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私の料理を泥と捨てた王国、飢え死に寸前で戻れと言われても遅いです ~帝国の料理番になった私は、冷徹な皇帝陛下に胃袋を掴めと命じられました~  作者: 花菱 結愛
第5章:起源・新世界編

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第73話 その右手で、わたくしを抱いてくださいまし

 問題は、二杯目を注いだあとに起きました。


「戻せませんのね」


 私が申し上げると、主は椀を置いて頷かれました。


「途中でやめたからだ。……ばらしかけの粒は、まだ何者でもない。放っておけば、そのまま消える」

「元へ戻すには」

「一度、誰かが抱えていなければならない。……粒を粒のまま、形になるまで」


 その方は、ご自分の手を見つめられました。


「私がやると、また下味がつく。手が覚えているからね。……君たちの世界は、二度と『不完全』に戻れない」



 厨房が、静まり返りました。


 壁の向こうでは、ほどけかけた大陸が宙に浮いております。港も、牧舎も、葡萄畑も、そこに住んでいた人たちも。

 まだ消えてはおりません。けれど、形にも戻っておりません。


「……エリアナ」


 背後で、低い声がいたしました。振り向くまでもございませんわ。この方が何を言おうとしているのか、私はもう分かっておりましたもの。


「私がやる」

「陛下」

「無を抱えられる手は、この世に一本しかない」


 ゼフィロス様は、右腕を持ち上げられました。


 半日、四万人ぶんの朝ごはんを通し続けた腕です。もう限界を超えております。肩から先が、輪郭を失いかけておりました。


「これを全部開けば、粒を抱えていられる。……粒はまだ何者でもない。無を抱えるのは、無の仕事だ」

「そのあとは」

「……知らん」


 嘘ですわ。この方は嘘が下手ですのよ。



「陛下。私、料理人ですの」


 私は、まっすぐに申し上げました。


「材料の目利きは得意ですわ。……あなた、そのまま開いたら、腕ごと持っていかれますわね」

「構わん」

「構いますわ」

「エリアナ。……この十年、私はこの腕を憎み続けた。使い道が一つでもあるなら、安いものだ」


 私は、深く息を吸いました。この方はいつもそうですわ。ご自分の値打ちを、いつも最後に数えるの。


「……よろしいですわ。開けてくださいまし」

「エリアナ?」

「ただし、条件が二つございますの」


 私は、鉄のフライパンを床へ置きました。

 両手を空けました。


「一つ。抱えるのは、あなた一人ではございませんわ。私も抱えます」



「馬鹿を言うな。触れれば消えると――」


「二つ目」


 私は、その言葉を遮りました。


「その右手で、わたくしを抱いてくださいまし」


 厨房の音が、消えました。セリーナさんが息を呑む音だけが、やけに大きく聞こえます。


「……何を、言っている」

「聞こえましたでしょう」

「無理だ! お前が消える! この十年、何のために私が――」

「陛下」


 私は、一歩前へ出ました。


「あなたのその腕、今、何が通っておりますの」



 陛下が、動きを止められました。


「半日ですわ。四万人ぶんの朝ごはんが、そこを通り続けましたのよ」


 私は、黒い腕を指しました。もう、真っ黒ではございません。

 よく見れば、その闇の底に、細かい光の粒が沈んでおります。焦げたパンの茶。粥の白。煮汁の飴色。


「無というのは、何も無いという意味ですわね。……ですけれど、そこ、もう何も無くございませんわ」


 私は、両手を差し出しました。


「あなたの右手は、十年ぶりに、空ではございませんの」



 ゼフィロス様は、長いこと動かれませんでした。やがて、震える右腕を、ゆっくりと持ち上げられました。私は目を閉じませんでした。閉じては失礼ですもの。

 この方が十年かけて上げられなかった手ですわ。ちゃんと見ておかなくては。指先が、私の頬に触れました。


 厨房の誰も、動きませんでした。


 ハンスさんが火の前で固まっております。ミラベル様が生地から手を離しました。ラグエルが盆を取り落としました。

 セリーナさんは、両手で口を押さえて立ち尽くしております。この方たちは、みんな知っておりますもの。

 氷の皇帝が、十年間ただの一度も右手で人に触れなかったことを。



 ……あたたかい。それが、最初に思ったことでしたわ。痛くございません。焼けもいたしません。ただ、少しだけ湿った、大きな手のひらの熱がございます。

 あのパン屋のご主人の生地と、同じ熱ですわ。


「……エリアナ」

「はい」

「……消えて、いない」

「ええ。消えておりませんわ」


 その手が、震えました。震えて、それから私の頬を包み込みました。


「十年、待たせましたのよ」

「……ああ」

「まあ。ずいぶんあっさりしたお返事ですこと」

「……言葉が、出ない」


 私は、その手に自分の手を重ねました。


「陛下。あの夜食の晩に、申し上げましたでしょう」


 私は笑いました。今日いちばん、格好悪い笑い方で。


「世に『火が通らぬ食材』はあっても、『いつまでも硬い食材』はございませんの。……時をかけ、手をかければ、いつか柔らかくほぐれますのよ」



 ゼフィロス様は、右腕で私を抱き寄せられました。十年ぶんの力でしたわ。骨が軋みました。

 私は、その肩に額をつけて、ほんの少しだけ泣きました。ほんの少しだけですわよ。あとで否定いたしますから。


「……行くぞ、エリアナ」

「ええ」

「二人で抱える」

「ええ、陛下」


 私たちは、壁の向こうへ手を伸ばしました。ほどけかけた世界が、二人の腕の中へ流れ込んでまいります。重うございました。

 途方もなく重うございましたわ。


 港が。牧舎が。葡萄畑が。四万人の朝ごはんが。生まれたばかりの弟に重湯を作った娘が。名も知らぬ隣の当直のために豆を煮た水兵が。

 全部、この腕の中にございます。私は歯を食いしばりました。膝が笑います。それでも、離しませんわ。


「陛下。……こんなに重いものを、あなた一人で抱えるおつもりでしたの」

「……ああ」

「馬鹿ですわね」

「知っている」

「二度と、一人で抱えようとなさらないで」


 右腕が、私を抱く力を強めました。


「……善処する」

「善処ではいけませんわ。約束なさって」

「……わかった」



 抱えているあいだ、私はずっと数えておりました。粒の一つ一つに、覚えがございますのよ。

 これは東区のパン屋の窯。これは南の宿場の土間。これは北の砦の炊事場。

 私が二十日前に書状を出した先が、ぜんぶこの腕の中を通っていきます。誰も、自分が今どこにいるのか知りません。

 知らないまま、明日の朝もまた鍋を振るのでしょう。……ええ。それでよろしいのですわ。

 守るというのは、たぶんそういうことですもの。


 腕の中で、粒が少しずつ落ち着いてまいります。

 形を思い出しかけている。私たちが抱えているあいだだけ、この世界は「まだ何者でもない」ままでいられますのよ。

今回もお付き合いいただき、ありがとうございます。

第55話の番外編で「いつか」とだけ言って、その先を言わせずに終えた場面。あれから十八話かけて、ようやくここまで来られましたわ。

右手が触れられるようになった理屈は、四万人の朝ごはんが半日そこを通ったから。愛で解決させたくなかったので、こうしましたの。

次回、お客様に、ちゃんとしたフルコースをお出しいたします。

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