第69話 二十日後の朝でございます。四万人ぶんの、朝ごはん
ゼフィロス様が、包帯を完全に解かれました。肘から先が、そのまま夜になりました。
形はございません。渦とも呼べません。ただ、そこに何も無いという事実が腕の形をしている。触れれば消える。見つめれば吸い込まれる。十年のあいだ帝国の民が怪物と呼んだものが、いま何の覆いもなく晒されております。
厨房の空気が、その一点へ向かって流れ始めました。
「陛下。……痛みは」
「無い。……ここでは、この腕のほうが自然だ」
「まあ。里帰りですのね」
「ふん。……歓迎されている気はせんがな」
私は陛下の左隣に立ち、東を向きました。
白しかございません。方角など、本当は無いのでしょう。それでも私たちは東を向きました。向くことが大事ですのよ。
「陛下。伸ばしてくださいまし」
「どこまで」
「私たちの世界の、いちばん端まで」
黒が、走りました。
厨房の床を這い、白の外へ抜け、割れた皿の山を越えて、私たちが歩いてきた道を逆にたどっていきます。
それは奪う力でございました。触れたものを空にする力。
けれど今、その黒は何ひとつ空にしませんでした。ただ、細く長く、道になっていきます。
「……エリアナ」
「はい」
「見えるか」
「いいえ。私には何も」
「私には見える。……お前の帝国だ」
陛下の声が、震えておりました。
「大陸の東の端に、火が点いている。……一つ。二つ。……いや」
二十日後の、朝でございました。
帝都の東区のパン屋で、五十がらみの無口な男が窯に火を入れました。三年前に亡くなった奥様のことを思い浮かべながら。
南の宿場では、賄いの女が七人ぶんの粥を炊きました。今朝も遅刻してくる駅馬の御者を思い浮かべながら。
北の砦では、炊事番の若い兵が、故郷の妹の顔を思い浮かべて塩を振りました。
港の煮売りが。山あいの村の母親が。行商の途中の男が路傍で。
東の街道の茶屋では、婆さまが芋を茹でました。四十年前に死んだ亭主を思い浮かべながら。
西の漁村では、まだ十かそこらの娘が、生まれたばかりの弟のために重湯を作りました。
軍港の甲板では、当直明けの水兵が四人ぶんの豆を煮ました。名前も知らない、隣の当直の連中のために。
牢の炊事場でさえ、囚人が囚人のために麦を炊きました。
四万人が、いっせいに鍋を振りました。
ばらされかけた世界の上で。ほどけていく道の傍らで。
誰も、何が起きているのか知りません。皇妃が世界の外側にいることも、皿が持ち上げられていることも、何ひとつ。
ただ、二十日前に受け取った三行の書状を覚えていただけ。
――献立は問いません。腕前も問いません。
――どうか、誰か一人の顔を思い浮かべながら作ってくださいませ。
誰も、この朝が世界の終わりだとは知りませんでした。
知っていたら、きっともっと立派なものを作ったでしょう。
……ですから、これでよろしいのですわ。いつもどおりの、粗末な朝ごはんで。
「……ああ」
ゼフィロス様が、膝をつかれました。
「陛下!」
「来る。……エリアナ、来るぞ」
黒い道の奥から、何かが上がってまいりました。最初は、匂いでした。
パンの焦げる匂い。粥の湯気。焼けた脂。刻んだ香草。煮立った湯。
どれも粗末で、どれも当たり前で、どれも似ておりません。それが、次から次へと、この世界の外側の厨房へ流れ込んでまいりました。
「……なんだ、これは」
主が椅子から立ち上がられました。何千年、あの椅子に貼りついていた方が。
「……揃っていない。まるで揃っていない。塩加減も火加減も、何もかもばらばらだ」
「ええ。四万人おりますもの」
「なぜ、こんなものが道を通る」
私は、両手でフライパンを構えました。柄の焦げ跡に、掌が沈みます。
じん、と熱が返ってまいりました。
一人ぶんは、細うございます。
あのパン屋のご主人の祈りは、私の五分の一のさらに百分の一。数えるのも馬鹿らしいほどの量ですわ。
賄いの女も、炊事番の兵も、みんな同じ。誰一人として、世界を救える量など持ってはおりません。
けれど、四万人が同時に振りますと。私の掌の中で、鉄が鳴りました。
歪んだ縁が、錆の浮いた底が、下働きが二十年使い潰した一本が、いま、赤く灼けております。
「……あら」
私は、思わず声を上げました。
熱いのですわ。持っていられないほど。
こんなに熱いものを、私は握ったことがございません。あの黄金の木ベラでさえ、こんな熱は返してくれませんでしたもの。
「エリアナ、離せ! 焼ける!」
「離しませんわ」
「手が!」
「陛下。……料理人が、熱いくらいで鍋を離すとお思いになって?」
私は、その熱を持ったまま、主のほうへ向き直りました。厨房じゅうの湯気が、私の鉄のフライパンへ向かって渦を巻いております。
棚の皿が鳴っております。寸胴が波打っております。
「おーっほっほっほ! お待たせいたしました」
私は、笑いました。
掌が焼けようが、腕が震えようが、笑うのは私の仕事ですもの。
「これが、私の帝国の朝ごはんですわ。……お口に合うかは存じませんけれど」
主は、動きませんでした。
私の掌の中の鉄を、ただじっと見つめておられます。輪郭がまた揺れ始めました。今度は面白がっているのではございません。
「……理解できないな」
「あら。どこが」
「量が合わない」
その方は、寸胴の縁に片手をつかれました。
「四万人ぶんの祈りなど、私が一日に扱う量の何億分の一だ。世界の下味をひと撫でするにも足りない。……なのに、なぜ君の鍋がそれほど灼ける」
私は、笑いました。
「掛け合わせておりますからよ」
「掛ける?」
「ええ。四万人が四万とおりの顔を思い浮かべておりますの。……揃っていないものを混ぜると、味は足し算にならないのですわ」
私は熱で震える柄を、両手で握り直しました。
「揃ったものは、いくら集めても同じ味ですわ。……あなたのお料理が、まさにそれですのよ」
主が、静かに息を吐かれました。
「……ならば、増やせばいい。私は下味を強める」
「どうぞ」
「世界は、あと半日で全部ほどける」
「ええ。ですから、半日で済ませますわ」
私は、フライパンの縁に指を滑らせました。焼けた皮がめくれます。構いませんわ。
「陛下。腕は、まだ保ちまして?」
「……あと半日か。ちょうどいい」
「あら。無理はなさらないで」
「無理などしていない。……十年ぶんの残業だ。今更どうということもない」
私は思わず笑ってしまいました。
こんなときに軽口を叩ける方と一緒にいられて、私は本当に果報者ですわ。
今日もお付き合いくださって、ありがとうございますわ。
四万人が同時に鍋を振る場面を、いつか書きたいと思っておりました。誰も何が起きているか知らないまま、いつもどおりの朝ごはんを作っているだけ、というのが肝ですの。
陛下の右腕が、奪う力ではなく道になる。ここも書きたかった一つですわ。
次回、その熱が何なのかを申し上げます。第54話でエリアナ様が言い放った、あの台詞の答え合わせですわよ。
※四万人の朝ごはんに胸が熱くなった方は、ブックマークと評価をお一つずつ。パン屋のご主人の、窯の火の番代にいたしますわ。




