第16話「雪の残り火」
「お迎えに上がりました――ユキ様」
その言葉の意味を、頭が理解することを拒んでいた。
ユキ、様。目の前の白髪の少女は、確かにそう言った。深々と下げられた小さな頭。まるで、主君に仕える従者のような、迷いのない所作だった。
近くを通り過ぎた観光客の親子が、不思議そうにこちらを一瞥して、そのまま階段を下りていく。彼らの目には、子供同士のままごとか何かに見えたのかもしれない。頭上では、歯車の音が、何事もなかったかのように時を刻み続けている。
この日常の真ん中で、俺たちの足元だけが、静かに揺らいでいた。
「……あの、頭を、上げてください」
先に動いたのは、ユキだった。戸惑いながらも、階段を数段上り、少女のそばへと歩み寄る。
「人違い、だと思います。私は、その、様なんて呼ばれるような者では」
「いいえ」
少女は、顔を上げた。大きな瞳が、まっすぐにユキを見つめる。
「その白い髪。その灰色の瞳。左の耳の後ろに、三日月の形の痣がおありのはずです」
ユキの肩が、跳ねた。
「どうして、それを……」
「お生まれになった日から、存じ上げているからです」
少女の声は静かだったが、その一言は、雷のような重さでその場に落ちた。
生まれた日から。つまりこの少女は、ユキの過去を――ユキ自身もよく覚えていないという、あの滅んだ国での日々を、知っている。
「――待った」
俺は二人の間に、半歩だけ割って入った。
「悪いが、こっちはあんたが何者なのか、まだ何も知らない。昨日は逃げて、今日は様付けで頭を下げて……順番ってものがあるだろ」
「クロさん」
ユキが窘めるような声を出したが、少女は気を悪くした様子もなく、小さく頷いた。
「おっしゃる通りです。ですが――ここでは、お話しできません」
少女の視線が、すっと周囲へ流れた。階下の観光客たち。壁の案内板。そして、鉄格子の向こうの暗がり。
「この塔には、耳があります。……ついてきていただけますか。すぐ近くに、安全な場所があります」
「罠じゃない保証は」
「ありません」
少女は、あっさりとそう言った。
「ただ、罠を張るつもりなら、昨日、袋小路であなたを消しています。……そういう意味では、信じていただくしか」
十かそこらの子供の口から出たとは思えない、物騒な言い回しだった。だが、妙な説得力があった。
ユキが、俺の袖に、そっと触れた。
「クロさん。私、この子の言葉、嘘じゃないと思います」
「根拠は」
「……ありません。でも」
ユキは、少女の白い髪を見つめながら、静かに言った。
「同じ髪の色の人に会うのは、生まれて初めてなんです。この機会を、逃したくない」
その一言で、決まりだった。
少女に連れられて時計塔を出た俺たちは、大通りから外れた古い区画へと入っていった。石畳はところどころ欠け、建物の壁には長い年月の染みが浮いている。だが、寂れているというより、静かに時を重ねてきた、という表現の方が似合う一角だった。
道中、少女は何度か、さりげなく足を止めた。店先を眺めるふりをして、背後を確かめる。角を曲がる前に、一呼吸置く。その慣れた所作は、この少女がどれだけ長い間、人目を警戒しながら生きてきたかを、言葉よりも雄弁に物語っていた。
「……尾行は、ありません。行きましょう」
少女が足を止めたのは、小さな時計店の前だった。
『歯車と振り子の店 レムの時計店』
色褪せた看板の下、埃っぽいガラス窓の向こうに、大小さまざまな時計が並んでいる。少女は、扉を三回、二回、三回、と独特のリズムで叩いた。
内側から錠の外れる音がして、扉が開く。
「……戻ったか、ミオ。おや、そちらは」
顔を出したのは、腰の曲がった老人だった。丸眼鏡の奥の目が、俺とユキを順番に見て――ユキの髪のところで、止まった。
老人の目が、大きく見開かれた。
「……まさか」
「はい、レムじいさん」
ミオ、と呼ばれた少女が、初めて、年相応の笑顔を見せた。
「お連れしました。巫女様です」
店の奥の居間に通された俺たちは、勧められるまま、古びた木の椅子に腰を下ろした。
壁一面に、時計。棚にも、作業台の上にも、時計。振り子の音が幾重にも重なり合って、部屋全体が、静かに脈打っているようだった。よく見れば、どの時計も、寸分の狂いなく同じ時刻を指している。何十という振り子が、完全に揃って揺れる光景は、美しくもあり、どこか現実離れしてもいた。
「じいさんの店の時計は、王都で一番正確なんですよ」
ミオが、少しだけ得意げに言った。
「時計塔よりも、ですか」
ユキの何気ない問いに、レム老人の手が、ほんの一瞬、止まった。
「……時計塔と、同じ、じゃよ」
妙な間を置いて、老人はそう答えた。その一瞬の沈黙が、なぜか、妙に耳に残った。
レムと呼ばれた老人が、震える手で茶を淹れてくれた。湯呑みを置くその手つきは、職人らしく丁寧だったが、指先の震えだけは、抑えられていないようだった。緊張なのか、加齢のせいなのか。あるいは――ユキの顔を見てから、ずっと、何かを堪えているのか。
「……よう、ここまで、ご無事で」
ぽつりと零れた老人の声は、掠れていた。丸眼鏡の奥の目が、僅かに潤んでいるのが見えた。この老人にとっても、ユキとの対面は、十年間待ち続けた瞬間だったのかもしれない。
「……申し遅れました。私は、ミオといいます」
少女が、改めて名乗った。フードを完全に下ろした彼女の白い髪は、肩の上で短く切り揃えられていた。
「そして、こちらはレムじいさん。この店の主で、私たちを匿ってくれている恩人です」
「私、たち?」
ユキが、問い返した。
ミオは、一度だけ深く息を吸ってから、答えた。
「はい、私とユキ様が生まれ、十年前に滅んだ、雪の国セレスティアの生き残り達をです」
セレスティア。
初めて聞く、その響き。隣で、ユキが小さく息を呑んだ。膝の上の手が、白くなるほど強く握られている。
不意に、レム老人が指を一本立てた。
店先を、複数の足音が通り過ぎていく。規則正しい、揃った歩調。誰も口を開かないまま、何十という時計たちだけが、素知らぬ顔で時を刻み続けていた。
……足音が、遠ざかる。
「――巡回じゃ。最近、増えておってな」
老人は何事もなかったように茶をすすったが、その一言で、この店の「日常」がどういうものか、嫌でも理解できた。ミオが、声を一段落として、続けた。
「大陸の北の果てにあった、小さな国でした。一年の半分が雪に閉ざされる、貧しい国。でも、静かで、優しい国だったと、大人たちはいつも言っていました」
ミオ自身も、当時はまだ物心つくかどうかの年齢だったはずだ。彼女の語る故国の姿は、おそらく、生き残った大人たちから聞かされ、繰り返し胸に刻んできたものなのだろう。
「国が滅んだあの日、生き延びた者は、ほんの一握りでした。散り散りになって、名前を捨てて、髪を染めて……それでも、諦めなかった人たちがいます」
髪を、染めて。
その言葉に、はっとした。白い髪は、目立つ。追われる者にとって、それは致命的な目印だ。ミオがフードを深く被っていた理由も、生き残りたちが素性を隠して生きてきた重さも、その四文字に、すべて詰まっていた。
ミオの声は、幼さに似合わない、静かな熱を帯びていた。
「いつか、巫女様をお探しして、お守りするために。私たちは、ずっと、あなたを探していました。ユキ様」
「私、は……」
ユキの声が、掠れた。
「私は、ただの、巫女の家系の生き残りで……様なんて呼ばれる立場じゃ」
「いいえ」
ミオは、はっきりと首を横に振った。
「あなたは『家系の一人』ではありません。あなたは――最後の白い巫女。セレスティアが守り続けてきた役目を継ぐ、ただ一人のお方です」
沈黙が落ちた。
幾重にも重なる振り子の音だけが、その沈黙を刻んでいた。
「……ちょっと、待ってくれ」
俺は、混乱する頭を整理しながら、口を挟んだ。
「ユキは、自分の国のことも、巫女の役目のことも、詳しくは知らないって言ってた。国が滅んだ日のことも、よく覚えてないって。なのに、最後の巫女って……本人が知らないのに、そんな大役を背負ってるなんてことがあるのか」
「あります」
答えたのは、ミオではなく、レム老人だった。
「覚えていないのではない。……思い出せないように、されておるのじゃよ」
「されてる……?」
「巫女様が逃げ延びる際、追手から役目の存在を隠すため、記憶に封をした。そう聞いておる。幼い心を守るため、というのも、あったのだろうがな」
湯呑みを持つユキの手が、小刻みに震え始めた。
「私の、記憶に……封……」
「ユキ、無理するな」
思わず、その肩に手を置いた。顔色が、明らかに悪い。無理もない。自分の記憶が、自分のものではないかもしれないと、突然告げられたのだ。
「……すみません。大丈夫、です」
ユキは、深呼吸を一つして、顔を上げた。まだ青ざめてはいたが、その目には、逃げずに向き合おうとする光があった。
「ミオちゃん。……一つだけ、教えてください。『にげないで』って、どうして、あんな書き方を」
ミオは、少しだけ、目を伏せた。
「最初は、直接お声がけするつもりでした。でも、お二人の周りには、ずっと『塔』の目がありました。迂闊に近づけば、私たちの存在ごと知られてしまう。だから、あの印で、少しずつ、こちらへ導くしかなくて」
「塔の、目……」
「はい。……それで、その」
そこで、ミオの言葉が、急に歯切れ悪くなった。ちら、と上目遣いにこちらを窺う。その仕草だけは、年相応の子供のものだった。
「本当は『にげないで、私たちがいます』って全部書きたかったんです。でも、途中でクロ様に見つかって、追いかけられて……最初の五文字しか、書けませんでした」
「……は?」
「だ、だって、すごく足が速いんですもん、クロ様! 私、あんなに全力で走ったの、初めてでした!」
頬を膨らませて抗議するミオに、張り詰めていた部屋の空気が、ふっと緩んだ。ユキが、こらえきれずに小さく吹き出す。
「ふ、ふふ……ごめんなさい。でも、よかった」
「ユキ様?」
「あの言葉の続きが、『私たちがいます』で。……本当に、よかった」
目尻に浮かんだ涙を拭いながら、ユキは笑った。泣き笑いのような、不器用な、けれど確かに晴れた表情だった。
「……ついでに、白状しておく」
俺は、ばつの悪さを誤魔化すように、頭を掻いた。
「最初の印、俺が消した。塔の連中の目印だと思ったんだ」
「…………知ってます」
ミオの、じとりとした視線が刺さった。
「あれを見つけたときは、頭を抱えました。導きの起点だったのに……描き直すの、大変だったんですよ」
「悪かったって」
恨めしげなミオと、ばつの悪い俺を見比べて、ユキが、また小さく笑った。
「……ところで、一つ聞きたいんだが」
和んだ空気の中で、俺は、ずっと引っかかっていたことを口にした。
「あんた、さっきから普通に俺を『クロ様』って呼んでるよな。俺、名乗った覚えはないぞ。……それに袋小路でも、俺の名前を呟いてただろ」
ミオの手が、ぴたりと止まった。
「それは……」
視線が、泳ぐ。ちら、とレム老人の方を窺うと、老人が、ほんの僅かに首を横に振るのが見えた。
「……ごめんなさい。それは、まだ、お話しできません」
「話せない、じゃなくて、話さない、の間違いじゃないのか」
「…………」
俯いたまま、ミオは答えなかった。その沈黙が、何よりの答えだった。この少女たちは、ユキのことだけじゃない。俺のことも――俺自身が知らない何かを、知っている。
さらに問い詰めようとした、そのときだった。
場違いなほど可愛らしい音が、きゅう、と部屋に響いた。
一同の視線が、ミオの腹部に集まる。
「……あ」
白い髪の少女は、みるみる顔を赤くして、俯いた。
「そ、その、朝から、ずっと見張りをしていたので……」
「ミオ、お前また朝飯を抜いて」
レム老人の呆れた声に、ミオはますます小さくなった。ユキが、堪えきれずに笑いながら、荷物から昨日買った果物を取り出す。
「よかったら、どうぞ。ミオちゃん」
「……いいん、ですか」
「はい。一緒に食べましょう」
恐る恐る果物を受け取るミオの姿は、先ほどまでの大人びた従者の顔ではなく、ただの十歳の女の子のものだった。十年間、この小さな体で背負ってきたものの重さを思うと、胸の奥が、静かに痛んだ。
十年間、たった一人で背負ってきた白い髪。同じ色の髪を持つ少女が、目の前にいる。自分を探し続けてくれた人たちが、いる。その事実だけで、彼女の中の何かが、確かに救われたのだと思う。
俺はといえば、安堵と、それから、うまく言葉にできない小さな引っかかりを、同時に抱えていた。
ユキに、帰るべき場所と、待っていた人々がいた。それは喜ぶべきことだ。心から、そう思う。
なのに、胸の隅が、僅かにざわつく。この温かい再会の輪の中で、俺だけが、外側に立っているような――そんな、身勝手な感傷だった。それに、さっきのミオの沈黙。俺の知らないところで、俺の何かが、すでに誰かに知られている。その居心地の悪さも、確かにあった。
「――さて、と」
湯呑みを置いて、レム老人が、居住まいを正した。緩んでいた空気が、再び引き締まる。
「積もる話は山ほどあろうが、その前に、伝えねばならんことがある。……時間が、あまりないのでな」
「時間が、ない?」
老人は、丸眼鏡の奥から、俺とユキを交互に見た。そして、低く、絞り出すように言った。
「三日前から、『塔』の動きが変わった。王都の検問が増え、宿場の記録が改められておる。……奴らは、お前さんたちがこの町におることに、もう気づいておるよ」
さっきの、規則正しい足音が、嫌でも思い出された。
「そして昨日――北の街道から、狩人が一人、この王都に入った」
レム老人の声が、一段、低くなる。
「左目に刀傷。首に、針のない時計盤を下げた男じゃ」
ガルム。
あの雪の夜の、静かな声が、耳の奥に蘇った。
――狩りは、まだ終わっていなかった。
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