第71話 完璧なお料理は、二口目がございませんの
「では、並べようか」
主が、そう仰いました。
厨房の中央に、長い作業台が伸びました。私が置いたのではございません。この方が指を動かした、それだけで台が生えたのですわ。
「君の鍋と、私の鍋。……どちらが美味いか、それだけの話だろう」
「あら。ずいぶん素直な決着ですのね」
「厨房での決着は、いつもそれだけだ」
その一言だけは、私も同じ意見でしたわ。
主の一皿が、先に置かれました。白い皿でございます。上に乗っているものを、私はうまく言葉にできません。
形は単純です。色は淡い。香りは、ほとんどいたしません。けれど見た瞬間に分かりました。
これは、完璧ですわ。
「……ハンスさん」
「……へえ」
「震えていらして?」
「四十年、こんなもんは見たことがありません」
周りの者たちも、誰一人として口を開きません。セリーナさんは眼鏡を外して拭き、かけ直して、また外しました。何度も。
ミラベル様は皿から一歩下がりました。千年、神の食卓の番をしていた方が、後ずさりしたのですわ。
ラグエルは目を伏せました。天界の神糧を千年運んできたこの方でさえ、この皿の前では顔を上げられません。
ヴィクトリア様だけが、小さく呟きました。
「……これ、あたしが目指してたやつだ」
私は皿へ手を伸ばし、指の先で少しだけ取って、舌へ乗せました。
……ああ。
私は目を閉じました。美味しゅうございます。
もう、それしか申し上げようがございません。
塩は一粒も多くございません。火は一瞬も長くございません。素材の切り口が舌に当たる角度まで計算されております。
この一皿には、直すところが一つもございませんの。私が十八年やってきたことの、はるか先ですわ。
あの木ベラを握って世界を救っていた頃の私が束になっても、ここには届きません。
「……どうかな」
「完璧ですわ」
私は目を開けて、素直に申し上げました。
「私が今まで口にした、どんなものよりも美味しゅうございます。……お世辞ではございませんの」
主が、微かに笑われました。
「では――」
「ええ。ですけれど」
私は指を舐めて、続けました。
「二口目が、要りませんわね」
厨房が静まりました。
「……何だと」
「二口目が要らないと申し上げましたの」
私は皿を見下ろしました。
「私、今この一口で完全に満たされましたわ。もう何も欲しくございません。……お腹の話ではございませんのよ。心のほうですの」
私は皿から手を離しました。
「明日また食べたいとは、思いませんわ。……不思議でしょう? こんなに美味しいのに」
「……それは、完成しているからだ」
「ええ。完成しておりますわね」
私はその方を見上げました。
「完成した料理には、次がございませんの。……あなたのお皿は、そこで終わっておりますわ」
「終わって何が悪い。完成とは、そういうものだ」
「ええ。お料理としては、そのとおりですわ」
私は台の縁に手を置きました。
「ですけれど、あなたが仕上げようとしていらっしゃるのは、お料理ではございませんの。……人の住んでいる世界ですのよ」
主の輪郭が、また揺らぎました。
「完成した世界には、明日がございませんわ。……誰も何も欲しがらない。誰も誰かのために鍋を振らない。天界がそうなりましたでしょう」
ラグエルがそこで小さく息を呑みました。
この方は、それを見てきたのですもの。喋らなくなった神々を。
私は自分の鍋を台へ載せました。四万人ぶんの湯気で作った、なんの変哲もない汁物ですわ。
具は不揃い。塩は少し強うございます。ハンスさんが火を入れすぎて、鍋肌に焦げが付いております。
見た目は、正直に申し上げて、みっともないほど。
「どうぞ。……お口に合うかは存じませんけれど」
主は、しばらく私の鍋を見下ろしておられました。
それから、椀を取り、一口。
その方の手が、止まりました。輪郭が、大きく揺れます。
「……薄い」
「ええ」
「塩が強い。火が入りすぎている。具の大きさが揃っていない。……これは、下手だ」
「そのとおりですわ」
主は、椀を置きました。
置いて、それからまた、取り上げました。二口目を、飲まれたのです。
「……なぜだ」
その方はご自分の手を見つめておられました。
「なぜ、私はもう一口飲んだ」
「足りないからですわ」
私は扇を広げました。
「私のお料理は、下手ですの。ですから、いつも足りませんわ。……足りないと、人はもう一口欲しくなりますのよ」
「初代様は、あなたの厨房から匙を盗んで逃げましたわね」
私はゆっくりと続けました。
「あの方が持ち出したのは、道具ではございませんの。……『足りないままにしておく』という、それだけの考え方ですわ」
主の手が、椀の縁で止まっております。
「あなたのお皿は完璧ですわ。だから、召し上がった方は満たされて、それきりですの。……ですけれど、私たちの世界は、いつまでも足りませんのよ」
私は皿の山のほうを、白い壁の向こうを指しました。
「だからこの世界は、飢えて、争って、また誰かのために鍋を振りますの。二千年経っても終わりませんわ。……不完全というのは、そういうことですのよ」
主は、三口目を飲まれました。厨房で、いちばん最初に沈黙を破ったのは、ジュリアン様でした。
「……味がする」
男は私の鍋を指しておりました。四か月ぶりに、その目に涙がございました。
「泥ではない。……エリアナ。これは、味がする」
私は頷きました。
「ええ。……壊れた舌にも届きますのよ。下手なお料理は」
主は、椀を持ったまま動かれませんでした。その手を、私はじっと見ておりました。
私の手と、同じ形をした手ですわ。
「……君は、何を望んでいる」
「あら。ようやく聞いてくださいましたのね」
私は、扇を閉じました。
「お聞きしたいのは、こちらのほうですわ。……あなた、これをいつまでお続けになるおつもり?」
「何のことだ」
「作って、盛って、下げて、また作る。……何千年も。お一人で」
その方の手が、椀の縁で止まりました。
「あなたのお皿の山、見てまいりましたわ。……一枚も、洗ってございませんでしたわね」
輪郭が、はっきりと揺らぎました。
「洗う暇がないほど、お作りになっていらっしゃるの。……それは、料理と申しませんのよ。作業ですわ」
本日もお運びくださって、ありがとうございます。
料理対決を書くとき、主人公が「勝つ」のは違うと思っておりました。負けたまま、それでも二口目を飲ませてしまう。そういう決着にしたかったのですわ。
「完璧なお料理は二口目がございません」――この一行を書きたくて、この部を組んだようなものですの。
次回、初代様が本当に言いたかったことを、申し上げます。
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