第15話「時計塔の影」
14話の最後のシーンですが、
『にげて』→『にげないで』に変更致しました。
『にげないで』
あの五文字を見つけてから、一夜が明けた。
宿の部屋の窓からは、朝日を浴びた時計塔が、嫌でも目に入った。昨日までは、ただの町の象徴だったはずのそれが、今は得体の知れない何かの中心のように見えてくる。
窓の外では、王都の朝が、いつも通りに始まっていた。荷馬車の音、パン屋の呼び込み、道を掃く箒の音。あの雑踏のどこかに、フードの人影も紛れているのだろうか。そんなことを考えながら、俺は窓辺から離れた。
「クロさんは、あの言葉、どう思いますか」
寝台の縁に腰掛けたユキが、静かに切り出した。昨夜は、二人ともほとんど眠れなかった。何度も寝返りを打つ音が、薄い壁越しに聞こえていた。
「正直、わからない。ただ……悪意がある人間の書き方じゃない、とは思う」
「私も、そう感じました」
ユキは、膝の上で両手を重ねながら、言葉を選ぶように続けた。
「罠を張るなら、『にげないで』なんて書きません。もっと甘い言葉で誘うはずです。助けてあげる、とか、真実を教える、とか」
「ああ。あの言葉は……なんというか、必死だった」
かすれた、急いで書いたような文字。あれは、余裕のある人間の筆致じゃない。伝えたいことがあって、けれど時間がなくて、それでも伝えずにはいられなかった――そんな切実さが、あの五文字には滲んでいた。
「それに、もう一つ気になってることがある」
「消え方、ですか」
ユキの言葉に、頷いた。さすがに、彼女も同じことを考えていたらしい。
「ああ。あの袋小路から、人が消える方法なんて、普通はない。……もし、あの人影が俺と同じような力を使えるんだとしたら」
「時渡りの民の、生き残り……」
口にした瞬間、部屋の空気が、僅かに重くなった気がした。老人の露店で聞いた伝承。滅んだはずの一族。力の一部を継ぐ者が、今もどこかに潜んでいるという説。
もしそれが本当なら、あの人影は、俺にとって――同じ力を持つ、初めての「誰か」ということになる。
「だから、私、思うんです」
ユキが、顔を上げた。
「あの人は、私たちに何かを知らせようとしてる。危険を冒してまで。……なら、それを確かめに行くべきじゃないかって」
まっすぐな目だった。半年前、視線を合わせることすら苦手だった少女の面影は、もうどこにもない。
「……時計塔、か」
「はい。紋様の弧は、あそこに向かっていました」
罠の可能性は、まだ消えていない。だが、このまま宿に籠っていても、状況は何も変わらない。それに――「にげないで」と言われて逃げ出すのは、なんだか癪だった。
「わかった。行こう。ただし、昼間の、人が多い時間帯にだ」
「はい!」
返事をするユキの声が、思いのほか明るくて、少し驚いた。
「なんだか、嬉しそうだな」
「え? ……あ、その」
ユキは、自分でも意外だったのか、少し照れたように視線を泳がせた。
「クロさんと一緒に、自分で決めて動けるのが……なんだか、嬉しくて。ずっと、逃げるだけだったから」
その言葉に、胸の奥が、じんと温かくなった。逃げるのではなく、確かめに行く。追われるのではなく、自分たちの意志で、前へ進む。それだけのことが、彼女にとって、どれほど大きな変化なのか。
「……そうだな。行こう」
階下の食堂で朝食を取りながら、給仕に来た女将に、それとなく時計塔のことを尋ねてみた。
「時計塔かい? ああ、王都の自慢さ。なにせ二百年間、一度も止まったことがないんだから」
女将は、湯気の立つスープを置きながら、誇らしげに胸を張った。
「二百年、一度も?」
「そうさ。戦争のときも、大火事のときも、あの鐘だけは正確に時を告げ続けたんだ。だから王都の人間はみんな、あの塔を信じてる。『時計塔が鳴る限り、この町は大丈夫』ってね」
「へえ……。中には、入れるんですか」
「鐘楼の下までなら、誰でも入れるよ。観光客にも人気さ。ただし、上の方は駄目だ。機構部分は『時の管理局』の管轄でね、許可のない人間は立ち入り禁止さ」
「時の管理局?」
聞き慣れない言葉に、思わず聞き返した。
「時計塔の維持管理をしてるお役所だよ。もっとも、あそこの職員、あたしらは顔も見たことないけどね。いつ出入りしてるんだか」
女将は、からからと笑って、次のテーブルへと去っていった。
ユキと、視線が合った。
時の、管理局。
「……偶然、でしょうか」
「わからない。ただ、覚えておいて損はない名前だな」
昼前、俺たちは時計塔へと向かった。
大通りは、今日も変わらぬ賑わいだった。パンを焼く匂い、呼び込みの声、石畳を鳴らす馬蹄の音。すれ違う人々は誰も、俺たちが抱える緊張など知る由もない。
「あ、クロさん。あのお菓子の屋台、今日も出てます」
ユキが、昨日の菓子屋を見つけて、少しだけ声を弾ませた。
「……帰りに、寄るか」
「いいんですか?」
「ああ。無事に帰ってこれたら、だけどな」
「もう。縁起でもないこと言わないでください」
軽口を叩き合いながらも、互いの声に、隠しきれない硬さがあることには、二人とも気づいていた。それでも、こういう他愛のないやり取りが、強張った心を、ほんの少しだけ軽くしてくれる。
近くで見上げる時計塔は、遠目に見るよりも、はるかに巨大だった。白い石造りの塔身が、雲を突くように伸びている。最上部の文字盤は、下から見上げると首が痛くなるほどの高さにあった。
「大きい……」
ユキが、ぽかんと口を開けて見上げている。周囲には、同じように塔を見上げる観光客の姿がちらほらとあった。家族連れ、行商人らしき男、絵筆を走らせる画家。のどかな昼下がりの光景だった。
入り口の大扉は開け放たれていて、人々が自由に出入りしている。俺たちも、その流れに紛れて中へと入った。
塔の内部は、外観からは想像もつかないほど、静かだった。
吹き抜けの空間に、螺旋階段が壁沿いを這うように上へと続いている。高い天井から、鎖で吊るされた無数の錘が、ゆっくりと、ほんの僅かずつ、下降していた。歯車の噛み合う音が、遠く頭上から、規則正しく降ってくる。
かち、かち、かち。
まるで、塔全体が、一つの生き物のように呼吸していた。
「すごい……これ、全部が時計の一部なんですね」
ユキが、感嘆の息を漏らした。壁面には、歴代の職人たちの名を刻んだ銘板や、時計塔の歴史を記した案内板が並んでいる。観光客たちは、それらを眺めながら、思い思いに塔の中を巡っていた。
「見て、あの歯車! すごく大きい!」
近くで、幼い子供が父親の袖を引いて、無邪気にはしゃいでいた。父親は笑いながら、子供を肩車してやっている。祖母らしき老婦人は、銘板の前で足を止め、懐かしそうに目を細めていた。
この塔は、王都の人々にとって、誇りであり、日常なのだろう。二百年間、変わらずに時を刻み続けてきた、当たり前の存在。
その当たり前の中に、俺たちだけが知る「何か」が、潜んでいる。
だが、俺は、それどころではなかった。
塔に足を踏み入れた瞬間から――体の奥が、ざわついていた。
遺跡の石門に触れたときと、同じ感覚。俺の中の十二の刻が、この場所の何かに、反応している。心臓の鼓動と、頭上から降る歯車の音が、少しずつ、重なっていくような錯覚があった。
指先が、微かに痺れる。体の中を流れる何かが、頭上の機構に引き寄せられているような感覚。不快ではない。だが、決して心地よくもない。強いて言えば――懐かしい、という感覚に、一番近かった。
来たことのない場所のはずなのに。
「クロさん? 顔色が……」
「……この塔、何かある」
小声で告げると、ユキの表情も引き締まった。
「遺跡と、同じ感じですか」
「ああ。近い。……いや、それよりもっと」
言葉を探して、口ごもった。遺跡で感じたのは、遠い残響のようなものだった。だが、ここで感じるのは――今も動いている、何かだ。
二百年間、一度も止まったことがない。女将の言葉が、頭の中で反響した。戦争のときも、大火事のときも、この塔だけは、正確に時を告げ続けた。
ただの、時計として?
それとも――。
観光客に紛れながら、塔の中を注意深く見て回った。螺旋階段は、三階分ほど上ったところで、鉄格子の扉に阻まれていた。「これより先、関係者以外立入禁止 時の管理局」と、案内板が掛かっている。
鉄格子の向こうには、さらに上へと続く階段が、薄暗がりの中に消えていた。錆一つない、頑丈な造りの格子だった。観光客向けの区画の、少し古びた温かみのある雰囲気とは対照的に、その先は、ひどく冷たく、拒絶的な空気を纏っていた。
その鉄格子の、すぐ脇。
壁の低い位置に、白い線があった。
円を描く、十二の刻み。
「……クロさん」
ユキが、俺の袖を強く掴んだ。
見間違いじゃない。あの紋様が、立ち入り禁止の扉のすぐ側に、描かれていた。他の観光客は、誰一人、気に留める様子もなく通り過ぎていく。
やはり、この印は、時計塔に繋がっていた。
紋様に近づき、しゃがみ込んで確かめる。これも新しい。そして、これまでの印と、一つだけ違う点があった。円の外側に、小さな矢印のような刻みが、一つ、添えられている。
矢印が指す先は――鉄格子の、向こう側だった。
「入れ、ってことか……?」
呟いた声は、頭上から降る歯車の音に、半分掻き消された。だが、格子は固く閉ざされ、錠前には鍵穴すら見当たらない。内側からしか開けられない構造なのかもしれない。
そのときだった。
うなじの産毛が、ぞわりと逆立った。
視線。
昨日、噴水の広場で感じたものと、同じ気配。振り返るより先に、体が強張った。
ゆっくりと、顔を上げる。
螺旋階段の一つ上の踊り場。手すりの陰に、小柄な人影が立っていた。
フードを目深に被った、昨日と同じ姿。
今度は、逃げなかった。人影は、じっと、こちらを見下ろしていた。フードの奥から注がれる視線が、俺と――そして、隣のユキの上で、止まった。
「……追いかけっこは、なしだ」
静かに、そう声をかけた。周囲の観光客に気取られないよう、抑えた声で。
「あんたが、あの印を描いたんだろ。『にげないで』ってのは、どういう意味だ」
人影は、答えなかった。ただ、じっと、こちらを見下ろしている。
数秒の沈黙。頭上の歯車の音だけが、変わらず時を刻んでいた。逃げるか、答えるか――人影が選ぼうとしているのが、フード越しにも伝わってくる。俺は動かなかった。ここで詰め寄れば、また昨日の二の舞だ。
やがて、人影は、ゆっくりと、フードの縁に手をかけた。
布が、滑り落ちる。
現れたのは、まだ幼さの残る、少女の顔だった。年の頃は、十かそこら。俺たちよりも、さらに幼い。大きな瞳が、緊張と、それを押し殺そうとする気丈さの間で、揺れていた。
そして――その髪は、雪のように、白かった。
「――ッ」
隣で、ユキが息を呑んだ。掴まれた袖越しに、彼女の手が震えているのが伝わってくる。
白い髪。ユキと同じ。生まれつき白い髪を持つ者だけが継ぐという、あの役目。
この世界で、ユキの他に、初めて見る白い髪だった。
少女は、階段の手すりに手を置いたまま、静かに口を開いた。鈴を転がすような、けれどどこか大人びた声だった。
「……やっと、直接お会いできました」
少女の視線が、ユキへと向けられる。
そして、彼女は、深々と頭を下げた。
「お迎えに上がりました――ユキ様」
様、と。
少女は確かに、そう言った。
「え……」
ユキの唇から、掠れた声が漏れた。俺の袖を掴む手に、いっそう力がこもる。
迎え。ユキ様。滅んだはずの国。白い髪の、もう一人の少女。
問いただしたいことが、一度に押し寄せて、言葉にならなかった。ユキの生まれた国は、とうの昔に滅んだはずだ。なのに、目の前の少女は、まるで主を待ち続けていた従者のように、深く、深く、頭を下げている。
頭上では、歯車の音が、変わらず時を刻み続けていた。かち、かち、かち。その規則正しい音だけが、言葉を失った俺たちの沈黙を、埋めていた。
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