第3話「十二の刻」
家に戻る道すがら、頭の中で何かがおかしかった。
自分の記憶ではないものが、勝手に流れ込んでくる。見知らぬ町の景色。誰かと交わした約束。子供の泣き声と、それを抱き上げる誰かの腕。そして――何かに追われ、傷つき、それでも力を手放すまいとする、あの精霊自身の記憶。
「……これ、本当に俺の頭の中か?」
思わず立ち止まり、額を押さえた。冷たい汗が、うなじを伝う。自分の考えと、流れ込んでくる記憶の境目が、うまく掴めない。自分という輪郭が少しずつ滲んで、誰か別のものと混ざり合っていくような感覚だった。
怖い。
素直にそう思った。この記憶を受け入れ続けたら、いつか自分が自分でなくなってしまうんじゃないか。クロという人間が、精霊が抱えていた何百年分もの想いに、塗り潰されてしまうんじゃないか。
誰かに相談できたら、どれほど楽だろう。だが、これを打ち明けたところで、誰が信じてくれるというのか。「精霊から力を受け継いで、頭の中に見知らぬ記憶が流れ込んでくる」――そんな話、正気を疑われるだけだ。
結局、俺はこの不安を、誰にも打ち明けられないまま、一人で抱え込むしかなかった。
家に着いても、その不安は消えなかった。夕食の席で、母や父と何気ない会話を交わしながらも、頭の片隅では常に、見知らぬ記憶の断片がちらついている。味のしない食事を、無理やり飲み込んだ。
「クロ、あんた今日、心ここに在らずって感じだね」
母の指摘に、はっとして顔を上げた。
「……ごめん、ちょっと考え事してた」
「無理しないようにね。何かあったら、いつでも言うんだよ」
優しい言葉が、かえって苦しかった。心配をかけまいと取り繕う自分と、本当のことを話せない後ろめたさが、重なり合っていた。
その夜、眠りは浅かった。何度も、知らない誰かの夢を見た。崩れる建物、逃げ惑う人々、そして、繰り返される絶望。目が覚めるたびに、自分がどこにいるのか、一瞬わからなくなる。
三日目の朝、鏡代わりの水盆に映る自分の顔を見て、俺はようやく気づいた。
目の下に、濃い隈ができている。頬もこけて見える。自分の内側から、何かが少しずつ削られていくような、そんな顔だった。
「このままじゃ、駄目だ」
小さく呟いた。声にしてみると、思ったよりも弱々しく響いた。このまま流れ込んでくる記憶に振り回され続けていたら、いずれ本当に、自分を保てなくなる。
だとしたら――受け身のままではいられない。
俺は、自分から動くことにした。流れ込んでくる記憶を、ただ怯えながら受け止めるのではなく、自分の意志で「これは俺のものじゃない」と、線を引く。
簡単なことではなかった。夜、眠る前に何度も繰り返した。「これは精霊の記憶だ。俺の記憶じゃない。俺はクロだ」と。何度も、何度も。呪文のように唱えながら、少しずつ、記憶との境界線を自分の中に描き直していった。
そうして迎えた四日目の朝、頭の中の靄は、完全にではないが、幾分か晴れていた。
もちろん、記憶の断片は今も時折流れ込んでくる。だが、それに完全に呑まれることはなくなった。「これは俺じゃない」と、心の中で一線を引けるようになっていた。
そして、その記憶の中から、ひとつだけはっきりとわかることがあった。
「時間魔法は、隠さなければならない」
理由をうまく言葉にはできない。ただ本能が、そして流れ込んでくる記憶の断片が、そう告げていた。この力の存在を知られることは、危険を呼び込む。精霊がなぜそこまで追い詰められ、消えるしかなかったのか。その答えの一端が、ここにある気がした。
家の裏、誰も来ない小さな空き地で、俺は静かに右手を掲げた。
正直に言えば、怖かった。あの継承の痛みを思い出すだけで、また同じような激痛が襲ってくるんじゃないかと、体が強張る。
それでも――このまま怯えて何もしなければ、あの日見た未来は、確実にやってくる。
「――《3時・停止》」
一瞬、世界から音が消えた。風も、虫の声も、揺れる葉も、すべてが静止する。
驚くほど呆気なく、それは発動した。継承したばかりの頃には想像もできなかったほど、すんなりと。
だが、数秒後、時が動き出した瞬間――体の奥から根こそぎ何かを持っていかれるような、猛烈な疲労感が襲ってきた。
「――ッ、ぐ……!」
膝が折れる。視界が霞み、耳鳴りがする。丸一日、飲まず食わずで働き続けた後のような、いや、それ以上の消耗だった。
地面に手をつき、荒い呼吸を繰り返しながら、俺は自嘲気味に笑った。
「……こんなんじゃ、何日ももたない」
たった数秒の停止に、これほどの代償がいる。もし何度も使えば、どうなるのか。想像するだけで、恐ろしくなった。
それでも、しばらく息を整えた後、俺はもう一度、右手を掲げた。
「もう一回、だけ」
今度は先ほどよりも短く、ほんの一瞬だけ。
「――《1時・加速》」
視界が僅かに歪んだ、次の瞬間。
世界が、ゆっくりになった。
風に舞う木の葉が、空中で止まりそうなほど緩やかに落ちていく。羽虫の羽ばたきの、一回一回が見える。自分の呼吸の音だけが、やけに大きく響く、引き伸ばされた世界。
「……すご……」
思わず、声が漏れた。
怖いとか、危険だとか、この数日ずっとそんなことばかり考えていたのに――今この瞬間だけは、素直に、心が躍っていた。誰も知らない世界を、俺だけが歩いている。そんな、子供じみた高揚感だった。
試しに、一歩踏み出してみる。緩やかな世界の中を、自分だけが普通の速さで動ける。落ちていく木の葉を、指先でそっと摘まみ取った。
「はは……なんだよ、これ」
笑ってしまった。この数日で、初めて笑った気がした。
発動を止めた瞬間、どっと疲労感が押し寄せる。だが、《3時・停止》のときほどの激しい消耗ではなかった。摘まみ取った木の葉が、手の中に残っている。夢じゃない、確かな証拠として。
「……力によって、消耗の重さが違うのか」
荒い息の中でも、頭は先ほどより冷静だった。知ることは、力になる。少なくとも、何もわからないまま怯え続けるよりは、ずっとましだった。
頭の中には、十二の刻がそれぞれ何を意味するのか、最初から知っていたかのように浮かんでいる。
加速、減速、停止、巻き戻し、未来視、修復、老化、反転、ループ、跳躍、観測、そして――まだ名前しか分からない、十二番目の力。
「《12時》……」
試しにその名を口にした瞬間、頭の奥に鋭い痛みが走った。「まだ早い」とでも言うように、強い拒絶の感覚が全身を駆け抜ける。
「――ッ!」
思わず膝をつく。届いてはいけない領域に触れようとした、罰のような痛みだった。
先ほどまでの高揚が、一瞬で冷えていく。そうだ。この力は、優しくない。面白がることを許してくれるのは、ほんの入り口だけだ。
深く息を吐き、掲げていた手を下ろす。まだ全部は使いこなせない。それに、この力を使うたびに何かを代償として支払っているらしいことも、身をもって理解できた。
しばらくの間、俺はその場に座り込んだまま、動けずにいた。
こんな不完全な力で、本当に何かを変えられるのか。数秒の停止だけで倒れ込むような自分が、あの滅びの未来に、本当に抗えるのか。
けれど、ふと、脳裏に蘇る光景があった。
――瓦礫の中で泣いていた、白い髪の少女。そして、精霊が最後まで抱えていた、誰かを守れたという小さな希望の記憶。
あの記憶は、もう俺の一部になっている。完全に切り離せるものじゃない。だとしたら、あの記憶が教えてくれたことも、俺は忘れちゃいけないんだと思う。
この力は、ただの罰じゃない。さっき、木の葉を摘まみ取ったときの、あの高揚。あれだって、この力の一面だ。使い方次第で、誰かを守るための力にもなる。
「……迷ってる暇は、ないか」
ゆっくりと立ち上がり、汚れた服の埃を払った。
その日の夕方、村に戻った俺を、トマスが呼び止めた。
「クロ、最近元気ないな。何かあったのか?」
「……いや、何でもない。ちょっと、考え事してただけだ」
「そっか。まあ、無理すんなよ。……そういえば、お前最近、頭巾かぶってること多いよな。日焼け対策か?」
「まあ、そんなとこだ」
曖昧に誤魔化しながら、内心では冷や汗をかいていた。青くなった前髪を見られるわけにはいかない。幸い、トマスはそれ以上深く追及してこず、収穫祭の屋台の話へと、勝手に話題を移していった。
「今年こそ串焼き二本な。去年、俺の分まで食っただろ」
「食ってない。あれはお前が落としたんだ」
「言ったな? 絶対おごれよ」
からりと笑うトマスに、いつも通りの調子で返す。他愛のないやり取りが、この数日で強張っていた何かを、少しだけほぐしてくれた。守りたいのは、きっとこういう時間なんだと思う。
夜、寝台に横になりながら、俺はもう一度、自分の掌を見つめた。
まだ全てを使いこなせるわけじゃない。まだ、この重さに慣れたわけでもない。それでも、今日一日で、確かに何かが前に進んだ。
そのまま眠りに落ちようとした、そのときだった。
掌の上に、うっすらと、何かが浮かび上がった。
十二の数字が円を描く、あの時計の紋様。淡い光の線が、皮膚の上を一周だけなぞり――俺が息を呑む間もなく、すっと消えた。
「……今の、は」
呼んでいない。何も、発動させていない。
慌てて掌を目に近づけるが、そこにはもう、何の痕跡もなかった。ただ、紋様が消える瞬間、頭の奥に、精霊の記憶の断片がひとつ、ひどく鮮明に流れ込んできた。
それは、後ろ姿だった。
古い石造りの祭壇のような場所に、誰かが立っている。顔は見えない。ただ、その人物の髪だけが、はっきりと見えた。
白い髪だった。
腰まで届く長い髪が、蝋燭の灯りを受けて、淡く揺れている。精霊は――かつて、その後ろ姿を、祈るような想いで見つめていた。流れ込んできた記憶には、そんな感情の色が、確かに滲んでいた。
白い髪。
あの未来視の中で、瓦礫に蹲って泣いていた少女と、同じ色。
「……どうして」
暗い天井に向かって、掠れた声で問いかける。答えるものは、誰もいない。
どうして、何百年も昔の精霊の記憶の中に――あの少女と同じ、白い髪があるんだ。
偶然だと思おうとした。白い髪の人間なんて、探せばどこかにいるはずだと。けれど、胸の奥に落ちた小さな棘は、その夜、いつまで経っても抜けてはくれなかった。
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