第70話 私の祝福は、愛された記憶そのものですのよ
白状いたしますわ。あれは、見栄でしたの。
ひと月あまり前、私が黄金の木ベラを大釜へ投げ入れたとき。世界中が見ている前で、私は高らかに宣言いたしました。私の祝福は道具ではない。愛された記憶そのものだと。
格好はつきました。
けれど、証拠は一つもございませんでしたのよ。
三日後の朝、卵が焼けませんでした。三度失敗して、三十七分かかりました。ハンスさんに火を足していただき、セリーナさんに柄を支えていただいて、やっと一皿。
あのとき私は、自分の見栄を心の底から呪いましたわ。
今、掌の中で鉄が灼けております。四万人ぶんの朝ごはんが、陛下の右腕を伝ってこの厨房へ流れ込んでおります。
私はそれを束ねております。
――束ねる。
ええ。木ベラがやっていたのは、これですわ。
「……エリアナ様」
セリーナさんが、私の背後から両手で柄を支えてくださいました。あの朝と同じように。
ハンスさんが火を足します。ミラベル様がパン種を運びます。ラグエルが盆を構え、ヴィクトリア様が水を汲みます。
ジュリアン様だけが、少し離れて立っておられました。
「……あなたも来なさいな」
「……私は、料理ができん」
「存じておりますわ。あなたは味見役ですもの」
私は、鉄のフライパンを両手で高く掲げました。四万本の細い糸が、柄へ集まってまいります。
どれ一つとして同じ色がございません。焦げたパンの茶。粥の白。煮汁の飴色。焼けた脂の金。
この一本一本が、誰かが誰かのために出した熱ですわ。私は、一本ずつ確かめました。
この茶色は、あのパン屋のご主人ですわね。三年前に亡くなった奥様の。
この白は、どこかの賄いの方。粥にしては水が多うございますわ。急いでいらしたのね。
この飴色は、ずいぶんお上手。宿の主人かしら。
この、ほとんど熱の無い一本は――どなたかしら。震えておりますわ。手が震えるほど、大切な誰かのことを考えていらっしゃる。
どれも、私宛てではございません。
誰一人として、皇妃のために鍋を振ってはおりませんの。みんな、自分の隣にいる誰かのために振っております。
その湯気が、たまたま私の手のひらに集まっているだけ。
「……ああ。そうでしたのね」
私は、ようやく分かりました。
私の祝福は、私のものではございませんでした。
王国の厨房で「誰かを温めたい」と祈っていたあの日から、私はずっと、他人のために火を使ってまいりました。木ベラはそれを束ねていただけ。束ねられていたのは、いつも私一人ぶんの祈りでしたわ。
いま、束ねているのは四万人ぶん。
「陛下。……見栄が、本当になりましたわ」
「何の話だ」
「愛された記憶ですのよ。……ここに全部、届いておりますの」
「――待ちなさい」
主が声を荒らげられました。平らだったあの声に、角が立ちましたわ。
「それは君の力ではない。他人のものだ」
「ええ。そのとおりですわ」
「借り物で振るう気か」
「借りてはおりませんの。いただきましたのよ」
私は掲げた腕を下ろさぬまま、その方を見返しました。
「あの方たちは、私に差し上げるために鍋を振ったのではございません。……自分の大切な誰かのために振りましたの。私はその湯気を、横からありがたく頂戴しているだけですわ」
「同じことだ」
「まるで違いますわ」
私は一歩、前へ出ました。
「あなたは世界中から満足を集めて、鍋へ入れましたわね。ミラベル様に千年やらせて、ヴィクトリア様に調律させて。……あれは、集めたのではございません。取り上げたのですわ」
主の輪郭が、揺れました。
「私のこれは、こぼれた湯気ですの。誰からも取り上げておりません。……ですから、いくらでも湧きますのよ」
鉄のフライパンが、白く光り始めました。黄金ではございません。あの木ベラの、あの誇らしげな黄金の光ではございません。
もっと雑で、もっと不揃いで、もっと温かい、四万色の混ざった白。
「セリーナさん、しっかり支えて! ハンスさん、火はまだ足りませんわ! ミラベル様、生地を全部よこしなさい! ラグエルさん、盆はまだ抱えていられまして?」
「……できる!」
「けっこう! ヴィクトリア様、洗い場の子の腕の見せどころですわよ!」
厨房が、騒がしくなりました。
怒鳴り声。金物の音。誰かが何かを落とす音。ミラベル様の悲鳴とハンスさんの叱責。
世界の外側で、私たちはただの厨房になりました。
主は、しばらくその騒ぎを見ておられました。それから、ぽつりと仰いました。
「……賑やかだな」
「ええ。厨房ですもの」
「私の厨房は、静かだ」
「存じておりますわ。……お一人ですものね」
その方は、答えませんでした。
私は、白く灼けた鉄を握り直しました。掌の皮が焼けております。痛いですわ。
構いません。この痛みは、四万人ぶんの熱ですもの。安いものですわ。
ふと、木ベラのことを思い出しました。
あの一本は、いつも私に優しゅうございました。握れば温かく、振れば応え、危ないときには熱で報せてくれましたもの。十八年、私はあれに守られてまいりました。
いま握っているこの鉄は、優しくございません。熱いだけ。重いだけ。掌を焼くばかりで、こちらを気遣う素振りもございませんの。
ええ。それでよろしいのですわ。守られるための道具と、働くための道具は、違いますもの。
お母様。あなたが手放せなかったのは、たぶん前者でしたのね。
ジュリアン様が、そばへ寄ってこられました。
二歩は近づくな、と陛下が仰った距離のちょうど境目で立ち止まって、この方はぼそりと言いました。
「……匂いがする」
「まあ」
「泥ではない。……何の匂いかは、わからん。だが、泥ではない」
私は、その顔を見上げました。
四か月間、この方の舌には何ひとつ届きませんでした。世界中の下ごしらえも、私の断罪も。
その舌が、四万人ぶんの朝ごはんの匂いだけは拾ったのですわ。
「ジュリアン様。……それが答えですわよ」
「答え?」
「上から整えた味は、あなたに届きません。……ですけれど、誰かが誰かのために作ったものは届きますの。壊れた舌にすら」
男は、しばらく黙っておりました。
「……私は、それを泥だと言って捨てたのだな」
「ええ。捨てましたわね」
私は、それ以上何も申し上げませんでした。
許してもおりませんし、慰めるつもりもございません。ただ、この方が今そこに立って匂いを嗅いでいることだけが、事実ですわ。
「さあ、参りますわよ。おーっほっほっほ! 久しぶりに、大きな鍋を振らせていただきますわ!」
お読みくださり、ありがとうございます。
第54話の宣言は、実のところ主人公の見栄でした。見栄を先に言わせておいて、十六話かけて本当にしてしまうのが、この部でやりたかったことですの。
「取り上げた」と「こぼれた湯気をいただいた」の違い。ここだけは、はっきり書いておきたかったのですわ。
次回、あちらの一皿とこちらの一皿を並べます。




