第13話「王都リンデール」
遺跡を発って十日、俺たちはようやく、王都の城壁を目にした。
道中、幸いにもガルムたちの追跡はなかった。だが、油断はできなかった。あの静かな声が「追うな」と告げたことの意味を、俺はまだ測りかねていた。獲物を逃したわけではなく、何か別の思惑があるのだとしたら――そう考えるだけで、背筋に冷たいものが走った。
「……大きい」
思わず漏れた呟きは、自分でも間抜けに聞こえた。だが、それ以外の言葉が出てこなかった。これまで見てきたどの町とも、比較にならない規模だった。高く聳える城壁、その向こうに覗く尖塔の群れ、そして城壁の外にまで溢れ出すように広がる家々。
「わあ……!」
隣で、ユキが声を上げた。目を輝かせ、身を乗り出すようにして城壁を見上げている。
「こんなに大きな町、初めて見ました。まるで、絵物語の中みたいです」
無邪気にはしゃぐその横顔には、これまでの旅で積み重ねてきた緊張とは違う、素直な高揚感があった。俺の中にある警戒心とは対照的な反応に、思わず苦笑が漏れる。
「はしゃぐのはいいけど、油断はするなよ」
「わかってます! でも、今だけは」
くるりとこちらを振り向いたユキの表情は、屈託がなかった。人が多い場所は、それだけ危険も増える。頭ではそうわかっていても、彼女のその笑顔を曇らせたくはなかった。
「……まあ、少しくらいはな」
苦笑しながらそう答えると、ユキは満面の笑みで頷いた。この数ヶ月、彼女がこんな風に笑う瞬間は、決して多くはなかった。だからこそ、今だけは、その笑顔を守ってやりたいと思った。
城門をくぐると、そこは別世界だった。石畳の広い通り、軒を連ねる商店、着飾った人々。物売りの声、荷馬車の音、遠くから聞こえる楽器の音色。これまで通ってきたどの町よりも、圧倒的な情報量が、次から次へと押し寄せてくる。
露店に並ぶ色とりどりの反物、見たこともない果物、宝飾品を扱う店の煌びやかな装飾。ユキは、その一つ一つに目を奪われながら、それでも足を止めることなく、俺の隣を歩き続けた。無邪気さと、旅の中で身につけた慎重さが、彼女の中で自然に同居しているのがわかった。
「はぐれるなよ」
そう言って差し出した手を、ユキは一瞬だけ、じっと見つめた。
「……はい」
重ねられた手には、これまでと同じようで、少しだけ違う熱があった。遺跡での、あの夜の言葉。あれから、俺もユキも、そのことには触れていない。触れないまま、けれど確かに、繋いだ手の意味だけが、少し変わっていた。
俯き加減のユキの耳が、頭巾の陰で、ほんのり赤くなっているのが見えた。気づかないふりをして、俺は前を向いた。自分の耳も、たぶん、同じ色をしている。
頭巾を目深に被ったユキの白い髪は、幸い、雑踏の中ではそれほど目立っていないようだった。すれ違う人々の誰もが、自分たちのことになど関心を払っていない。その事実が、不思議なくらい安心感を与えてくれた。
学院までの道のりを、道行く人に何度か尋ねながら進んだ。王都の住人たちは、辺境から来た旅人にも、思いのほか親切だった。
「学院なら、あの大通りをまっすぐだよ。大きな時計塔が目印だ」
親切な老婆に礼を言い、示された方角へと歩を進める。しばらくして、確かに、遠くに巨大な時計塔が見えてきた。街並みのどこからでも見えるほどの高さで、王都のどこにいても、時を意識させられる作りになっているようだった。
「時計塔、か」
なんとなく、その存在に引っかかりを覚えた。単なる偶然かもしれない。それでも、十二の刻を持つ身として、時計という言葉には、どうしても敏感になってしまう。
学院の正門は、想像していたよりもずっと厳かだった。石造りの門柱に、精緻な彫刻。門番らしき制服姿の男が二人、槍を携えて立っている。行き交う学生たちは、皆一様に整った身なりをしていて、これまで俺たちが纏ってきた旅装束とは、明らかに一線を画していた。
「ここに、部外者が入れるのか」
思わず呟くと、ユキも不安げに頷いた。
「聞いてみるしか、なさそうですね」
門番に近づき、恐る恐る声をかける。
「あの、資料を見せてもらいたいんですが……時渡りの民について、調べていることがあって」
緊張しながら切り出した声は、自分でも情けないほど上擦っていた。
「学院の資料閲覧は、在籍者か、紹介状を持つ者に限られる」
にべもない返答だった。予想はしていたが、いざ突きつけられると、肩を落とさずにはいられなかった。
「紹介状なんて、俺たちには……」
「無理なら、諦めるんだな」
門番は、それ以上取り合う様子もなく、視線を逸らした。取り付く島もない、というのはこのことだった。この規模の町ともなれば、旅人一人の事情など、いちいち構っていられないのかもしれない。
肩を落として門前を離れ、近くの広場のベンチに腰を下ろす。
「どうしましょう。せっかくここまで来たのに」
ユキの声にも、落胆の色が滲んでいた。
「何か、別の方法を考えないとな」
頭を捻っていると、ふと、隣のベンチに座っていた老人が、こちらに視線を向けているのに気づいた。学者然とした身なりの、白髪の男だった。
「聞こえてしまったんだが……いや、正直に言おう。門前で『時渡りの民』と口にした若者を、儂は三十年ぶりに見た。それで、つい後を追ってしまった」
不意に声をかけられ、思わず身構えた。だが、老人の穏やかな眼差しに、敵意のようなものは感じられなかった。
「……ご存知、なんですか」
「多少はな。儂は、学院で歴史学を教えている者だ。……もしよければ、少し話を聞かせてもらえないか。その代わりと言っては何だが、資料室への案内くらいは、してやれるかもしれん」
思いがけない申し出に、ユキと顔を見合わせた。警戒すべきかどうか、判断がつかない。だが、この状況で、手がかりを無視するという選択肢もなかった。
「……お願いします」
「クロさん、本当に信じて大丈夫でしょうか」
小声で尋ねるユキに、俺も正直な気持ちを返した。
「わからない。だが、これを逃したら、次にいつ手がかりが見つかるかもわからない」
用心深さと焦りの間で揺れ動きながら、それでも今は、動かない理由より、動く理由の方が勝っていた。
迷いはあった。それでも、一歩を踏み出す以外に、前に進む方法はなかった。
老人――ヴォルフと名乗った学者に連れられ、俺たちは学院の裏口から、資料室のある棟へと案内された。歩きながら、ヴォルフは時折、興味深そうにこちらを見た。
「時渡りの民について調べているとは、また物好きな。今どき、学院の中でも、あの分野を専門にする者は少なくなった」
「昔は、違ったんですか」
「ああ。数十年前までは、それなりに研究が盛んでな。優秀な学者が、こぞってその謎を解き明かそうとしていたものだ。儂も、若い頃は多少齧った口でな」
懐かしむような口調に、少しだけ警戒が緩んだ。
「だが、ある時を境に、関連資料の多くが閲覧禁止になった。今では、限られた者しか触れられない」
「閲覧禁止……どうしてですか」
ヴォルフは、少し考えるように間を置いてから答えた。
「詳しいことは、儂も知らん。ただ、噂では――『塔』の意向だと聞いている」
その一言に、心臓が跳ねた。
「塔、ですか」
「知っているのか」
「いえ……最近、その名前を、別の場所で耳にしただけです」
平静を装って答えたが、内心は穏やかではなかった。あのガルムという男が口にした言葉と、今、この学院で聞いた言葉が、同じ単語を指している。偶然とは思えなかった。
資料室に到着すると、ヴォルフは、鍵のかかった書架の一角を示した。埃を被った古い書物が、所狭しと並んでいる。長年、誰の手にも触れられてこなかったことが、一目でわかった。
「一般には見せられないものだが……まあ、少しだけなら。見つかれば、儂とて只では済まんのだがな」
冗談めかした口ぶりだったが、目は笑っていなかった。この老人は、俺たちのために、決して小さくない危険を背負おうとしている。その事実が、じわりと重く伝わってきた。
古びた書物を数冊、手渡される。表紙には、あの時計の紋様に似た意匠が刻まれていた。ページをめくるたびに、乾いた紙の匂いと、微かな埃が舞い上がる。長年、光の当たらない場所に眠っていたことを物語る、独特の重みがあった。
「ゆっくり見るといい。ただし、他言はしないように」
「クロさん、これ」
ユキが、開いたページを指差す。そこには、これまで見てきたどの資料よりも詳細な、十二の刻についての記述があった。文字は古く、読み解くのに苦労したが、それでも、これまで断片的にしか知らなかった力の名称や、その特性が、体系立てて書き記されていた。
だが、途中のページから、明らかに何かが切り取られたような跡が残っていた。ページの端が不揃いに破れ、糊付けされた背表紙の一部が、不自然に浮いている。
「破られてる……」
失われた部分に何が書かれていたのか、想像するしかなかった。だが、わざわざ隠されているということ自体が、そこに重要な何かがあったことを物語っていた。
「意図的、ですよね。これ」
「ああ。誰かが、都合の悪い部分だけを、切り取ったんだろうな」
自分の声が、思いのほか硬く響いた。誰が、いつ、何のために――疑問ばかりが、頭の中で積み重なっていく。
ページをさらにめくっていくと、隅の方に、小さな走り書きを見つけた。かすれてほとんど読めないが、辛うじて「塔」という文字だけが判別できた。
「塔というのは、何なんですか」
ヴォルフに、思い切って尋ねてみた。
「先ほども言った通り、詳しくは知らん。ただ、一つだけ耳にしたことがある」
ヴォルフは、声を落とし、周囲を窺うような仕草を見せた。
「『塔』は、時渡りの民の生き残りを、今も探し続けているという噂だ。真偽のほどはわからんが……もしお前さんたちが、その関係者に追われているというなら」
言葉を濁したヴォルフの目に、初めて、明確な懸念の色が浮かんだ。
「早々に、この町を離れた方がいいかもしれん。ここは、奴らの目が、一番届きやすい場所でもある」
その忠告に、指先がすっと冷えた。せっかく辿り着いた王都が、同時に最も危険な場所でもあるという事実に、改めて気を引き締めさせられる。掴んだ手がかりの重みと、それに見合うだけの危険とが、天秤にかけられているような感覚だった。
「ありがとうございます。……忠告、心に留めておきます。でも、どうして、会ったばかりの俺たちに、ここまで」
尋ねると、ヴォルフはしばらく黙り込んだ。それから、書架の奥の暗がりを見つめるように、目を細めた。
「……儂の恩師はな、この分野に深入りしすぎて、学院を追われた人だった。研究も、地位も、著作さえも、すべて奪われた。あの人が何を掴みかけていたのか、今となっては、誰も知らん」
淡々とした声だった。だが、その静けさの奥に、長年抱え続けてきたものの重さが透けて見えた。
「あのとき儂は、保身に回って、何も言えなかった。……だからこれは、罪滅ぼしのようなものだ。誰かに知識を渡すことくらいは、老いぼれにも、まだできる」
その言葉に、どう返せばいいのか、すぐには見つからなかった。ただ、深く頭を下げることしか、できなかった。
ヴォルフは、それ以上多くを語らず、俺たちを資料室の外まで見送ってくれた。
「縁があれば、また会うこともあるだろう。……達者でな、若いの」
学院を出る頃には、日はすっかり傾いていた。長い影を引きずりながら、大通りを歩く人々の顔にも、夕暮れの色が滲んでいる。
「クロさん、これからどうしますか」
「今夜は、宿を探そう。それから……」
言葉を切り、振り返って学院の尖塔を見上げた。夕暮れの光に照らされたその輪郭は、昼間見たときよりも、どこか威圧的に見えた。
「もう少しだけ、この町にいてみようと思う。危険は承知の上だ。だが、これだけの情報が手に入った以上、ここで引き返すのは惜しい」
自分の言葉に、自分自身で頷くように、もう一度心の中で繰り返した。
ユキは、少し不安げな表情を浮かべながらも、小さく頷いた。
「はい。……クロさんが決めたなら、私もついていきます」
宿の看板を探して、大通りから一本、裏の路地に入ったときだった。
足が、止まった。
路地の壁。剥がれかけた漆喰の上に、白い線で、小さな図形が描かれていた。
円を描いて並ぶ、十二の刻み。
チョークか何かで引かれた、粗い線だった。だが、見間違えようがない。俺の掌に浮かんだあの紋様、遺跡の石門に刻まれていたあの紋様と、同じ形をしていた。
「クロさん、これ……」
ユキの声が、掠れた。
指先で触れると、白い粉が、乾いた漆喰からぽろりと零れ落ちた。
――新しい。描かれてから、まだそれほど時間が経っていない。
誰が。何のために。
ヴォルフの言葉が、頭の中で反響した。『塔』は、時渡りの民の生き残りを、今も探し続けている。ここは、奴らの目が、一番届きやすい場所だ――。
俺は袖で、紋様を強く擦り消した。白い粉が、夕闇の中に舞って散る。
消したところで、意味がないことは、わかっていた。これを描いた誰かは、今もこの王都のどこかにいる。そして、おそらく――印は、これ一つでは終わらない。
「……宿は、表通り沿いで探そう」
努めて平静な声で、そう言った。ユキが、無言で、繋いだ手に少しだけ力を込めた。いつの間にか、城門をくぐったときの高揚感は、二人の間から消えていた。
大きな町は、大きな賑わいと同じだけ、大きな影も抱えている。
夕闇が迫る王都の空に、時計塔の輪郭だけが、いつまでも黒く浮かび上がっていた。
ここまで読んでくださりありがとうございます!
面白かったら ↓の☆☆☆☆☆ をポチッと評価&ブクマしていただけると、とても励みになります(^^)
☆⬇️⬇️⬇️⬇️⬇️☆




