第18話「夜明け前の雷鳴」
足音が、時計店の前で止まった。
一拍の間を置いて、扉が叩かれた。こん、こん、と二度。夜更けの静寂に、その音はひどく大きく響いた。
階下で、レム老人が動く気配がした。俺は窓辺から離れ、部屋の灯りを素早く消す。隣の部屋から、ユキとミオが音もなく滑り込んできた。ミオが唇の前に指を立てる。三人で息を殺し、床板の隙間から漏れてくる階下の声に、耳を澄ませた。
「……はいはい、どちらさんかね。もう店じまいじゃよ」
錠を外す音。扉の軋み。
「夜分にすまんな、ご老人。夜間の巡回だ」
低い、事務的な男の声だった。
「この界隈で、不審な二人組を見た、という報せがあってな。若い男と、頭巾を被った娘だ。心当たりは」
「はて。儂は耳が遠くてのう。もういっぺん言ってくれんか」
「――不審な、二人組だ」
「二人組? さてなあ。うちに来るのは、時計の直しを頼む年寄りばかりでな」
レム老人の声は、どこまでものんびりとしていた。四十年、あの「塔」の膝元で働いてきた男の、年季の入ったとぼけ方だった。
だが、男たちは引かなかった。
「……少し、中を検めさせてもらう」
「おいおい、こんな夜中にかね」
「決まりでな」
土足の足音が、店の中に踏み込んでくる。一人。二人。心臓が、嫌な音を立てた。居間には、湯呑みが四つ、出しっぱなしになっている。気づかれれば、終わりだ。
「ほう。時計だらけだな」
「商売じゃからな。……ああ、そこの棚は触らんでくれよ。客からの預かりもんじゃ」
「…………」
沈黙。足音が、居間の方へと移動していく。
「……湯呑みが、四つあるな」
心臓が、止まりかけた。
「ああ、昼間の客のもんじゃよ。時計の納品でな、爺婆が三人も押しかけよった。……年寄りになると、片付けというやつが、どうにも億劫でいかんのじゃ」
「……」
「なんなら、洗うのを手伝うてくれるかね。ちょうど腰も痛うてな」
「……結構だ」
小さな舌打ちが、床板越しに聞こえた気がした。膝の上で握った拳に、じわりと汗が滲んだ。
階段を上がってくる足音。
一段。また一段。軋む木の音が、拷問のように長い。
扉が開き、外套の男が部屋を覗き込んだ。灯りのない室内を、視線がゆっくりと往復する。俺たちは、部屋の隅に、三人で身を寄せたまま動かなかった。男の視線が、一度、確かに俺たちの上を通過した。
――止まらない。
男は小さく舌打ちして、扉を閉めた。足音が階下へと戻っていく。
「……確かに、二人組などおらんじゃろう」
「ああ。……夜分に、邪魔をしたな」
扉が閉まり、錠のかかる音がして、足音が遠ざかっていった。
どれほどそうしていたか。ミオの手から、ふっと力が抜けた。視界の膜が消える。
「ミオちゃん!?」
ユキが、慌てて少女の体を支えた。ミオの鼻から、つ、と一筋、血が垂れていた。
「へ、へいき、です……三人まとめては、初めてだったから、ちょっと……」
「無理させたな。悪い」
「クロ様たちを守るのが、私の役目、ですから……」
青い顔で、それでも笑ってみせる少女に、胸の奥が、ひどく重くなった。十歳の子供に、こんな綱渡りをさせている。その事実が、自分たちの置かれた状況の異常さを、何よりも突きつけてきた。
階段を上がってきたレム老人が、部屋の灯りを点けないまま、低い声で告げた。
「聞いての通りじゃ。連中、この区画に目をつけておる。おそらく、外に見張りも残しておるじゃろう」
「夜明け前の出発じゃ、間に合わないってことか」
「ああ。……予定変更じゃ。今すぐ、出ろ」
裏口の前で、レム老人は、小さな地図を俺の手に押し込んだ。
「裏の水路沿いを東へ。三本目の橋を渡った先に、青い屋根の倉庫がある。荷馬車は、そこじゃ。御者には話を通してある」
「じいさんは」
「儂は残る」
老人は、当然のことのように言った。
「この店が、儂の持ち場じゃ。それにな、儂まで消えたら、それこそ連中に『ここが巣だ』と教えるようなもんじゃろうが」
「けど、あいつらに目をつけられたら――」
「時計しか能のないジジイを、どうこうする暇があるかい。年寄りの心配より、自分の心配をせい」
レム老人は、にやりと笑って、それから、俺の胸元を、節くれだった指で軽く突いた。懐にしまった、あの懐中時計のあたりを。
「……時間はな、小僧。刻むもんでも、刻まれるもんでもない。連れ添うもんじゃ。四十年、歯車と暮らした儂が言うんじゃから、間違いない」
「連れ添う……」
「まあ、今はわからんでもいい。いつか、わかる日が来る」
老人はそう言って、ミオの頭に、皺だらけの手をぽんと置いた。
「ミオ。……達者でな。里の連中にも、よろしく言っとけ」
「じいさん……」
ミオの目に、みるみる涙が盛り上がる。だが、少女はそれを袖で乱暴に拭って、深く頭を下げた。
「……行きます。ありがとう、ございました」
「ほれ、行った行った」
裏口の戸が、静かに閉まった。
夜明け前の路地は、骨まで凍えるような冷気に満ちていた。ミオを先頭に、水路沿いの細い道を、足音を殺して進む。
一本目の橋を、過ぎた。
二本目の橋に差し掛かったところで、ミオの足が、ぴたりと止まった。
「……前に、二人。見張りです」
囁き声。橋のたもと、積まれた樽の陰に、外套の影が二つ、見えた。
「隠形は」
「ごめん、なさい……今は、私一人分が、やっと……」
「十分だ。よくやってる」
引き返すか。いや、時間がない。夜が明ければ、検問が始まる。
「――ミオは隠形で先に橋を渡れ。倉庫で合流だ。ユキ、走れるな」
「はい」
「よし。……派手にやる」
右手を、水路の水面にかざした。
「凍れ」
橋の下、黒い水面が、音もなく白く固まっていく。見張りたちが気配に気づいて振り返るより早く、俺はユキの手を引き、橋ではなく――凍った水路の上へと、飛び降りた。
「な……!? おい、水路だ! 水路の上を――」
「追え!」
氷の上を、一気に駆ける。足裏が滑る。構わず蹴る。ユキの手を、強く引く。
背後で、追手が水路に飛び降りる音。一人。二人。
直後、俺は振り返りざまに、指を鳴らした。
追手の足元の氷だけが、砕けた。
「うわあッ!?」
盛大な水音と悲鳴。真冬の水は、しばらく男たちの動きを奪ってくれるはずだ。命までは取らない。それでいい。
「クロさん、前!」
ユキの声に、向き直る。水路の先、三本目の橋の上に、新手が二人。既にこちらに気づき、駆け下りてくる。挟まれた。
氷の壁を張るか。いや、足場ごと崩すか。判断が、一瞬遅れた。
時間の力なら、間に合う。《3時・停止》なら、確実に。だが、使えば消耗で動けなくなる。それに――王都のど真ん中で時の力を使えば、「塔」への信号弾を上げるようなものだ。
先頭の男が、剣を抜く。
その、瞬間だった。
夜明け前の藍色の空に――紫の閃光が、走った。
雷鳴は、一拍遅れて轟いた。橋の上の男たちが、声を上げる間もなく、白い光に呑まれて崩れ落ちる。焦げた匂いが、冷たい風に乗って流れてきた。
一瞬、何が起きたのか、理解が追いつかなかった。雷。雲一つない、夜明け前の空から。
「――っと。峰打ちならぬ、加減打ちってやつよ。死んじゃいないから安心しな」
橋の欄干の上に、人影が立っていた。
栗色の髪を高く結った、二十歳前後の女だった。旅装の上から毛皮の外套を羽織り、その指先には、まだ紫の火花が、ぱちぱちと爪弾くように踊っている。
「サナお姉ちゃん!」
いつの間にか橋を渡りきっていたミオが、弾かれたように駆け寄った。女は欄干から軽やかに飛び降り、少女を片腕で受け止める。
「よお、チビ助。帰りが遅いから、迎えに来てやったよ。……ったく、王都が物騒になってるって報せは本当だったね」
「うう……サナお姉ちゃん、会いたかった……!」
「はいはい。ほら、泣くな泣くな。鼻血の跡がひどいぞ、あんた。無茶したね?」
ぐりぐりとミオの頭を撫でる手つきは乱暴で、けれど、どこまでも優しかった。
女の視線が、俺とユキの上を、素早く往復した。値踏みするような、それでいて敵意のない目だった。ユキの、頭巾からこぼれた白い髪のところで、その目が、僅かに見開かれる。
「……その髪。あんたが」
「あ、あの、初めまして。ユキと、いいます」
「――話は後! 全員、走りながらだ!」
女は短くそう切ると、先頭に立って駆け出した。指先の紫電が、ふっと消える。
「あたしはサナ。里の、まあ、用心棒みたいなもんさ。それで、そっちの兄さんが――」
走りながら、サナの視線がこちらを向いた。
「クロだ」
名乗った瞬間、サナの足が、ほんの半歩だけ、乱れた。
「……ふうん。あんたが、クロ、ね」
その声には、初対面の相手に向けるものではない、何かを確かめるような響きがあった。ミオのときも感じた、あの引っかかり。俺の名前を、この人たちは、どこかで知っている。
問い返す間もなく、青い屋根の倉庫が見えてきた。約束通り、幌つきの荷馬車が、荷を積み込む振りをしながら待っていた。
「乗った乗った! 東門が開くのは夜明けの鐘と同時だ。その一番手に紛れるよ!」
御者台の男が、無言で頷くのが見えた。レム老人の伝手というその男は、最後まで一言も口を利かなかったが、その沈黙が、かえって頼もしかった。
荷台に転がり込み、積み荷の麻袋の間に身を潜める。ほどなくして、荷馬車はゆっくりと動き出した。
「ふー……ひとまず、第一関門突破、っと」
サナが、麻袋に背を預けて、大きく息を吐いた。それから、悪戯っぽい目で、俺の方を見る。
「にしても、兄さん。水路ごと凍らせて足場にするなんて、いい度胸してるね。氷使いってのは聞いてたけど、想像の三倍は無茶やるじゃないか」
「聞いてた? 誰から」
「ん? ああ……まあ、ミオの報せとか、色々さ」
サナは、ひらひらと手を振って誤魔化した。その仕草が、かえって引っかかりを深くした。
「サナさんの、あの雷……すごかったです。私、あんな魔法、初めて見ました」
ユキが、素直な尊敬の眼差しを向ける。サナは、まんざらでもなさそうに、指先で小さな紫電を弾いてみせた。
「雷ってのはさ、ちょいと希少なんだ。炎や風の使い手は掃いて捨てるほどいるけど、雷持ちはそういない。おかげで里じゃ、用心棒稼業が板についちまった」
「加減、できるものなんですね。その、さっきの人たち、死んでないって」
「そこが腕の見せ所ってね。殺しちまったら、『塔』に本気の口実をくれてやるだけだ。……ま、加減し損ねたことも、二、三回あるけど」
「に、二、三回……」
ユキが顔を引きつらせ、サナが豪快に笑う。張り詰め通しだった夜の緊張が、その笑い声で、ようやく少しだけ解けた。
車輪が石畳を噛む音。遠くで、夜明けの鐘が鳴り始める。
幌の隙間から、東門が見えた。欠伸を噛み殺した門兵が、御者と二言三言交わし、面倒くさそうに手を振る。
荷馬車が、門をくぐった。
誰も、幌の中を検めなかった。あっけないほど、静かな出国だった。
ほっと息を吐きかけた、そのときだった。
幌の隙間の向こう――遠ざかっていく城壁の上に、人影が一つ、立っているのが見えた。
朝日を背にした、黒い輪郭。距離があっても、わかった。その首元で、小さな金属盤が、鈍い光を弾いている。
針のない、時計盤。
ガルムは、追ってこなかった。号令もかけず、ただ城壁の上から、東へ向かう俺たちの荷馬車を、じっと見下ろしていた。
「……なんで、追ってこない」
呟きは、車輪の音に掻き消えた。
あの夜と、同じだ。追える位置にいながら、追わない。まるで、俺たちがどこへ向かうのかを、最初から知っているかのように。
泳がされている。その言葉が、また頭をもたげる。だとしたら、この脱出も、隠れ里への道も――全部、あの男の掌の上なのか。
隣で眠りに落ちたミオの寝顔と、その頭をそっと膝に乗せてやるユキの横顔を見ながら、俺は幌の隙間の向こうの黒い影が、朝靄に溶けて見えなくなるまで、目を逸らせずにいた。
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