第73話 その右手で、わたくしを抱いてくださいまし
問題は、二杯目を注いだあとに起きました。
「戻せませんのね」
私が申し上げると、主は椀を置いて頷かれました。
「途中でやめたからだ。……ばらしかけの粒は、まだ何者でもない。放っておけば、そのまま消える」
「元へ戻すには」
「一度、誰かが抱えていなければならない。……粒を粒のまま、形になるまで」
その方は、ご自分の手を見つめられました。
「私がやると、また下味がつく。手が覚えているからね。……君たちの世界は、二度と『不完全』に戻れない」
厨房が、静まり返りました。
壁の向こうでは、ほどけかけた大陸が宙に浮いております。港も、牧舎も、葡萄畑も、そこに住んでいた人たちも。
まだ消えてはおりません。けれど、形にも戻っておりません。
「……エリアナ」
背後で、低い声がいたしました。振り向くまでもございませんわ。この方が何を言おうとしているのか、私はもう分かっておりましたもの。
「私がやる」
「陛下」
「無を抱えられる手は、この世に一本しかない」
ゼフィロス様は、右腕を持ち上げられました。
半日、四万人ぶんの朝ごはんを通し続けた腕です。もう限界を超えております。肩から先が、輪郭を失いかけておりました。
「これを全部開けば、粒を抱えていられる。……粒はまだ何者でもない。無を抱えるのは、無の仕事だ」
「そのあとは」
「……知らん」
嘘ですわ。この方は嘘が下手ですのよ。
「陛下。私、料理人ですの」
私は、まっすぐに申し上げました。
「材料の目利きは得意ですわ。……あなた、そのまま開いたら、腕ごと持っていかれますわね」
「構わん」
「構いますわ」
「エリアナ。……この十年、私はこの腕を憎み続けた。使い道が一つでもあるなら、安いものだ」
私は、深く息を吸いました。この方はいつもそうですわ。ご自分の値打ちを、いつも最後に数えるの。
「……よろしいですわ。開けてくださいまし」
「エリアナ?」
「ただし、条件が二つございますの」
私は、鉄のフライパンを床へ置きました。
両手を空けました。
「一つ。抱えるのは、あなた一人ではございませんわ。私も抱えます」
「馬鹿を言うな。触れれば消えると――」
「二つ目」
私は、その言葉を遮りました。
「その右手で、わたくしを抱いてくださいまし」
厨房の音が、消えました。セリーナさんが息を呑む音だけが、やけに大きく聞こえます。
「……何を、言っている」
「聞こえましたでしょう」
「無理だ! お前が消える! この十年、何のために私が――」
「陛下」
私は、一歩前へ出ました。
「あなたのその腕、今、何が通っておりますの」
陛下が、動きを止められました。
「半日ですわ。四万人ぶんの朝ごはんが、そこを通り続けましたのよ」
私は、黒い腕を指しました。もう、真っ黒ではございません。
よく見れば、その闇の底に、細かい光の粒が沈んでおります。焦げたパンの茶。粥の白。煮汁の飴色。
「無というのは、何も無いという意味ですわね。……ですけれど、そこ、もう何も無くございませんわ」
私は、両手を差し出しました。
「あなたの右手は、十年ぶりに、空ではございませんの」
ゼフィロス様は、長いこと動かれませんでした。やがて、震える右腕を、ゆっくりと持ち上げられました。私は目を閉じませんでした。閉じては失礼ですもの。
この方が十年かけて上げられなかった手ですわ。ちゃんと見ておかなくては。指先が、私の頬に触れました。
厨房の誰も、動きませんでした。
ハンスさんが火の前で固まっております。ミラベル様が生地から手を離しました。ラグエルが盆を取り落としました。
セリーナさんは、両手で口を押さえて立ち尽くしております。この方たちは、みんな知っておりますもの。
氷の皇帝が、十年間ただの一度も右手で人に触れなかったことを。
……あたたかい。それが、最初に思ったことでしたわ。痛くございません。焼けもいたしません。ただ、少しだけ湿った、大きな手のひらの熱がございます。
あのパン屋のご主人の生地と、同じ熱ですわ。
「……エリアナ」
「はい」
「……消えて、いない」
「ええ。消えておりませんわ」
その手が、震えました。震えて、それから私の頬を包み込みました。
「十年、待たせましたのよ」
「……ああ」
「まあ。ずいぶんあっさりしたお返事ですこと」
「……言葉が、出ない」
私は、その手に自分の手を重ねました。
「陛下。あの夜食の晩に、申し上げましたでしょう」
私は笑いました。今日いちばん、格好悪い笑い方で。
「世に『火が通らぬ食材』はあっても、『いつまでも硬い食材』はございませんの。……時をかけ、手をかければ、いつか柔らかくほぐれますのよ」
ゼフィロス様は、右腕で私を抱き寄せられました。十年ぶんの力でしたわ。骨が軋みました。
私は、その肩に額をつけて、ほんの少しだけ泣きました。ほんの少しだけですわよ。あとで否定いたしますから。
「……行くぞ、エリアナ」
「ええ」
「二人で抱える」
「ええ、陛下」
私たちは、壁の向こうへ手を伸ばしました。ほどけかけた世界が、二人の腕の中へ流れ込んでまいります。重うございました。
途方もなく重うございましたわ。
港が。牧舎が。葡萄畑が。四万人の朝ごはんが。生まれたばかりの弟に重湯を作った娘が。名も知らぬ隣の当直のために豆を煮た水兵が。
全部、この腕の中にございます。私は歯を食いしばりました。膝が笑います。それでも、離しませんわ。
「陛下。……こんなに重いものを、あなた一人で抱えるおつもりでしたの」
「……ああ」
「馬鹿ですわね」
「知っている」
「二度と、一人で抱えようとなさらないで」
右腕が、私を抱く力を強めました。
「……善処する」
「善処ではいけませんわ。約束なさって」
「……わかった」
抱えているあいだ、私はずっと数えておりました。粒の一つ一つに、覚えがございますのよ。
これは東区のパン屋の窯。これは南の宿場の土間。これは北の砦の炊事場。
私が二十日前に書状を出した先が、ぜんぶこの腕の中を通っていきます。誰も、自分が今どこにいるのか知りません。
知らないまま、明日の朝もまた鍋を振るのでしょう。……ええ。それでよろしいのですわ。
守るというのは、たぶんそういうことですもの。
腕の中で、粒が少しずつ落ち着いてまいります。
形を思い出しかけている。私たちが抱えているあいだだけ、この世界は「まだ何者でもない」ままでいられますのよ。
今回もお付き合いいただき、ありがとうございます。
第55話の番外編で「いつか」とだけ言って、その先を言わせずに終えた場面。あれから十八話かけて、ようやくここまで来られましたわ。
右手が触れられるようになった理屈は、四万人の朝ごはんが半日そこを通ったから。愛で解決させたくなかったので、こうしましたの。
次回、お客様に、ちゃんとしたフルコースをお出しいたします。




