第74話 お客様。当店の看板は、おかわり自由でございますの
世界を抱えながら料理をするのは、思っていたより厄介でしたわ。
右腕でほどけた粒を抱えたまま、ゼフィロス様が舌打ちなさいます。
「エリアナ。……こんなものを抱えたまま、いつまで待たせる気だ」
「あら。せいぜい半日ですわ」
「半日!」
「大丈夫。腕が痺れましたら仰ってくださいまし。私が代わりに持ちますから」
「……お前は鍋を振っているだろうが」
「ええ。ですから、頑張ってくださいまし」
厨房が動き出しました。
ハンスさんが竈を六つ並べ、火を入れます。
ミラベル様が生地を伸ばし、ヴィクトリア様が野菜を洗い、セリーナさんが皿を数えます。
ラグエルは盆を三枚重ねて構えました。この方は、盆を持つと途端に姿勢がよくなりますのね。千年の癖ですわ。
ジュリアン様は私の隣で味見をなさっております。壊れた舌の物差しですわ。
「……薄い」
「では、塩をひとつまみ」
「……まだ、薄い」
「まあ。ずいぶん厳しいこと」
この方が「泥ではない」と言ってくださる限り、そのお料理は本物ですのよ。
主は、作業台の向こうで椅子に座っておられました。厨房の主が、ご自分の厨房でお客様の席についていらっしゃいます。
それがどれほど落ち着かないものか、私にはよく分かりますわ。私も、自分の厨房で座らされたら、三分と保ちませんもの。
「……手伝おうか」
「いけませんわ」
「なぜだ」
「お客様ですもの」
その方は居心地悪そうに指を組み替えられました。
「一皿目、参りますわよ」
一皿目は、パンでございました。ミラベル様が焼いた、少し焦げたパン。
「焦げている」
「ええ。うちの看板ですの」
主は、一口。それから、黙って二口目を召し上がりました。
二皿目は、ハンスさんの煮込み。四十年ぶんの手つきで、火を入れすぎております。
三皿目は、ヴィクトリア様が切った野菜の和え物。大きさがまるで揃っておりません。洗い場の子は、包丁がお下手ですのね。
四皿目は、ラグエルが運ぶ途中で少しこぼしました。皿の縁に汁の跡が残っております。
「……こぼれている」
「あら。お気になさって?」
「……いや」
主は、その跡ごと召し上がりました。
◇
最後の一皿は、私が焼きました。なんの変哲もない、プレーンオムレツですわ。
卵と、バターと、庭のハーブ。王国の使者たちを追い返した夜、陛下にお出ししたのと同じもの。あのときの私には黄金の木ベラがございましたけれど、今日は鉄のフライパン一本ですの。
三十七分は、かかりませんでした。
六分で焼けましたわ。
「どうぞ。……私の、大好きな味ですわ」
主は、フォークを取りました。その手つきを見て、私は少しだけ驚きましたわ。
この方は、フォークの持ち方をご存じありませんでした。ずっと作る側でいらしたのですもの。誰かが盛り付けた皿を、道具で口へ運んだことがないのですわ。
「そこは、こう持ちますの」
「……こうか」
「ええ。上手ですわ」
私は生まれて初めて、世界を作った方に食事の作法を教えました。
一口。
その方はしばらく動かれませんでした。やがて器用でも上品でもない手つきで、残りを全部召し上がりました。
最後に皿を持ち上げて、縁を舐められました。厨房が静かにどよめきました。
「……お行儀が悪くってよ、お客様」
「……すまない」
「いいえ。おーっほっほっほ! 最高の褒め言葉ですわ」
その方は空になった皿を置き、ずいぶん長いこと、それを見つめておられました。
「……足りない」
「ええ」
「まだ、足りない」
「当然ですわ。うちの看板は、おかわり自由でございますもの」
「一つ、お願いがございますの」
私は両手を膝に揃えました。
「私たちの世界を、卓に戻していただきたいのですわ。……口ではなく」
主は、答えられませんでした。
「あなたが召し上がりたいのなら、私、止められませんわ。……ですけれど、召し上がってしまったら、それきりですのよ。二口目はございませんの」
私は空になった皿を指しました。
「今日、お出しした五皿。どれも下手でしたわね。焦げて、こぼれて、揃っていなくて。……ですから、また明日も食べたくなりますわ」
私は頭を下げました。
「私どもを、卓に置いたままにしてくださいまし。……そうすれば、私どもは何度でもお作りいたしますの」
長い沈黙のあと、主は立ち上がられました。
「……取り引きだと言ったな」
「ええ」
「では、こちらの条件も言おう」
その方は傷だらけの手を差し出されました。
「私は、あの皿に二度と手を入れない。下味も、盛り付けも」
「ありがとうございます」
「その代わり、こちらへ来なさい。……ときどきでいい」
私は思わず顔を上げました。
「食べに、ではない。……作りに来なさい」
私はその手を両手で握りました。火傷の跡の重なった、私と同じ形の手ですわ。
「喜んで。……ただし、うちの厨房は騒がしゅうございますわよ。よろしくて?」
「……構わない」
「では、決まりですわね」
私は、扇を広げました。
「おーっほっほっほ! 商談成立ですわ。……セリーナさん、お客様に六皿目をお持ちして」
六皿目は、ジュリアン様が運びました。私が命じたのではございません。この方が、勝手に盆を取ったのですわ。
ラグエルが呆れた顔で場所を譲りました。天界の給仕長から盆を奪う元・王太子。まったく、ひどい厨房ですこと。
「……零すなよ」
「零したら、そのまま出す」
「まあ。うちの流儀を、よくご存じで」
男は、慣れない手つきで皿を置きました。少し零しました。
主は、その跡も残さず召し上がりましたわ。
厨房の壁の向こうで、ほどけていた粒が形を取り戻していきます。港が。牧舎が。葡萄畑が。
陛下の右腕から、一つずつ、丁寧に返されていきます。主はその様子を、六皿目を食べながら眺めておられました。
「……惜しくはないのか」
「何がですの」
「君は、この皿の上で一生を終える。……私の手を借りれば、もっと完璧な世界にしてやれる」
私は、七皿目の支度をしながら答えました。
「あら。完璧な世界に、料理人は要りませんでしょう」
その方は、しばらく黙っておられました。
「……なるほど。それは困る」
「ええ。困りますわね。私、失業してしまいますもの」
主が、初めて声を出して笑われました。厨房じゅうが、その音に振り向きました。ハンスさんが玉杓子を落としました。
何千年ぶんの静けさが、その一度の笑い声で割れましたわ。
最後までお読みくださって、ありがとうございます。
最終決戦をフルコースにしてしまいました。焦げたパンから始めて、こぼした汁までそのままお出しする。この作品の勝ち方は、これしかないと思っておりましたの。
第15話のプレーンオムレツを、ここでもう一度焼かせました。木ベラを失った朝は三十七分、今日は六分ですわ。
次回、第二部の最終話。白を出る間際に、あの方へ伺ったことが一つございますの。




