大概便利だけどね。あんたの水路の凍らせ方、ありゃ大したもんだ。制御が細かい」


サナは、焚き火に鍋をかけながら、こともなげに続けた。


「明日の朝、ちょいと手合わせしてみるかい。あんたの腕、見ておきたい」


「……お手柔らかに頼む」


「はっは。善処するよ」


鍋が煮える間、ミオとユキは、里の話に花を咲かせていた。誰それが料理上手だとか、冬の保存食の仕込みがどうとか、他愛のない話だった。ユキの相槌が、一つ一つ、本当に嬉しそうだった。


その輪から少しだけ外れて、俺は、ずっと胸につかえていた問いを、サナにぶつけることにした。


「なあ、サナ。一つ、聞きたいことがある」


「ん?」


「あんたも、ミオも……俺の名前を、前から知ってたみたいな反応をした。なんでだ? 俺は、セレスティアとは何の関係もない、ただの村の生まれだぞ」


サナの、鍋をかき回す手が、止まった。


焚き火の()ぜる音だけが、しばらく、その場を満たした。


「……気づいてたか」


「誤魔化すのが下手なんだよ、あんたたち」


「はは。違いない」


サナは、乾いた笑いを一つ零して、それから、焚き火の炎に目を落とした。


「悪いけど、あたしの口からは言えない。順番ってもんがある。……里に着いたら、長老様から直接聞きな」


「長老様、から……?」


「ああ。ただ、一つだけ言っとく」


サナの目が、こちらを向いた。焚き火の照り返しの中で、その表情は、いつもの豪快さを潜めていた。


「あたしらは、あんたのことを『白い巫女様の連れ』だから探してたんじゃない。――『クロ』って名前は、ずっと前から、あの里にあったんだ。あんたがユキ様と出会うより、もっとずっと前からね」


背筋を、冷たいものが走った。


俺がユキと出会ったのは、半年前だ。それより前から、会ったこともない山奥の里に、俺の名前が「あった」。


「……どういう、意味だ」


「だから、それを長老様から聞けって話。あたしだって、半分もわかっちゃいないんだ」


サナはそう言って、鍋の中身を椀によそい始めた。それ以上は、何を聞いても「里に着けば」の一点張りだった。


湯気の立つ椀を受け取りながら、ふと、輪の向こうのユキと目が合った。話は聞こえていなかったはずだが、彼女は、俺の表情から何かを察したらしい。声には出さず、口の動きだけで、そっと問うてくる。


――だいじょうぶ、ですか?


――ああ。


同じように、口の動きだけで返す。ユキは、少しだけ心配そうな顔をしたまま、それでも小さく頷いてくれた。


その夜、寝袋の中で、俺はなかなか寝付けなかった。


なぜクロに、力の「器」があったのか――精霊すら答えを持たなかった、あの問い。それと、この「名前」の話は、繋がっているのか。


隣では、ユキとミオが、寄り添うように眠っていた。二つの白い髪が、焚き火の残り火に、淡く照らされている。


守るべきものは、確かに増えた。なのに、自分の足元だけが、まだ(もや)の中にある。その靄の先に、里の長老とやらが、いる。


翌朝。約束通り、河原の開けた場所で、俺はサナと向かい合っていた。


半年前の俺なら、誰かと「手合わせ」なんて、考えることすらできなかっただろう。畑仕事と薪割りしか知らなかった、ただの村の子供だ。


だが、この旅は、否応なしに俺を戦いの中に置き続けた。村を襲った追手。ガルムの夜襲。王都の水路。命のやり取りを潜り抜けるたび、体は勝手に覚えていった。考えるより先に動かなければ、死ぬ。その感覚だけは、どんな訓練よりも深く、骨に刻み込まれている。


それに、氷の魔法だけは、物心ついた頃から数え切れないほど使ってきた、俺の相棒だ。時間の力と違って、消耗を恐れず、思い切り振るえる。


……とはいえ、相手は本職の用心棒。勝てるなんて、(つゆ)ほども思っていなかった。胸を借りるつもりで、息を整える。


「ルールは単純。先に相手の体に一撃入れた方の勝ち。魔法あり、殺傷なし。……いくよ!」


言い終わるより早く、紫電が走った。


速い。考えるより先に、地面を蹴って横に跳ぶ。着地点の土が、黒く焦げていた。


「反応はいい!」


二撃目。三撃目。雷は、目で追ってから避けられる速さじゃない。撃たれる前の、サナの指先の動きを読むしかない。


指が、上を向いた。


――足元だ。


跳ばずに、滑った。咄嗟(とっさ)に足裏に張った薄氷で、地面を滑走する。直後、さっきまで立っていた場所に、稲光が突き刺さった。


「へえ……!」


サナの目の色が、変わった。楽しくてたまらない、という顔だった。


こっちの番だ。滑走の勢いのまま、指を鳴らす。サナの周囲の地面から、氷の壁を三方向、同時に立ち上げた。


「囲った――」


「甘い!」


氷壁ごと、紫電が貫いた。砕けた氷の破片の向こう、サナの指先が、すでに俺の鼻先に突きつけられていた。


「……あたしの勝ち、だね」


「……完敗だ」


大の字に座り込んだ俺に、サナは手を差し伸べながら、にっと笑った。


「いや、上等上等。歳を考えりゃ、末恐ろしいよ。特にあの足元の氷、ありゃいい判断だ」


「雷が速すぎるんだよ……」


「速さだけが取り柄でね。……ま、あんたの本当の力は、こんなもんじゃないんだろうけどさ」


さらりと落とされた一言に、差し伸べられた手を掴んだまま、固まった。サナは、それ以上何も言わず、俺を引き起こした。


この人たちは、どこまで知っているのか。その問いは、また喉の奥に、引っかかったままになった。


見物していたミオとユキが、駆け寄ってくる。


「クロ様、すごかったです! サナお姉ちゃん相手に、あそこまで動けるなんて……」


「クロさん、怪我はないですか」


「ああ、平気だ。……手加減、してもらったしな」


「してないよ? 殺傷なし以外は」


「……マジか」


からからと笑うサナに、どっと疲れが出た。それでも、不思議と悪い気分ではなかった。全力でぶつかって、全力で負けた。それだけのことが、妙に清々しかった。


四日目の昼、道が、途切れた。


正確には、切り立った岩壁が、谷の行く手を完全に塞いでいた。回り道らしきものも、見当たらない。


「サナ、道を間違えて――」


「間違えちゃいないよ。……ミオ、頼む」


ミオが、こくりと頷いて、岩壁の前に立った。壁の一点、何の変哲もない岩肌に、小さな手のひらを、そっと押し当てる。


「――『ほどけ』」


少女が囁いた、瞬間。


岩壁が、揺らいだ。


水面に映る景色が波紋で崩れるように、目の前の岩肌が、すう、と薄れて――その向こうに、細い山道が現れた。


「これ、は……」


「里の入り口を『封じて』あるのさ。セレスティアの血筋の力でしか、ほどけない仕掛けでね」


サナが、事もなげに言った。隣で、ユキが呆然と、その光景を見つめていた。


「封じる、力……これが……」


「あんたの中に眠ってるのも、これと同じ系統の力だよ。ま、巫女様のは、こんな児戯(じぎ)とは桁が違うらしいけどね」


ユキは、自分の両手のひらを、じっと見下ろした。半年間、ただの「呪われた白い髪」だと思ってきたものの正体が、初めて、目に見える形で示された瞬間だった。恐れと、それから、微かな好奇心のようなものが、その横顔に同居していた。


道を抜けると、視界が、一気に開けた。


白い谷が、そこにあった。


すり鉢状の谷あいに、雪を被った小さな家々が、寄り添うように建っている。畑の跡、(くすぶ)る煙突の煙、干された洗濯物。谷の奥には、凍った小さな滝と、社殿のような古い建物が見えた。


二十人ほどの、小さな里だと聞いていた。だが、その光景には、数では測れない、確かな温度があった。滅んだ国の生き残りたちが、十年かけて、雪の中に作り上げた居場所。逃げ延びた者たちの、意地と祈りの形だった。


「ただいまー! チビ助と、お客人のご到着だよー!」


サナが、谷に向かって声を張り上げた。


家々の戸が、次々と開いた。駆け出してくる人々。その誰もが、ユキの姿を認めた瞬間、足を止め、目を見開き――そして、泣き崩れるように、その場に膝をついた。


「ああ……ああ、巫女様……」


「生きて、おられた……本当に……」


「セレスティアの灯火(ともしび)が……まだ、消えていなかった……」


十年分の祈りが、嗚咽(おえつ)になって、白い谷に満ちていく。老いた男が、幼子を抱いた女が、皆、涙を隠そうともしなかった。ユキは、その光景を前に、言葉もなく立ち尽くしていた。灰色の瞳から、堪えきれなくなった涙が、一筋、頬を伝った。


「わた、し……私、ずっと、独りだと……」


震える声は、そこで途切れた。頭巾から零れた白い髪を、隠す必要は、もうここにはなかった。生まれて初めて、その髪の色が、誰かの希望になっている場所に、彼女は立っていた。


「独りなものかい」


人垣が、静かに割れた。


社殿の方から、一人の老婆が、杖をつきながら、ゆっくりと歩いてくる。真っ白な髪を長く垂らし、深い(しわ)の刻まれた顔に、澄んだ目をした老婆だった。人々が、深く頭を垂れる。


「長老様……」


ミオの囁きで、それが誰なのか、わかった。里の誰よりも、その一歩一歩に、皆の視線が寄り添っていた。


老婆は、ユキの前に立つと、皺だらけの両手で、そっとユキの頬を包んだ。


「……大きゅう、なられた。姫様に、よう似ておいでじゃ」


「あ……」


「お帰りなさいませ、ユキ様。十年、ようご無事で」


ユキが、声を上げて泣いた。子供のように、老婆の胸に(すが)って。それを咎める者は、誰もいなかった。谷に降る雪だけが、静かに、その光景を包んでいた。


長い、長い抱擁の後――老婆の澄んだ目が、ふと、こちらを向いた。


その視線が、俺を捉えた瞬間。


老婆は、少しも驚かなかった。まるで、そこに俺が立っていることを、初めから知っていたかのように、深く、深く、頷いた。


「……ようやく、来なさったか」


杖をついて、俺の前まで歩み寄り、老婆は言った。


「時を継ぐ子。――おまえさんの名前はな、十年前から、この里に届いておったのじゃよ」


十年前。


俺が、まだ二つの頃。時間の力の「芽」すら、目覚めるずっと前。ユキとの出会いどころか、この世界の何一つ、まだ始まってすらいなかった頃。


谷を満たしていた再会の熱が、俺の周りだけ、すっと引いていくような感覚があった。


「……誰から、ですか」


(かす)れた声で、なんとかそれだけを問うた。


老婆は、答える代わりに、谷の奥の社殿を、静かに見上げた。


ここまで読んでくださりありがとうございます!

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