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私の料理を泥と捨てた王国、飢え死に寸前で戻れと言われても遅いです ~帝国の料理番になった私は、冷徹な皇帝陛下に胃袋を掴めと命じられました~  作者: 花菱 結愛
第5章:起源・新世界編

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第68話 わたくしの帝国を、盛り付け直さないでくださる

 最初に消えたのは、南の港でした。


 厨房の壁に、私たちの世界が映っております。皿を持ち上げたときに、そういう仕掛けになったようですわ。

 私はそれを、指の先が白くなるほど拳を握って見ておりました。南の港。塩の産地。私がいちばん最初に木札を置いた場所。


 崩れたのではございません。

 沈んだのでもございません。――ほどけたのですわ。建物が、人が、船が、道が、糸をほどくように輪郭を失って、ばらばらの粒になって、宙に浮かびます。

 悲鳴は聞こえませんでした。声を出す前に、声そのものがほどけましたもの。


「……港が」

「セリーナさん。見なくてよろしいですわ」

「見ます」


 彼女は眼鏡を外し、袖で拭って、かけ直しました。


「見ます。……お嬢様がご覧になるものは、私も見ます」



「乱暴になさいますのね」


 私は寸胴の縁に戻った主へ声を投げました。


「乱暴? とんでもない」


 その方は心底心外だという顔をされました。


「ばらすときこそ丁寧にやるものだ。……粒を一つも損なっていない。全部取ってある。順番も覚えている」


「では、戻せますの」

「戻すよ。もっと美味しい形にね」


 私の指が、フライパンの柄に食い込みました。この方は嘘をついておられません。それがいけないのですわ。

 この方にとって、あの港の人々は失われていないのです。ただ、皿の上で位置を変えられているだけ。


「エリアナ。……あれを見ろ」


 ゼフィロス様が、壁を指されました。北の牧舎が、ほどけました。

 東の葡萄畑が、ほどけました。

 そして渦が内へ内へと巻きながら、帝都へ近づいてまいります。



「陛下。手はございますかしら」

「ある。……この厨房ごと消す」


 陛下が包帯を完全に解こうとされました。私はその手首を掴んで止めました。


「なりませんわ」

「なぜだ!」

「皿を持っておられるからですわ」


 寸胴の縁で、その方は私たちの世界を片手に載せたまま、暢気に足を組んでおられます。


「厨房を消せば、あの手も消えますわ。……手が消えたら、皿はどうなりまして?」

「……落ちる」

「落ちますわね。ええ、粉々に」


 私は陛下の手首を離しました。


「私たちは、いま、人質を取られているのではございません。……私たち自身が、あの方の掌の上のお皿ですのよ」



 ラグエルが床に膝をつきました。


「……終わりだ」

「まあ、諦めるのがお早いこと」

「では聞くが、何ができる! 我らは皿だ! 皿が料理人に何をできる!」


 男の焦げた翼が、床を叩きました。


「私は千年、盆を運んだ! 運ぶことしか知らん! 抗ったことなど一度もない!」

「ええ。存じておりますわ」


 私はその前にしゃがみました。


「ラグエルさん。あなた、船で私が差し上げた生姜湯を覚えていらして?」

「……なぜ、今その話を」

「効きましたでしょう」

「……効いた」

「それですわ」


 私は立ち上がり、皆に向き直りました。


「よろしくて、皆様。あの方は、私たちを『よく熟した』と仰いました。……熟したのは、ここ十年ですって」



「十年前、陛下が給仕の手を掴んで、この世界は自分で歩き始めましたわ。

 王国が滅び、帝国が食卓を取り戻し、ガストロノミアが街を建て直し、天界の神々が初めて涙を流しました。

 ……全部、あの方が仕込んだのではございません。私たちが、勝手にやったことですのよ」


 私は壁を指しました。ほどけていく世界を。


「あそこには、四万人の料理人がおりますわ」


 セリーナさんがはっと顔を上げました。


「……二十日後の朝」

「ええ。……ちょうど、明日ですのよ」


 私は懐から、船に積んできた書状の控えを取り出しました。四万通ぶんの返事の、いちばん上の一枚。


『うちのは焦げます。それでも構いませんか』


「構いませんわ、と私は書きました。……ですから、あの方たちは明日の朝、必ず鍋を振りますの」



 私は、その場で献立を組み立て始めました。


 こちらの手札を数えます。鉄のフライパンが一本。整えられていない食材が船三隻ぶん。四十年の料理長。鋼線の侍女長。天界の給仕長と洗い場の子。パン屋の二階に住む元・世界喰らい。壊れた舌の物差しが一人。

 そして、東の彼方でほどけかけている、四万人の朝ごはん。


「ハンスさん。竈を六つ、こちらへ運べまして?」

「船からですかい」

「ええ。この方の厨房を、少しお借りいたしますわ」

「……勝手に使うと、怒られやしませんか」

「怒られますわね。ですから、急ぎましょう」


 ミラベル様が、私の袖を引きました。


「ねえ。あたし、何をすればいいの」

「パン種を起こしてくださいまし。……千年ぶんの経験がおありでしょう」

「あたしがやってたのは、味付けよ」

「同じことですわ。今度は、こちら側の鍋に振ってくださればよろしいの」


 少女の顔が、くしゃりと歪んで、それから笑いました。



 寸胴の上で、主が首を傾げられました。


「明日の朝は来ないよ。もう、ばらしている」

「ええ。ですから、間に合わせますわ」

「間に合わせる?」


 私は鉄のフライパンを構えました。柄の焦げ跡が、掌に沈みます。


「私、この十年で一つだけ学びましたの。……厨房というのは、火にかけている最中がいちばん忙しいのですわ」


 私は笑いました。今日いちばん大きく。


「おーっほっほっほ! ばらしている最中に、横から手を出されるとお困りでしょう? ……わたくしの帝国を、盛り付け直さないでくださる」



 そして私は、その厨房の床へ、鉄のフライパンを思いきり叩きつけました。鐘のような音が響きました。

 棚の皿が鳴り、寸胴の湯が波打ち、主の輪郭が揺らぎました。厨房で音を立てるのは、そこで働く者の権利ですわ。

 私は今、この方の厨房に立っております。



 主は、揺らいだ輪郭をゆっくりと整え直されました。

 怒ってはおられません。むしろ、面白がっておられる顔ですわ。


「手を出すのは構わない。……だが、間に合わないよ」

「あら。どうして」

「君の四万人は、東の端にいる。ここは外だ。……声が届かない」


 ええ、そのとおりですわ。白の外側から、東の端の朝ごはんへ、どうやって声を届けるのか。

 方法は、一つしかございません。私は、隣に立つ男を見上げました。


「陛下」

「言え」

「あなたの右腕、どこまで伸びますの」


 ゼフィロス様の目が、細くなりました。


「……試したことがない」

「では、試しどきですわね」

最後までお読みくださって、ありがとうございます。

「ほどける」滅び方は、悲鳴が出ないぶん静かで嫌だろうと思って選びました。壊すより丁寧な破壊のほうが、こわいですもの。

ラグエルの生姜湯を伏線に使えたのが、書いていていちばん楽しかったところですわ。

次回、二十日後の朝が来ます。四万人ぶんの朝ごはんですわよ。

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