第72話 ひっくり返すというのは、お返しするという意味でしたのね
主が、四口目を飲まれませんでした。椀を作業台に置き、両手をその縁に添えたまま、長いこと動かずにおられます。
傷だらけの、働いてきた手。
「……君の勝ちだと言うつもりはない」
「まあ。もちろんですわ」
私は首を振りました。
「腕前でしたら、あなたのほうが上ですもの。私、それは認めますわ。悔しいですけれど」
「では、何だ」
「勝ち負けの話をしに来たのではございませんの。……取り引きに参りましたのよ」
私は懐から、一枚の紙を取り出しました。勝手口の下から掘り出した、いちばん下の一枚。掠れた古い綴りの、リヴィアの走り書き。
「これ、あなたの厨房から出たものですわね」
「……見せてくれ」
主は紙を受け取り、目を落とされました。その瞬間、この方の輪郭が、はっきりと固まりました。
初めて、人の形になりました。
「……この字は」
「初代美食聖女リヴィアですわ。あなたの厨房から匙を一本盗んで逃げた娘」
「……知っている。……名は、知らなかったが」
主は、紙をそっと台に置かれました。
「洗い場にいた子だ。……いつの間にか、いなくなっていた」
私はその紙を指しました。
「この方はこう書き遺しましたの。『味を作るために盗んだのではない。ひっくり返すために盗んだ』」
「……そうか」
「私、ずっと読み違えておりましたわ」
私は扇を閉じました。
「食卓をひっくり返すのだと思っておりましたの。ちゃぶ台返しですわね。あなたを倒して、この皿を奪い取って、二度と食べられないようにするのだと」
私は作業台の上の椀を見下ろしました。
四万人ぶんの、下手な汁物。三口飲まれて、まだ残っております。
「違いましたのね。……この方が言っていたのは、『お返しする』ということでしたわ」
「……意味が分からない」
主がそう仰いました。分からない、と。この方の口から出た言葉としては、なかなかのものですわ。
「よろしいですか。ひっくり返すというのは、裏返すことですわね。……お皿を裏返しますと、どうなりまして?」
「……何も乗らなくなる」
「いいえ。ひっくり返した皿は、蓋になりますのよ」
私は腰から鉄のフライパンを外しました。
白い光は、もう収まっております。ただの、歪んだ古い鉄。
「そして、もう一つございますわ。……料理を出した側と、出された側が、入れ替わりますの」
私はその鉄を作業台へ置きました。
主の一皿の隣に。
「私、今日ここへ、あなたを倒しに来たのではございませんの。……あなたに、ごはんを出しに来たのですわ」
厨房がしんとしました。寸胴の湯が煮える音だけが、遠くで続いております。
「あなた、いつからお一人ですの」
主は、答えられませんでした。
「布巾の畳み方が、私と同じでしたわ。俎板も、たいそう使い込んでいらっしゃる。……あれは、長いこと一人で立ってきた方の厨房ですわね」
「……客はいる」
「召し上がる方はいらっしゃるのでしょう。ええ。ですけれど、あなたのために鍋を振る方は、いらして?」
その方の手が、椀の縁で震えました。
「あなた、ご自分で作ったものしか召し上がったことがないのではなくて」
答えはございませんでした。私はそれを答えだと受け取りました。
「初代様は、あなたのお料理を食べて逃げたのではございませんわ」
私は静かに続けました。
「あの方は、洗い場からずっとあなたを見ていらしたのですわ。……何千年も、たった一人で完璧なお皿を作り続けて、誰からも何も出してもらえない方を」
主が、顔を上げられました。
「……やめろ」
「匙を一本盗んだのは、あなたを倒すためではございませんの。……いつか誰かが、あなたに一皿返せるようにするためですわ」
私は椀を手に取りました。三口ぶん減った、下手な汁物。
「六代かかりましたわ。……お待たせして、申し訳ございません」
私は初代様の紙をもう一度手に取りました。掠れた古い綴りで、たった四行。この四行を、六代が読み違えたのですわ。
いいえ。読み違えたのではございません。読み違えられるように、わざと短く書いたのでしょう。――手元に置けば居場所が知られる。だから火にくべなさい。
代々の持ち主は、そう解釈して、そう書き継ぎました。恐れながら。逃げながら。
あの方は、それを止めませんでしたわ。いつか、逃げない娘が出るまで待つおつもりだったのですわね。
六代が書き継ぎ、母が焦がして、その次が私。……気の長いご先祖様ですこと。
そして私は、その椀を、この世界を作った方の前へ、両手で置き直しました。
「どうぞ。……おかわりは、いくらでもございますわ」
主は、動きませんでした。やがてその傷だらけの手が、ゆっくりと椀へ伸びました。
指が縁に触れます。震えております。……何千年も動かなかった手が、椀ひとつを前にして。
「……私は」
声が掠れておりました。
「私は、いつから、これを待っていたのだろう」
誰も答えませんでした。答えられる者がおりませんもの。この方の年数を数えられる者は、この厨房に一人もおりません。
やがて、その方は椀を持ち上げ、四口目を飲まれました。
五口目も。六口目も。最後の一滴まで飲み干して、椀の底を見つめて、それからぽつりと仰いました。
「……足りない」
私は微笑みました。
「ええ。そうでしょうとも」
「……もう一杯もらえるか」
「もちろんですわ。おーっほっほっほ! 申し上げましたでしょう。おかわりはいくらでもございますと」
私はセリーナさんへ手を差し出しました。彼女は無言で鍋を運んでまいります。眼鏡が、盛大に曇っておりました。
二杯目を注ぎながら、私は厨房の壁を見ておりました。
ほどけかけていた東の端が、止まっております。粒になって浮いていた港が、ゆっくりと元の形へ戻っていく。
この方が手を止めたからですわ。倒したからではございません。ただ、鍋に気を取られていらっしゃるだけ。
料理人というのは、そういうものですのよ。目の前の一杯より大事な仕事など、厨房にはございませんもの。
「……あなた、お名前は」
「名は、ない」
「まあ。不便でございましょう」
「呼ぶ者がいない」
私は二杯目を差し出しました。
「では、こう呼ばせていただきますわ。……お客様、と」
その方は、一瞬だけ、泣きそうな顔をなさいました。厨房というのは不思議な場所ですわね。
どれほど長く一人で立っていた方でも、二杯目を出されると、こういう顔をなさいますのよ。
ここまでお読みくださって、ありがとうございますわ。
「ひっくり返す」を「お返しする」と読み替えるところが、この部でいちばん長く温めた仕掛けですの。第53話で木ベラが言い残したあの一行を、こう回収したかったのですわ。
洗い場の子が何千年も見ていた、という筋書きは、第64話でヴィクトリア様を洗い場に置いた時点で決まっておりました。
次回、陛下の右手のお話ですわ。……ええ、あの右手ですのよ。




