第14話「白線の導き」
宿の朝は、旅の野営とは比べものにならないほど穏やかだった。
柔らかい寝台、暖かい食事、壁と屋根に守られた空間。それだけのことが、これほどありがたく感じられるとは、村にいた頃には想像もしなかった。
階下の食堂は、朝から賑わっていた。商談に興じる商人たち、地図を広げて旅程を練る行商人、給仕を呼ぶ声、皿の触れ合う音。誰もが、それぞれの朝を、当たり前のように過ごしている。
「クロさん、パン、もう一つ食べますか」
食堂の隅の席で、ユキが自分の皿から焼きたてのパンを差し出してくる。宿の女将が焼いたというそれは、素朴だが香ばしく、王都の朝の空気とよく合っていた。
「いいのか」
「はい。私、もうお腹いっぱいで」
そう言って微笑むユキの表情は、昨日の夕方の強張りが嘘のように、柔らかかった。一晩ぐっすり眠れたのだろう。頬の血色もいい。
「それにしても、この宿のご飯、美味しいですね。女将さん、すごく親切ですし」
「ああ。……ずっとここに泊まっていたいくらいだな」
「ふふ。クロさん、さっきから三回もおかわりしてますもんね」
「……腹が減ってたんだよ」
軽口を叩き合いながら、朝食を平らげていく。周囲の喧騒に紛れてしまえば、俺たちも、どこにでもいる旅の兄妹くらいにしか見えないだろう。そのことが、少しだけおかしくて、少しだけありがたかった。
だが、俺の頭の中には、昨日のあの白い紋様が、まだ焼き付いたままだった。
路地の壁に描かれていた、十二の刻み。乾いてすらいなかった、新しい線。
「……今日、少し町を歩いてみようと思う」
パンを齧りながら、努めて何気ない調子で切り出した。
「補給ですか?」
「それもある。けど、本命は別だ。……あの紋様が、他にもあるのか、確かめたい」
ユキの表情が、すっと引き締まった。食堂の喧騒の中、俺たちのテーブルの周りだけ、空気が変わったような気がした。
「私も行きます」
「危ないかもしれないぞ」
「二人の方が、目は多いです。それに――」
ユキは、少しだけ口ごもってから、続けた。
「一人で待ってる方が、よっぽど不安です」
その言い分には、反論できなかった。
「わかった。ただし、絶対に俺から離れるな。何かあったら、迷わず人の多い方に逃げること。いいな」
「はい」
素直に頷くユキの目には、不安と同じくらい、確かな意志があった。半年前の、怯えるばかりだった彼女なら、きっと宿で待つことを選んだだろう。今は違う。危険を承知の上で、自分の足で立とうとしている。その変化が、頼もしくもあり、同時に、守るべきものが増えたような、複雑な重みも感じさせた。
宿を出て、まずは昨日の路地に戻った。俺が袖で擦り消した紋様の跡は、白い粉の名残だけを残して、そこにあった。
朝の光の中で見ると、昨日の夕闇の中で感じた不気味さは、いくらか薄れていた。それでも、この印を描いた誰かが、この王都のどこかにいるという事実だけは、変わらない。
「ここを起点に、周りを探してみよう」
「はい」
二手に分かれず、あくまで二人一組で、路地を一本ずつ確かめていく。表通りの賑わいから一歩入るだけで、王都の空気は驚くほど変わった。狭い道、積まれた木箱、日の差さない湿った壁。野良猫が一匹、俺たちを一瞥して、塀の上へと消えていった。
「王都って、表と裏で、こんなに顔が違うんですね」
「ああ。……村とは、何もかも違うな」
二本目の路地で、ユキが足を止めた。
「クロさん」
彼女の視線の先、雨樋の陰の壁に、白い線があった。
円を描く、十二の刻み。昨日のものと、同じ筆致だった。
「……やっぱり、一つじゃなかったか」
近づいて確かめる。これも新しい。数日と経っていないように見えた。線の太さ、円の描き方、刻みの間隔。素人目にも、同じ人間の手によるものだとわかった。
それから半刻ほどの間に、俺たちは同じ紋様を、さらに三つ見つけた。どれも裏路地の、注意しなければ見過ごすような場所にばかり描かれている。壁の低い位置、雨樋の陰、木箱の裏。大人の目線を、意図的に避けているような高さばかりだった。
「五つ、ですね」
ユキが、指を折りながら数えた。
「ああ。……で、気づいたか?」
「はい。なんとなく、ですけど」
俺たちは顔を見合わせた。五つの紋様は、でたらめな場所に散らばっているのではなかった。地図に落とせば、緩やかな弧を描くように――どこか一点に向かって、並んでいる。
念のため、宿で借りた古い王都の地図を広げ、見つけた場所に印をつけてみた。指先で、五つの点をなぞる。誰の目にも明らかな、一本の流れがそこにあった。
「この先にあるのは……」
弧の先を目で辿る。裏路地の連なりの向こう、建物の隙間から覗いていたのは、あの巨大な時計塔だった。
「時計塔、か」
昨日から、何度も視界に入っていたあの塔。王都のどこからでも見える、この町の象徴。
偶然だと片付けるには、あまりに出来すぎていた。
「行ってみますか」
「……いや、待て」
踏み出しかけた足を、止めた。
罠かもしれない。この紋様が「塔」の連中の手によるものなら、俺たちをおびき寄せるための撒き餌という可能性は、十分にある。ガルムの、あの静かな声が耳の奥に蘇った。追うな。北への道は、一本しかない――あの男たちは、俺たちを泳がせることを、平然とやってのける連中だ。
「今日は、これ以上は追わない。まず、この紋様が誰の目にどう見えてるのか、確かめたい」
「どういうことですか?」
「他の住人にも見えてるなら、ただの落書きとして噂になってるはずだ。誰も気に留めてないなら――これは、わかる人間にだけ意味を持つ印ってことになる」
ユキが、なるほど、と小さく頷いた。
「クロさん、旅を始めてから、なんだか探偵みたいになってきましたね」
「……褒めてるのか、それ」
「褒めてます」
くすりと笑うユキに、張り詰めていた空気が、少しだけ緩んだ。
近くの露店で果物を買いながら、店主の老婆に、それとなく尋ねてみた。
「最近、この辺の路地に、変な落書きがあるって聞いたんですけど」
「落書き? さあねえ。子供のいたずらなら、しょっちゅうだけど」
老婆は、興味なさそうに肩をすくめた。円形の紋様、と食い下がってみても、心当たりはないという。二軒隣の雑貨屋でも、答えは同じだった。
「落書きなんて、いちいち気にしてたら、この町じゃやってけないよ」
雑貨屋の主人は、豪快に笑いながらそう言った。陰りのないその笑顔と、俺たちの抱える緊張との落差が、かえって際立った。この賑やかな町の誰一人として、あの紋様の意味を知らない。知っているのは、描いた誰かと――そして、俺たちだけだ。
「……誰も、気に留めてない」
「わかる人間にだけ、意味を持つ印」
ユキが、俺の言葉を繰り返した。二人の間に、重い沈黙が落ちる。
買った果物を齧りながら、俺は考えを巡らせた。この印が「塔」のものだとしたら、なぜ、こんな回りくどい方法を使う。ガルムたちのような手練れを動かせる組織が、チョークの落書きなどに頼る必要があるのか。
どこか、噛み合わない。
「クロさん、少し座りませんか。ずっと歩き通しでしたし」
ユキに促され、広場の噴水の縁に腰を下ろした。行き交う人々を、ぼんやりと眺める。荷車を引く男、駆け回る子供たち、井戸端で談笑する女たち。平和そのものの光景だった。
「こうして見てると、不思議ですね」
隣で、ユキがぽつりと言った。
「何がだ」
「この町の人たちは、誰も、『塔』のことも、時渡りの民のことも知らずに、普通に暮らしてる。私たちだけが、別の世界を生きてるみたいで」
その言葉は、妙に胸に残った。同じ景色を見ていても、俺たちと彼らでは、見えているものがまるで違う。それは、村を出る前、トマスの無邪気な笑顔を見送ったときに感じたものと、同じ種類の隔たりだった。
「……いつか、何も気にせず、こういう町を歩けるようになるといいな」
「はい。……そのときは、あの屋台のお菓子、食べてみたいです」
ユキが指差した先には、甘い匂いを漂わせる菓子屋の屋台があった。深刻な話の直後に、あまりに素直な願いが飛び出してきて、思わず吹き出してしまった。
「なんだそれ」
「い、いいじゃないですか。ずっと気になってたんです」
頬を膨らませるユキに、肩の力が抜けていく。
そのときだった。
視界の端で、何かが動いた。
通りの向かい、建物の角。小柄な人影が、壁に手を伸ばしている。フードを目深に被った、子供のような背格好。その手には――白い、チョークのようなもの。
「クロさん、あれ……!」
ユキが囁くのと、人影がこちらに気づくのが、ほぼ同時だった。
フードの奥の顔は見えない。だが、確かに、視線が合った。
一瞬。ほんの一瞬だけ、人影の動きが止まった。驚いたのか、それとも――何かを、確かめたのか。
フードの縁から、微かに覗いた口元が、何かを呟いたように見えた。声は届かなかった。だが、その唇の動きは、俺の名前を象っていたようにも見えた。
気のせいだ。そう思いたかった。会ったこともない相手が、俺の名前を知っているはずがない。
人影が、駆け出した。
「待て!」
考えるより先に、足が動いていた。
「ユキ、人混みから出るな! 広場にいろ!」
振り返らず、それだけを叫ぶ。背後で「クロさん!?」と声が上がったが、足を止める余裕はなかった。
人混みを縫って、路地に飛び込む。狭い。暗い。積まれた木箱を飛び越え、洗濯物の下を潜る。前を行く小さな背中は、驚くほど速い。この路地の全てを知り尽くしているような、迷いのない走りだった。
角を曲がる。もう一つ曲がる。距離が、詰まらない。
――ユキを、置いてきた。
不意に、その事実が頭をかすめた。狙われているのは、彼女なのに。もしこれが、俺を引き離すための囮だったら。
一瞬、足が鈍った。振り返るか。追うか。
その迷いの間に、前を行く背中が、また一つ角の向こうに消えた。
「くそ……!」
歯を食いしばり、追う方を選んだ。広場は人目が多い。ユキなら、言いつけを守るはずだ。信じるしかなかった。
石畳が途切れ、足元が土に変わる。水たまりを踏み抜く。冷たい飛沫が跳ねた。構わず走る。息が上がる。それでも、あの小さな背中だけは、見失うわけにはいかなかった。
前方で、人影が積み荷の隙間に体を滑り込ませた。大人では通れない幅だ。舌打ちして、迂回する。数秒のロス。さっきの迷いと合わせて、その差は、もう取り返せないところまで開いていた。
《1時・加速》を使うか――一瞬、頭をよぎった。だが、こんな人目のある場所で力を使えば、それこそ「塔」に居場所を知らせるようなものだ。
三つ目の角を曲がったところで、足が止まった。
行き止まり。高い塀に囲まれた、袋小路だった。
人影は、どこにもいなかった。
「……消えた?」
肩で息をしながら、周囲を見回す。塀を登った形跡はない。隠れられそうな物陰もない。まるで、煙のように掻き消えていた。
いや――煙のように、じゃない。
嫌な想像が、頭をよぎった。人が、目の前から一瞬で消える方法を、俺は一つだけ知っている。俺自身の中に眠る、十二の刻。あの中には、確か――《10時・跳躍》。瞬間移動に近い力が、あったはずだ。
まさか。
まさか、あの人影も。
背後から、駆けてくる足音がした。振り返ると、ユキが路地の入り口で、肩で息をしていた。
「はぁ、はぁ……クロさん、無事ですか……!」
「広場にいろって言っただろ」
「言いつけは、守りました。……クロさんが角を曲がって見えなくなるまでは」
息を切らしながらも、きっぱりとそう言い返され、二の句が継げなかった。心配をかけたのは、こっちも同じだ。
「……悪い。だが、見失った」
「あそこまで追いかけて、ですか?」
「ああ。塀は高すぎる。隠れる場所もない。なのに、いない」
ユキの表情も、みるみる強張っていった。俺と同じ可能性に、思い至ったのかもしれない。額に浮かんだ汗が、冷たく感じられた。
「クロさん、あそこ」
彼女が指差したのは、袋小路の突き当たりの壁だった。
白い線で、あの紋様が描かれていた。
ただし、今度のそれは、これまでの五つとは違っていた。円を描く十二の刻みの、その中央に――短い言葉が、一言だけ、添えられていた。
かすれた、急いで書いたような文字。だが、読み間違えようがなかった。
『にげないで』
たった五文字が、袋小路の薄闇の中で、白く浮かび上がっていた。
背後の路地から、雑踏のざわめきが、ひどく遠く聞こえた。隣で、ユキが息を呑むのがわかった。
この印を描いていたのは、俺たちを追う者じゃない。
なら――会ったこともない誰かが、俺たちを、何のために引き留めようとしているのか。
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