第17話「振り子の告白」
ガルムが、王都に入った。
その報せは、温まりかけていた居間の空気を、一瞬で凍らせた。幾重にも重なる振り子の音が、急に、追い立てるような響きに変わった気がした。
「左目の刀傷に、針のない時計盤……間違いない。山で俺たちを襲った男だ」
「まさか、会ったのですか?」
ミオの問いに、俺は苦い記憶を噛み締めながら頷いた。
「ああ、一度、殺されかけた。相当腕の立つ狩人だった」
「あの男は、狩人などという生易しいものではないぞ」
低い声で、レム老人が言った。丸眼鏡の奥の目が、これまでで一番、険しくなっていた。
「『塔』の犬の中でも、最も古株の一人じゃ。奴が直々に動くということは……本気で、お前さんたちを狩りに来た、ということよ」
「そんなに、有名なんですか。あの男」
「有名、というのとは違う。……『塔』に関わる人間の間でだけ、囁かれる名じゃ。ガルムが出た仕事で、逃げ切った獲物はおらん、とな」
逃げ切った獲物は、いない。
だが、俺たちは一度、あの男の前から逃げ延びている。いや――違う。あれは逃げ延びたんじゃない。「追うな」と、見逃されたのだ。北への道は一本しかない、と言いながら。
つまり、あの男にとって、あの夜の結末すら、想定の内だったということになる。
「詳しいんですね」
何気なく返した俺の言葉に、老人は、しばらく黙り込んだ。
振り子の音だけが、部屋を満たす。
やがて、老人は、作業台の引き出しから、古びた真鍮の徽章を取り出した。歯車と天秤を組み合わせた意匠。その中央には、小さく「時の管理局」と刻まれていた。
「……儂はな。四十年間、あの時計塔の中で働いておった」
「――え」
「時の管理局、公認時計師。それが、儂の昔の肩書きじゃよ」
ユキと、思わず顔を見合わせた。時計塔の上層部、立ち入り禁止の区画。あの鉄格子の向こう側を、この老人は知っている。
「若い頃はな、誇りじゃった。王都の心臓とも言える大時計を、この手で守っておるのだと。親方から技を受け継ぎ、いずれは儂が次の親方になる。そう信じて、疑いもせんかった」
老人の視線が、壁に並ぶ時計たちの上を、ゆっくりと滑っていく。そのどれもが、彼の四十年の名残なのかもしれなかった。
「じゃあ、あの塔の中がどうなってるのか……」
「知っておる。……知ってしまったから、辞めたのじゃがな」
レム老人は、徽章を作業台に置いた。かたり、という小さな音が、妙に重く響いた。
「お前さん。塔に入ったとき、何か感じたじゃろう」
「……ああ。体の奥が、ざわついた。俺の力が、何かに反応してるみたいに」
「じゃろうな」
老人は、深く息を吐いた。
「あの塔はな、小僧。時を刻んでおるのではない。――刻まされておるのじゃ」
「刻ま、されてる……?」
「二百年間、一度も止まらぬ時計など、この世にあるものか。歯車は磨り減る。振り子は狂う。職人が毎日油を差したところで、機械というものは、必ずどこかで音を上げる。……なのに、あの塔だけは、止まらん。誰も直しておらんのに、狂いもせん」
老人の声が、低くなった。
「四十年、儂は毎日あの機構を見てきた。そして、気づいてしもうた。あの時計は、動かされておるのではない。あの塔の地下深くにある『何か』に――時を、刻まされておる」
地下深くの、何か。
首の後ろが、すっと冷えた。塔に足を踏み入れた瞬間のあの感覚。懐かしい、とすら感じた、あのざわめき。俺の中の十二の刻は、その「何か」に反応していたのか。
「それが何なのか、確かめようとしたことは」
「ある。……そして、次の日、地下への扉は封鎖され、儂は職を解かれた。理由も告げられずにな。詮索を続けた同僚は、ある朝、王都から消えておった。家族ごと、な」
部屋の温度が、また一段、下がった気がした。
「それが、『塔』の、やり方じゃ」
ユキが、青ざめた顔で、口元を押さえた。学院の資料から破り取られていたページ。ヴォルフの恩師が学院を追われた話。そして、消された職人一家。すべてが、同じ一つの影に繋がっていく。
この国では、「時」に触れた者は、消される。
なら、時そのものを操る俺は――奴らにとって、どれほどの獲物なのか。ガルムが「生かして押さえろ」と命じた、あの言葉の意味が、今さらながら、別の重さを持って迫ってきた。
重い沈黙を破ったのは、ミオだった。
「……だから、じいさん。急がないと」
「わかっておる」
老人は頷き、俺たちに向き直った。
「お前さんたちは、一刻も早く、この王都を出るべきじゃ。ガルムが入った以上、猶予は数日もない。……そして、行くべき場所がある」
「行くべき、場所?」
答えたのは、ミオだった。
「東の山間に、私たちの……セレスティアの生き残りの、隠れ里があります。二十人ほどですが、仲間が暮らしています。そこに――長老様が、いらっしゃいます」
「長老様?」
「はい。かつて、セレスティアの神殿で、巫女様に仕えていた元神官様です。ユキ様の記憶の封のことも、白い巫女の役目のことも……全部、知っている方です」
ユキの肩が、僅かに揺れた。
自分の記憶の封を、解けるかもしれない人物。失われた過去と、背負わされた役目の、答えを知る人物。
「……ユキ。どうしたい」
俺は、あえて自分の意見を言わず、彼女に尋ねた。これは、ユキ自身の過去の話だ。決めるのは、彼女であるべきだった。
ユキは、膝の上で両手を握り、しばらく黙っていた。怖いのだと思う。封じられた記憶の中に何があるのか、わからないのだから。それでも、顔を上げたとき、その目に迷いはなかった。
「行きます。……私、知りたいです。自分が何者なのか。何を背負っているのか。ずっと、わからないまま逃げるのは、もう嫌なんです」
「……そうか」
短く答えて、俺は頷いた。それでいい、と思った。
「なら、決まりだ。ミオ、その隠れ里までの道は」
「私が案内します。……というより、私も一緒に行きます! ユキ様のお側を離れるわけには、いきませんから!」
胸を張るミオに、レム老人が苦笑した。
「やれやれ。まあ、ミオがおれば、道中の心配は半分になる。この娘の『隠形』は、儂らの中でも、飛び抜けておるからな」
「隠形?」
聞き慣れない言葉に問い返すと、ミオが、少しだけ得意げに答えた。
「私たち、巫女様の血筋に連なる家系には、弱いながらも『封じる』力が伝わっているんです。私の力は、その……応用みたいなもので。自分の気配や姿に対する周囲の認識を『封じる』――つまり、『見えなくする』ことができます」
「……袋小路で消えたのは、それか」
「はい! 消えたんじゃなくて、ずっとそこにいました。クロ様の真横に」
「真横っ!?」
思わず声が裏返った。あのとき、必死に周囲を見回していた俺のすぐ隣に、この少女は平然と立っていたのか。
「ふふ。クロ様、すっごく真剣な顔で、きょろきょろしてました」
「わ、笑うなよ……こっちは《10時・跳躍》か何かだと思って、本気で焦ってたんだぞ」
「じゅうじの、ちょうやく?」
きょとんとするミオに、しまった、と口を噤んだが、もう遅かった。ミオは深く追及せず、ただ首を傾げただけだった。俺の力について、この子たちにどこまで話すべきかは――いずれ、向き合わなければならない問題だった。
「……そういえば、もう一つ」
ふと、昨日からの引っかかりを思い出した。
「あんたが俺の名前を知ってたのは、その隠形で、俺たちの会話を聞いてたから――ってことで、いいんだよな」
それなら、全部説明がつく。そう思っての問いだった。
ミオの表情が、一瞬だけ、固まった。
「……そう、です。それも、あります」
目が、逸れた。
「それも?」
聞き逃さなかった。ミオの肩が、小さく跳ねる。しばらくの沈黙の後、彼女は観念したように、ぽつりと零した。
「……クロ様の名前は、里で、ずっと前から知られていました」
「は? 俺は今年まで、村から出たこともないんだぞ」
「はい。……だから、まだお話しできないんです」
里で、ずっと前から、か。
村の外の誰も、俺の名前など知るはずがない。なのに、会ったこともない生き残りたちの里で、俺の名前が――いつから? 誰の口から?
やっぱり、名前の件には、まだ何かある。だが、レム老人が素知らぬ顔で茶をすすっているのを横目に、俺は追及の言葉を呑み込んだ。無理に聞き出せる空気でもない。今は、互いの信頼を積む方が先だ。
……ただ、忘れたわけじゃないからな。
出発は、明日の夜明け前と決まった。
検問が緩む時間帯を狙い、商人の荷馬車に紛れて東門を抜ける。そこから先は、街道を避けた山道を、ミオの案内で進む。レム老人が、昔の伝手で荷馬車の手配をしてくれることになった。
「隠れ里までは、歩いて四日ほどです。途中に小さな村が二つありますけど、なるべく人目は避けて進みます」
ミオが、テーブルの上に簡単な地図を描きながら、道筋を説明してくれた。その手際の良さは、この道を何度も往復してきた者のそれだった。
「ミオちゃんは、いつも一人で、この道を?」
ユキの問いに、ミオは事もなげに頷いた。
「はい。里と王都を行き来して、情報を集めるのが、私の役目でしたから。私の『隠形』なら、検問も怖くないので」
十歳の子供が、たった一人で山道を四日。それを「役目」と言い切る、その健気さが、かえって痛々しかった。ユキも同じことを感じたのか、そっとミオの頭に手を置いた。
「……これからは、一人じゃありませんから」
「ユキ様……はい!」
レム老人は、旅の食料と、いくつかの道具を用意してくれた。そして最後に、小さな包みを、俺の手に握らせた。
開いてみると、古びた、けれど丁寧に磨き込まれた懐中時計だった。
「餞別じゃ。……儂が組んだ中で、一番の自信作でな」
「こんな大事なもの、受け取れませんよ」
「持っていけ。小僧、お前はユキ様を守ってくださった。それに、礼の品の一つも無くてどうする」
老人は、皺だらけの顔で、にやりと笑った。俺の力のことを、どこまで察しているのか。この老人の底は、最後まで読めなかった。
「それとな。……もし、どうにもならんくなったら、裏蓋を開けてみるといい」
「裏蓋?」
「なに、ただの職人の遊び心じゃよ」
それ以上は、何を聞いても答えてくれなかった。
その夜、俺たちは時計店の二階に泊めてもらうことになった。宿に戻るのは危険すぎる、というレム老人の判断だった。荷物は最低限。宿に残したものは、諦めるしかない。
寝支度を整えていると、階下から、ユキとミオの話し声が、微かに聞こえてきた。
「――それでね、ユキ様。里のみんな、きっとすっごく喜びます。特にサナお姉ちゃんなんて、毎晩、巫女様の御無事を祈って……」
「ふふ。会うのが、楽しみです」
「あ、あと、里の裏に、小さい温泉があるんです! 冬はそこで、みんなで――」
弾むようなミオの声と、それに相槌を打つユキの、柔らかい声。
「あの、ミオちゃん。一つ、お願いがあるんですけど」
「はい、なんでしょう!」
「その『様』っていうの、やめませんか。……私、ユキって呼ばれる方が、嬉しいです」
「え、ええっ!? そ、そんな、恐れ多い……!」
「じゃあ、せめて『ユキお姉ちゃん』とか」
「~~っ、が、頑張り、ます……ユキ、お姉ちゃん……」
「ふふ、はい」
まるで、本当の姉妹のようだった。
十年間、独りで凍えてきた二人が、やっと見つけた、同じ温度。その光景を思い浮かべると、口元が自然と緩んだ。――そして、そのすぐ後に、あの小さなざわめきが、また胸の隅をかすめた。
ユキには、帰る場所ができた。血の繋がりにも似た、絆の続きがあった。
じゃあ、俺は?
俺の十二の刻に、「仲間」はいるのか。精霊はもういない。時渡りの民は、滅んだ。この力の話を、同じ目線で分かち合える誰かは、この世界のどこかに、いるのだろうか。
……いや。ミオは言った。俺の名前は、里で、ずっと前から知られていた、と。
だとしたら、あの隠れ里には、ユキの過去だけじゃない。俺の――この力の答えの一端も、眠っているのかもしれない。
「……らしくないな」
小さく呟いて、頭を振った。今考えるべきは、そんな感傷じゃない。明日の夜明け前、無事にこの王都を抜けること。それだけだ。
窓の外に、目をやった。
夜更けの通りは、静まり返っていた。連なる屋根の向こうに、時計塔の影が、月を背にして黒く聳えている。
――あの地下に、何かがいる。
レム老人の言葉を思い出しながら、その黒い輪郭を見つめていた、そのときだった。
こつ、こつ、と。
通りの石畳を、複数の足音が、規則正しく近づいてくるのが聞こえた。
こんな夜更けに。
窓の縁に身を隠すようにして、通りを見下ろす。心臓が、嫌な速さで脈打ち始めた。
灯りの落ちた通りを、外套姿の男が三人、歩いていた。急ぐでもなく、迷うでもなく。一軒一軒の建物を、確かめるように見上げながら。
その歩き方に、見覚えがあった。あの雪の夜、焚き火の外側の闇で、息を潜めていた男たちと――同じ、匂いがした。
階下の話し声が、いつの間にか止んでいた。ユキとミオも、気配に気づいたのかもしれない。
息を殺して、窓の下を見つめ続ける。
男たちの足音が、一軒、また一軒と、近づいてくる。
そして――足音が、時計店の前で、止まった。
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