第1話「滅びの刻」
はじめまして、鏡花です。
このお話が、初めて書く小説になります。
未熟な部分も多いと思いますが、
最後まで楽しんでいただけたら嬉しいです。
「この世界は、滅びる」
――そのことを、このときの俺はまだ知らなかった。
朝の空気は、冷たかった。いつも通りに。
木々の隙間から差し込む光は柔らかい。遠くの山々には、まだ朝靄がかかっている。鶏の鳴き声。誰かが桶を運ぶ音。それだけで、ここがどこの朝なのか、わかってしまう。
俺が生まれ育ったヴェスの村は、大陸の北寄り、深い森と切り立った山に囲まれた小さな集落だ。人口は百人にも満たない。都からは馬車で半月はかかると聞いたことがある。だから、都会の喧騒も、貴族の権力争いも、戦争の気配すらも、ここまでは届かない。ただ穏やかな時間だけが、飽きもせず繰り返し流れていく。それだけの場所だ。
この世界には、大小さまざまな国が存在する。俺たちが暮らすヴェスの村が属するのは、リンデール王国と呼ばれる、決して大きくはないが、長い歴史を持つ国だ。王都には魔法を学ぶための学院があり、優れた才能を持つ者は、いずれそこに招かれるという話も聞く。もっとも、こんな辺境の村に生まれた子供にとっては、遠い夢物語のような話でしかなかった。
「クロ! いつまで寝てるんだい、もう日が高いよ!」
2階から響く母の声に、俺――クロは重い瞼をこじ開けた。
窓の外は、白々と明けている。ここ最近、妙に寝覚めが悪い。深く眠っているはずなのに、朝になると体の芯に疲労が残っている。寝ている間に、どこか遠くまで走らされていたみたいに。
「今起きる……」
寝癖のついた黒髪を掻きながら、俺はのそのそと寝台を降りた。
顔を洗って、身支度を整えて、階下に降りる。母のリーゼが朝食の準備をしていた。パンを焼く香ばしい匂いと、鍋で煮込まれている野菜のスープの湯気。それだけで、狭い台所が満たされる。
「父さんは?」
「もう畑に出てるよ。今日は薪割りも頼まれてるから、後でクロも手伝っておくれ」
「わかった」
椅子に座り、パンを頬張る。窓の外を、ぼんやりと眺めた。裏庭では、飼っている鶏が餌をついばんでいる。隣の家からは、洗濯物を叩く音。何の変哲もない。当たり前の朝だ。
けれど――ここ数ヶ月、何かが少しずつ、狂い始めている感覚があった。
上手く言えない。強いて言うなら、当たり前だったはずの景色に、薄い膜が一枚被さっているような。そんな違和感だった。
朝食を終えた後、井戸まで水を汲みに行くと、幼馴染のトマスが桶を片手に走ってきた。
「クロ! 今日一緒に川、見に行かないか。上流で魚がよく跳ねてるって、爺さんが言ってたんだ」
「悪い、今日は薪割り頼まれてる」
「なんだよ、真面目だなあ。……そういえばさ」
トマスは声を落とし、少し悪戯っぽい笑みを浮かべた。
「昨日、隣村のやつがお前の氷魔法の話してたぞ。『ヴェスの村に、井戸を一瞬で凍らせる子供がいる』って。ちょっとした有名人じゃん」
「大袈裟だよ。あんなの、ちょっとした水仕事の手伝いだ」
「いやいや、俺なんて魔法のひとつだって使えないんだから、十分すごいって」
トマスは肩を竦め、自分の手のひらに視線を落とした。この世界では一定数、魔法の才能を持って生まれる子供がいる。多くは炎や風、土といった素朴な系統の魔法だが、氷の魔法は水源の管理に重宝されるため、特に喜ばれる傾向にあった。
「ま、俺は畑仕事の才能があるから、それで十分だけどな!」
からりと笑うトマスに、つられて俺も口元を緩めた。
「そういえばさ、来月には隣町でお祭りがあるらしいぞ。収穫祭の。行かないか?」
「収穫祭か……行けたら行くよ」
「絶対だぞ! 屋台の串焼き、去年もクロと一緒に食べただろ。今年も約束な」
指切りでもしそうな勢いのトマスに、俺は思わず苦笑した。
こういう他愛のないやり取りが、俺の日常の大部分を占めている。優しい両親、気の置けない友人、穏やかな村の暮らし。何一つ、不満はなかった。
だからこそ――もうひとつの、氷魔法とはまったく異なる力のことを、俺は誰にも話せずにいた。
桶いっぱいに水を汲み、井戸の水面を軽く指で撫でる。触れた場所から、薄い氷の膜がすっと広がっていく。トマスが「おお」と声を上げる。それを聞きながら、俺はふと、自分の中に眠るもうひとつの力のことを思った。
こんな風に、誰かに見せて笑い合えたら。どれほど気楽だろう。
俺には、村の誰にも打ち明けていない秘密がある。
氷の魔法を使えることは、村の人間もほとんどが知っている。子供の頃、井戸に落ちた猫を助けようとして、咄嗟に足場を凍らせたのが最初だった。それ以来、水甕を凍らせて食料を保存したり、夏場に氷を作って火照った体を冷やしたりと、村の暮らしに役立つ程度には重宝されている。氷の魔法使いというのは、この国では決して珍しい存在ではない。多少才能があるというだけで、特別扱いされるようなものではなかった。
だが、それとは別に――俺の中には、もうひとつの力が眠っている。
きっかけは、去年の冬だった。
高熱を出して三日三晩うなされた夜、夢の中で、時計の文字盤のような紋様を見た。十二の数字が円を描き、その中心で何かが脈打っている。目が覚めたとき、俺の指先からは、見たこともない色の光が零れていた。
それから、少しずつ「わかる」ようになった。
自分の動きを一瞬だけ速くする力。目の前の相手の動きを遅くする力。ほんの数秒だけ、世界の時間を止める力。壊れた道具を、壊れる前の姿に戻す力――。
最初から知識として頭の中に刻まれていたかのように、十二の力の存在と、その名前だけが、俺の中にあった。
1時・加速
2時・減速
3時・停止
4時・巻き戻し
5時・未来視
6時・修復
7時・老化
8時・反転
9時・ループ
10時・跳躍
11時・未来観測
12時・クロノス
時計の文字盤になぞらえた、十二の刻。
最初はただ、面白い力だと思っていた。夜、誰にも見られない場所で試しに《1時・加速》を使ってみたときは、自分だけ違う世界に紛れ込んだような感覚に、子供らしい高揚感を覚えたものだ。景色がゆっくりと流れ、自分だけが速く動ける。秘密のご褒美をもらったような気分だった。
けれど、使うたびに気づいたことがある。
この力は、優しくない。
《1時・加速》を使った後は、決まって体中が鉛のように重くなる。《3時・停止》を数秒使っただけで、次の日は起き上がることさえ辛いほどの消耗が襲ってくる。自分の中にある「時間」そのものを、力の対価として差し出しているかのような感覚だった。
そして何より――これが何なのか、なぜ自分がこんな力を持っているのか、誰に聞いても答えは出ない。村の物知りである長老に、それとなく「時間を操るような魔法って、聞いたことある?」と尋ねてみたことがある。長老は怪訝な顔をして、「そんな魔法、聞いたこともない。おとぎ話の中にすら出てこないねえ」と答えた。
その答えが、余計に俺を不安にさせた。
氷の魔法のように、誰かに教われるわけでも、書物に記述があるわけでもない。この世界の理から外れた、存在してはいけないもののような気さえした。
だから俺は、この力のことを誰にも話していない。氷の魔法とは違う、もっと得体の知れないこの力を明かせば、村の人々がどんな顔をするか、想像するだけで恐ろしかった。優しい両親を、不安にさせたくもなかった。
それに――根拠のない直感が、ずっと警告していた。
この力の存在を知られてはいけない、と。
まるで、遠い記憶の中の誰かが、耳元でそう囁いているかのように。理由もわからないまま、その声にだけは、なぜか逆らってはいけない気がしていた。
実を言えば、こうした頭痛のような予兆は、これが初めてではなかった。
ひと月ほど前にも、川で洗濯を手伝っている最中に、一瞬だけ視界が歪んだことがある。そのときは、ほんの一秒にも満たない間、何か暗い影のようなものが脳裏を過ぎっただけだった。何かが崩れる音。誰かの悲鳴のような気配。だが、あまりに一瞬のことで、俺はそれを「気のせい」だと片付けていた。
思えば、あれもまた《11時・未来観測》の、ごく僅かな発動だったのかもしれない。少しずつ、俺の中で何かが目を覚まし、力を増していくかのように。
そして今日――とうとうその予兆は、無視できないほどはっきりとした形をとって現れた。
「クロ、薪割り手伝ってくれ」
昼を過ぎた頃、畑仕事を終えた父のヒーゴが声をかけてきた。日に焼けた顔に、深いシワを刻んだ、無骨だが優しい男だ。
「わかった」
裏の物置から斧を取り出し、丸太を並べていく。単調な作業だが、体を動かすのは嫌いじゃない。むしろ、こういう時間の方が、頭の中の靄が晴れる気がした。
丸太に斧を振り下ろす。乾いた音を立てて、木が真っ二つに割れる。もう一本。また一本。繰り返すうちに、額に汗が滲んでくる。
「最近、疲れが取れてないみたいだな」
ふと、父が言った。
「そう見える?」
「顔色が悪い日が多い。何か悩み事でもあるのか」
一瞬、言葉に詰まった。悩み事、と言えば悩み事だ。だが、それを説明するには、あの得体の知れない力のことを話さなければならない。
「……なんでもない。ちょっと、眠りが浅いだけ」
「そうか。まあ、無理はするなよ」
それ以上、父は追及してこなかった。優しい沈黙が、かえって痛かった。
薪割りを終え、井戸へと向かう途中、ふと妙な違和感を覚えた。
風が、止んでいる。
さっきまで葉を揺らしていたはずの木々が、時が止まったかのように静止していた。鳥の声も、虫の羽音も、一切聞こえない。
「……?」
立ち止まり、辺りを見回す。だが、次の瞬間には、何事もなかったかのように風が吹き、木の葉がざわめき始めた。空耳だったのか、それとも――。
胸騒ぎを覚えながらも、ひとまず井戸へと足を進めた。冷たい水で顔を洗い、火照った体を落ち着かせる。水面に映る自分の顔は、いつも通りの黒髪に、少し疲れた表情をしていた。
だが、井戸で顔を洗っていると、頭の奥に、ずきりと鋭い痛みが走った。
「――っ」
視界が一瞬、ブレる。水面に石を投げ込んだときのように、目の前の景色が波打った。
(また、これか)
ここ最近、時々こういう瞬間があった。頭の奥に痛みが走り、意識が一瞬だけ遠くなる感覚。今まではすぐに治まっていた。だが――今日は、様子が違った。
痛みが、引かない。むしろ、じわじわと強くなっていく。
「な、んだ……これ」
頭の奥で、何かが軋むような音がした。固く閉ざされた扉を、内側から誰かが力任せに叩いている。そんな感覚。呼吸が浅くなり、視界の端が黒く滲んでいく。
膝から力が抜け、その場に崩れ落ちる。地面に手をついても、支えきれない。冷たい土の感触だけが、やけに鮮明に伝わってきた。
「く、ぁ……ッ」
歯を食いしばっても、うめき声が漏れる。心臓が早鐘のように打ち、耳の奥で自分の血流の音が響く。何か巨大なものが、体の内側から溢れ出そうとしている。そんな圧迫感。
視界が白く霞み、代わりに、頭の中に何かの映像が流れ込んでくる。
これは――夢じゃない。
《11時・未来観測》。
まだ一度も自分の意志で発動したことのない、十二番目に近い力が、今、勝手に動き出していた。
気づけば、見知らぬ場所に立っていた。
いや――正確には、「立っている」という表現すら正しくない。体には重さがなく、足元の地面を踏みしめている感覚もない。ただ、視界だけがそこにある。魂だけが、その場に運ばれたような感覚だった。
空を見上げて、息を呑んだ。
空が、割れていた。
薄氷を叩き割ったときのように、大空に幾筋ものひびが走り、その隙間から、見たこともない色の光――赤とも紫ともつかない、不吉な色をした光が漏れ出している。
視線を下ろすと、そこにあったのは、かつて何かの町だったであろう瓦礫の山だった。崩れた石壁、傾いた鐘楼、燃え尽きて黒く炭化した木々。人の気配はどこにもない。いや――正確には、いた。だが、それはもう「人」と呼べる状態ではなかった。
地面のあちこちに、うっすらと発光する砂のようなものが積もっている。それが何なのか、理解した瞬間、背筋が凍った。
――時間が、逆流している。
崩れた建物の一部が、砂となって崩れながら、同時に「元の形」に戻ろうとしては、また崩れる。その繰り返し。世界そのものが、壊れる瞬間と直る瞬間を、永遠にループしているようだった。
時間という概念そのものが、狂っている。
視界は、ひとつの場所に留まらなかった。風に攫われるように、景色が次々と移り変わっていく。
次に映ったのは、見覚えのある――いや、見覚えなどあるはずのない、巨大な都市だった。おそらくは、王都と呼ばれるような場所なのだろう。石造りの城壁も、天を衝くような尖塔も、今はことごとく傾ぎ、崩れかけている。大通りには、無数の光の粒子となって崩れていく人々の姿があった。悲鳴すら上げる間もなく、体の輪郭から少しずつ砂状に崩れ、風もないのに宙へと攫われていく。時間という概念そのものに「存在」を巻き戻され、消去されていくようだった。
さらに景色は移ろい、今度は緑深い森だった。だが、その森もまた、奇妙に歪んでいる。同じ木が、同じ場所で、芽吹いては朽ち果て、また芽吹く。壊れた砂時計のように、時間が同じ瞬間を、狂ったように繰り返している。
遠くには、崩れた城の一部と思しき残骸も見えた。かつて誰かがそこで暮らし、笑い、争い、生きていたはずの場所が、今はただの瓦礫と化している。その光景のあまりの虚しさに、息が詰まった。
そして最後に、視界は再び、あの瓦礫の町へと戻ってきた。
遠くに聞こえる音があった。
すすり泣くような、小さな声。
導かれるように、その音の方へと「視線」を向ける。体はないのに、歩いているかのように、景色が流れていく。
瓦礫の間、崩れた石畳の上に、少女が一人、蹲っていた。
白い髪。土埃と煤で汚れた服。膝を抱え、顔を伏せて、声を殺しながら泣いている。周囲には誰もいない。助けに来る者も、寄り添う者もいない。ただ、この世の終わりのような景色の中に、たった一人。
年の頃は、俺と同じくらいだろうか。折れた鐘楼の残骸にもたれかかるようにして座り込む姿は、あまりにも小さく、あまりにも頼りなく見えた。着ている服は、かつては上等な仕立てだったのだろうと窺えるほどに、繊細な刺繍が施されている。だが今はもう、煤と血で汚れ、あちこちが破れていた。
震える肩。時折漏れる、掠れた嗚咽。泣くことにすら、疲れ果てているような。そんな力ない泣き方だった。
見ているだけで、喉の奥がひりつくように痛んだ。自分自身が、あの場所に蹲っているかのような、奇妙な同化の感覚すらあった。
「――ッ」
腹の底から、何かが突き上げてくる。焦燥、恐怖、そして――名前のつけようのない、強い衝動。
「待って」
声にならない声で、そう呼びかけた。届くはずがないとわかっていた。これは未来の光景だ。今の俺がどれだけ叫んでも、目の前の少女には聞こえない。
それでも、手を伸ばさずにはいられなかった。
少女が、ふと顔を上げた。
涙に濡れた瞳。曇り空のような、淡い色をした瞳だった。その瞳が、ゆっくりと、こちらを――俺がいる方向を見た気がした。
届くはずのない視線が、確かに交わった。そんな気がした。
刹那、少女の唇が、何かを紡いだ。声は聞こえない。けれど、その口の動きは、はっきりと「たすけて」と、そう動いたように見えた。
「――ッ!」
叫ぼうとした瞬間、少女の姿が、砂のように崩れ始めた。指先から、髪の先から、光の粒子となって解けていく。
「待て、待ってくれ――!」
声にならない叫びを上げた瞬間、視界の全てが真っ白に染まった。これ以上見ることを、許されないとでも言うように。光が全てを覆い尽くしていく。
「クロ! クロ、しっかりしな!」
母の悲鳴のような声で、意識が引き戻された。
目を開けると、そこは井戸端だった。地面に倒れ込んだ俺を、母のリーゼが抱き起こしている。心配そうに覗き込む顔の向こうに、駆けつけてきたらしい父の姿もあった。
「だ、大丈夫……」
体を起こそうとして、あまりの気怠さに顔をしかめた。丸一日、休みなく畑仕事をした後のような疲労感。頭の芯には、まだ鈍い痛みが残っている。
「大丈夫なわけあるか! 急に倒れて、うなされて……! 熱もないのに、一体何が」
母の声は震えていた。心配をかけたことに、罪悪感が込み上げてくる。
「なんでもない、ちょっと立ちくらみが……」
「立ちくらみで、あんなにうなされるものかい」
言葉を濁す俺を、母は疑わしげに見つめた。だが、それ以上は追及せず、俺を支えて家の中へと連れて行ってくれた。寝台に横になると、途端に瞼が重くなる。
「少し眠りな。何かあったら、すぐ呼びなさい」
母の手が、そっと額に触れる。その温もりを感じながら、俺は意識を手放した。
次に目を覚ましたのは、夕暮れ時だった。
窓から差し込む茜色の光が、天井にゆっくりと影を伸ばしている。体を起こそうとすると、節々が軋むような重だるさがあった。
「起きたか」
部屋の入り口から、父のヒーゴが顔を覗かせた。手には水の入った器を持っている。
「……心配、かけた」
「まったくだ。だが、無事で何よりだよ」
父は器を差し出しながら、寝台の脇に腰を下ろした。しばらく無言のまま、俺の顔をじっと見つめる。
「なあクロ。父さんには、話してくれてもいいんだぞ」
「……」
「昼間も言ったろう。最近のお前は、疲れが取れてない顔をしてるって。……今日のは、ただの立ちくらみじゃないんだろう。何か、一人で抱えてるんじゃないのか」
優しい父の言葉に、今すぐすべてを打ち明けてしまいたい衝動が、喉元まで込み上げた。だが同時に、あの「知られてはいけない」という警告じみた直感が、その言葉を喉元で堰き止めた。
「……ごめん。今は、まだ、うまく説明できない」
「そうか」
父は一瞬だけ寂しそうな顔をしたが、それ以上は追及しなかった。代わりに、俺の頭を大きな手でくしゃりと撫でる。
「話したくなったら、いつでも言えばいい。父さんも母さんも、逃げやしないさ」
その温かさに、視界が滲みそうになった。
「……ありがとう」
小さく零した言葉に、父は静かに笑い、部屋を出て行った。
しばらくして、母が夕食の載った盆を運んできた。温かいスープの匂いに、思いのほか空腹だったことに気づく。
「少しでも食べられそう?」
「うん、大丈夫」
体を起こし、匙を手に取る。スープを一口含むと、じんわりとした温かさが体中に染み渡っていくようだった。
「……あんたが小さい頃からね」
不意に、母がぽつりと言った。
「時々、すごく大人びた目をすることがあったんだよ。まだ言葉もろくに話せない頃なのに、何かをじっと見つめて、考え込んでるみたいな顔をしてね。今日みたいに倒れたのは初めてだけど、あんたが何か、人には見えないものを感じ取ってるんじゃないかって、ずっと思ってたんだ」
母の言葉に、心臓が跳ねた。
「母さん……」
「無理に聞き出そうとは思わないよ。ただね、クロ。あんたがどんな力を持っていても、どんな秘密を抱えていても、あたしらの子供だってことに変わりはないんだから。それだけは、忘れないでおくれ」
穏やかな声だった。だが、その言葉には、母なりの深い覚悟が滲んでいるように感じられた。
「……うん」
それ以上、何も言えなかった。ただ、盆の上のスープを、ゆっくりと飲み干した。
食事を終え、母が盆を片付けて部屋を出て行った後、俺はしばらく天井を見つめていた。
優しい両親。気の置けない友人。何一つ欠けたところのない、穏やかな暮らし。
それなのに――今日見たあの光景が、いつかこの当たり前の日々を、跡形もなく奪い去っていくかもしれない。そう思うと、得体の知れない恐怖が、じわりと足元から這い上がってきた。
窓の外では、隣家の明かりがぽつりぽつりと灯り始めていた。夕餉の支度をする煙が、いくつもの煙突から立ち昇っている。何の変哲もない、平凡な村の夕暮れ。だが、その平凡さこそが、今はどうしようもなく愛おしく、そして脆く思えてならなかった。
もしも本当に、あの光景がこの世界の行き着く先だとしたら――この温かい灯りも、この穏やかな煙も、いつか跡形もなく消えてしまうということだ。
そんなことは、絶対に許せない。
夜。家族が寝静まった頃、俺は静かに寝台を抜け出し、窓辺に腰掛けた。
月明かりが、村の家々の屋根を淡く照らしている。何もかもが、いつも通りの静かな夜だった。
だが――俺は知ってしまった。
昼間見たあの光景は、夢でも幻でもない。《11時・未来観測》という、俺の中に眠る力が見せた、この世界の「行き着く先」だ。
いつ来るのかはわからない。あと一年後か、十年後か、それとも――明日かもしれない。
ただひとつだけ、確かなことがある。
――この世界は、滅びる。
崩れる建物、狂った時間、そして瓦礫の中で一人泣いていた、あの白い髪の少女。あの光景を、ただの未来として受け入れることなど、俺にはできそうになかった。
「……止めてやる」
口の中だけで、そう呟いた。
自分でもわからない。なぜあの少女のことが、これほどまでに頭から離れないのか。なぜ、あの光景を見過ごせないと、こんなにも強く思うのか。
あの子は今、この空のどこかで生きているのだろうか。それとも、まだ生まれてすらいないのか。
答えの出ない問いを、夜空に浮かべてみる。けれど、理由なんてどうでもよかった。
俺には、時間そのものを操る力がある。十二の刻。まだその半分も使いこなせていない、未完成な力だ。それでも――この力があれば、きっと何かが変えられる。そう信じるしかなかった。
窓の外、遠くの空を見上げる。今はまだ、罅の入っていない、当たり前の夜空がそこにあった。
「絶対に、あんな未来にはさせない」
低く、けれどはっきりとした声で、そう口にする。震える拳を、強く握りしめながら。
呟いた後、俺はふと、自分の手のひらに視線を落とした。
試しに、指先に意識を集中させる。触れてもいない空間に、薄い霜が広がっていく。氷の魔法――村の皆に愛され、誰に見せても笑って喜ばれる、優しい力。
けれど、もうひとつの力は、こんなにも危うく、こんなにも重い。
同じ自分の中にあるというのに、これほど扱いが違うふたつの力があることが、どうにも不思議で、そして少しだけ悲しかった。
いつか、この時間の力のことも、誰かに笑って話せる日が来るのだろうか。
そんな他愛のない願いを抱きながら、俺は窓を閉め、静かに寝台へと戻った。
翌朝、目覚めたときには、頭の痛みも、体の重だるさも、随分と和らいでいた。いつも通り朝食をとり、いつも通り畑仕事を手伝い、いつも通りトマスと他愛のない話をする。傍から見れば、何も変わらない、いつもの一日だった。
けれど、俺の中では、確かに何かが変わってしまっていた。
穏やかな日常の裏側に、途方もない終わりが待ち構えている。そのことを知ってしまった今、もう二度と、何も知らなかった頃の自分には戻れない。
畑仕事の手を止め、ふと空を見上げる。
頭上には、まだ雲ひとつない青空が、どこまでも広がっていた。
ここまで読んでくださりありがとうございます!
面白かったら ↓の☆☆☆☆☆ をポチッと評価&ブクマしていただけると、とても励みになります(^^)
☆⬇️⬇️⬇️⬇️⬇️☆




