第2話「消えゆく精霊」
決意を固めたはずだった。
「絶対に、あんな未来にはさせない」――昨夜、確かにそう誓った。だが、朝を迎えてみると、あの覚悟は驚くほど脆く、あっさりと揺らいでいた。
俺に、何ができる。
十二歳の、村人以外の何者でもない子供。使える力といえば、井戸を凍らせる程度の氷魔法と、まだ半分も制御できていない得体の知れない時間の力だけ。国を、いや世界を滅ぼすほどの何かに、こんな自分がどうやって立ち向かうというのか。
昨夜の自分が、ひどく滑稽に思えた。あんな大それた誓いを立てて、いったい何が変わるというのだろう。
布団の中で、何度も同じ問いを繰り返した。俺に何ができる。何を変えられる。答えの出ない自問が、頭の中をぐるぐると回り続け、気づけば夜が明けていた。
朝食も、いつもの半分ほどしか喉を通らなかった。母が心配そうにこちらを見ていることに気づいていたが、うまく笑い返す気力さえ湧かなかった。
「クロ、今日はもう休んでていいよ」
「……大丈夫。少し、森を歩いてくる」
「あんまり遠くに行くんじゃないよ」
母の声を背に、俺は家を出た。行く当てなどなかった。ただ、狭い部屋の中で、あの光景――割れた空、崩れる町、そして瓦礫の中で泣いていた白い髪の少女――を思い返し続けることに、耐えられなかっただけだ。
森の中を歩きながら、俺はずっと自分に問いかけていた。
なぜ、あんな未来を見せられた。なぜ、他の誰でもない俺が。こんな重すぎるものを背負わされる理由が、どこにあるというのか。
答えは出なかった。当然だ。誰も、俺にその理由を教えてはくれない。
足取りは重かった。それなのに、体だけが勝手に、森の奥へ奥へと進んでいく。十二歳の子供の足では心許ない距離を、気づけばずいぶんと歩いていた。理由はわからない。ただ、「行かなければ」という感覚だけが、胸の奥から確かに突き上げてくる。
やがて、木々が開けた場所に出た。
そこには、燃え尽きる寸前の焚き火のような、儚い光を纏った「何か」がいた。人の形をしているが、輪郭は絶えず揺らぎ、今にも消えてしまいそうだ。
「精霊……?」
思わず呟いた声に、その存在がゆっくりとこちらを向いた。表情はない。けれど、纏う気配だけで、深く傷ついていることが伝わってくる。
――ああ、この気配には覚えがある。
昨日、あの未来視の中で見た、崩れゆく世界そのものが放っていた気配と、どこか似ている。絶望に染まりきった、それでもまだ完全には諦めきれていない、ひどく歪な気配だ。
『……子供が、こんな場所に』
声は頭の中に直接響いた。同時に、彼女の周囲の空間が歪んでいることに気づく。何か――目に見えない「敵」と、ずっと戦い続けてきた跡だ。地面には、俺の知らない紋様が幾つも刻まれ、その一つ一つが、焼け焦げたように黒ずんでいた。
「あんた、大丈夫なのか」
そう尋ねた自分の声が、思いのほか掠れていることに気づいた。目の前の存在の弱々しさが、昨夜からずっと抱えていた自分自身の不安と、どこかで重なって見えたのかもしれない。
『大丈夫、なんて言えるはずがないでしょう』
精霊は、微かに――笑ったような気配を纏った。
『わたしは、もう長くない。何百年も、この力を守ってきたけれど……ここまでのようね』
「守ってきた力って……」
『時間を統べる、十二の理。……本来、誰かに背負わせていい重さじゃない。わたし自身、何度もこの力に押し潰されそうになった。何百年もの間、ずっと』
その言葉に、胸の奥が冷たくなった。
『昔、わたしにも守りたいものがあった。小さな集落、そこで暮らす人々。この力を使えば、彼らを苦しめる災いから守れると信じていた。……でも、守れば守るほど、何かを失っていった。時間を捻じ曲げる代償は、いつだって残酷なものよ』
精霊の声には、感情の起伏こそなかったが、その言葉の端々に、何百年分もの疲弊が滲んでいた。
『助けられなかった者たちの顔を、今でも覚えている。何度巻き戻しても、何度未来を覗いても、救えない運命があった。それでも、わたしはこの力を手放さなかった。手放せば、次に犠牲になるのが、また別の誰かだと知っていたから』
「……それでも、あんたは戦い続けたのか」
『他に、選べる道がなかっただけよ』
その言葉が、やけに重く胸に響いた。何百年も、押し潰されそうになりながら、それでも守り続けてきた。そんな重さを、今からたった十二歳の子供に――俺に、押し付けようとしている。
『でも』
彼女の輪郭が、また薄くなる。蝋燭の火が、消える直前のように。
『あなたに、託してもいいかしら』
「え……」
思わず、後ずさりそうになった。昨夜、あれほど強い決意を固めたはずなのに、いざ目の前に「本物の重さ」を突きつけられると、足が竦む。この力を受け継いだ先に、何百年も精霊を苦しめ続けた「何か」が、俺の前にも立ちはだかるということだ。
それでも――戸惑いの中で、ずっと引っかかっていた疑問だけが、口をついて出た。
「待ってくれ。俺は、そんな……それに、その力なら、もう使えるんだ。少しだけだけど。去年の冬から、勝手に」
『……ええ、知ってるわ』
精霊の声に、驚いた様子はなかった。
『あなたの中にあるのは、まだ「芽」のようなもの。器だけが、先に出来上がっていたの。誰の中にでも起きることじゃない。……おそらく、あなたには、その芽を宿すだけの何かが、生まれつき備わっていたんでしょうね』
「芽……?」
『わたしが渡すのは、その芽を実らせ、制御するための理。芽だけでは、いずれ制御を失って、あなた自身を蝕んでいくだけだったはず。……ちょうどよかった、とさえ思うわ。渡す相手が、無関係な誰かじゃなくて』
その言葉に、これまで感じてきた小さな違和感の答えを、一つだけ与えられた気がした。なぜ自分だけが、あの熱に浮かされた夜に、十二の刻を知ったのか。理由はまだわからない。それでも、この力が完全に降って湧いたものではなく、もっと前から、俺自身の中に根を張っていたのだと知り、奇妙な納得感があった。
けれど――納得することと、覚悟を決めることは、別ものだった。
怖い。芽のままでも蝕まれ、受け継いでも、あの「何か」と戦うことになる。どちらを選んでも、もう後戻りできない場所に、俺は最初から立っていたのだ。
俺なんかが、耐えられるはずがない。
『継承には、対価がいる。でも今は、選んでいる余裕がないの。ごめんなさいね』
謝る必要なんてないと言おうとした。だが、そんな言葉すら、今の俺には迷いだらけで、うまく紡げなかった。
けれど、声が出るよりも早く、彼女の体から光の粒が溢れ出し、俺の胸の中へと吸い込まれていった。
熱い。焼けるように、凍えるように、時間そのものが体の中を駆け巡る感覚。
「――ぐ、あああッ!」
膝が折れ、地面に突っ伏す。全身の血管という血管に、燃える炭を直接流し込まれているような激痛だった。頭の中に、見たこともない光景が奔流のように流れ込んでくる。
崩れる町。逃げ惑う人々。誰かの絶叫。そして――幾度も幾度も繰り返される、同じ絶望の光景。精霊自身が生きてきた何百年もの記憶が、そのまま俺の中に叩き込まれていた。
苦しい。痛い。怖い。
やめてくれ、と叫びたかった。こんな重さ、俺には抱えきれない。今すぐにでも、この力を投げ捨ててしまいたい。そんな弱い自分が、確かに心の奥底にいた。
けれど――その痛みの奔流の中に、ふと、小さな光のような感覚が混じっていることに気づいた。
それは、精霊が守り続けてきた、何百年もの中で、確かに救えた誰かの記憶だった。助かった命。守り抜いた小さな村。絶望の中でも、決して消えなかった、小さな希望の灯り。
――ああ、そうか。
この重さは、ただの罰じゃない。何百年もの間、確かに誰かを守ってきた証でもあるんだ。
痛みは消えなかった。恐怖も消えなかった。それでも、歯を食いしばり、地面に爪を立てながら、俺はその奔流を受け止め続けた。
「――ありがとう」
最後にそう聞こえた気がした。光が完全に消えたとき、そこにはもう誰もいなかった。
しばらくの間、俺はその場に倒れ込んだまま、荒い呼吸を繰り返していた。全身が鉛のように重い。頭の芯には、まだ鈍い痛みが渦巻いている。
それでも――不思議と、心のどこかは、さっきよりも凪いでいた。
静寂の中、ゆっくりと体を起こし、俺は自分の前髪を一房、震える指で摘まんだ。
黒かったはずのそれは、深い青色に変わっていた。
あの精霊が最後まで抱えていた、深い悲しみと覚悟の色を、そのまま受け継いだかのような色だった。
「……重い、な」
小さく呟いた声は、自分でも驚くほど掠れていた。だが、その言葉には、昨日の夜とは違う響きがあった。
怖くないわけじゃない。この力の重さに、押し潰されそうな予感は、今もまだ胸の奥に居座っている。
それでも――もう、逃げるという選択肢は、俺の中にはなかった。
何百年もの間、たった一人でこの重さを背負い続けた精霊がいた。その果てに、最後の力を、見ず知らずの子供にすら託さねばならないほど、追い詰められていた。
だったら、せめて。
「あんたが守ってきたものを、無駄にはしない」
誰もいない森の中、俺は静かにそう誓った。
それは、昨夜の勢いだけの決意とは、少し違うものだった。恐怖も、迷いも、消えないままそこにある。それでも、その痛みごと抱えて、前に進もうとする――そんな、不格好で、けれど確かな一歩だった。
木々の隙間から差し込む光が、青くなった前髪を淡く照らしている。
俺はゆっくりと立ち上がり、重い足取りで、村へと続く道を歩き出した。
途中、小川の畔で足を止め、水面を覗き込んだ。映った自分の顔は、記憶にあるものより少しやつれていたが、それ以上に目を引いたのは、やはり青く染まった前髪だった。
「……これ、どう説明すればいいんだ」
呟いてはみたものの、答えは出なかった。氷魔法のように誰かに見せて喜ばれるものでもなければ、簡単に隠せるものでもない。だが今は、この見た目の変化よりも、体の中に流れ込んできた「何か」の方が、ずっと重くのしかかっていた。
村の入り口が見えてきた頃、頭巾を目深に被り、前髪をできる限り隠しながら歩いた。幸い、畑仕事に忙しい時間帯だったこともあり、誰ともすれ違わずに家まで戻ることができた。
「クロ、思ったより早かったね」
出迎えた母の声に、俺は俯き気味に頷いた。
「ちょっと、疲れた……先に部屋で休んでもいいか」
「あら、顔色悪いね。ちゃんと休みな」
怪訝そうにしながらも、母はそれ以上追及しなかった。階段を上がりながら、俺は小さく息を吐いた。
部屋に戻り、扉を閉めてから、ようやく頭巾を外す。鏡代わりの水盆に映る自分の顔は、やはりどこか他人のもののように見えた。
けれど、不思議と、それを嫌だとは思わなかった。
この青は、あの精霊が何百年も背負い続けた重さの色だ。だとすれば――この色を纏って生きるということは、あの精霊の想いごと、俺が引き継いだということでもある。
「……上等じゃないか」
強がり半分に、そう口にしてみる。まだ怖い。まだ、この重さに押し潰されそうになる夜が、これから何度も来るのだろう。それでも、今日この瞬間だけは、一歩前に進めた気がした。
寝台に腰を下ろし、窓の外を眺める。傾き始めた西日が、村の屋根々をゆっくりと橙色に染めていた。その景色をぼんやりと目で追いながら、俺は今日あったことを、ひとつずつ胸の中で確かめていった。
――と。
瞬きを、ひとつしただけのはずだった。
窓の外が、暗かった。
「……え?」
思わず立ち上がる。さっきまで、確かに西日が差していた。屋根が橙色に染まるのを、この目で見ていた。それが今、窓の外にはもう星が瞬き、階下からは夕食の支度をする音が聞こえてくる。
眠っていた? いや、違う。横になってすらいない。寝台に腰掛けた、その姿勢のままだ。夢を見ていた感覚も、うたた寝から覚めた気怠さもない。
ただ――俺の中から、夕暮れのひとときが、丸ごと抜け落ちていた。
『継承には、対価がいる』
あの声が、急に冷たい実感を伴って蘇った。
あのとき、精霊は続きを言わなかった。対価が「何」なのか。選んでいる余裕がないと、謝りながら光になった。
まさか。
震える手で、自分の胸を押さえる。心臓は、いつも通りに動いている。体もある。記憶も――たぶん、ある。ただ、ほんの一刻ほどの時間だけが、どこにも見当たらない。
「……俺は、何を支払ってるんだ」
暗い窓に映る、青い前髪の自分に問いかける。
答えは、返ってこなかった。
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