第68話 わたくしの帝国を、盛り付け直さないでくださる
最初に消えたのは、南の港でした。
厨房の壁に、私たちの世界が映っております。皿を持ち上げたときに、そういう仕掛けになったようですわ。
私はそれを、指の先が白くなるほど拳を握って見ておりました。南の港。塩の産地。私がいちばん最初に木札を置いた場所。
崩れたのではございません。
沈んだのでもございません。――ほどけたのですわ。建物が、人が、船が、道が、糸をほどくように輪郭を失って、ばらばらの粒になって、宙に浮かびます。
悲鳴は聞こえませんでした。声を出す前に、声そのものがほどけましたもの。
「……港が」
「セリーナさん。見なくてよろしいですわ」
「見ます」
彼女は眼鏡を外し、袖で拭って、かけ直しました。
「見ます。……お嬢様がご覧になるものは、私も見ます」
「乱暴になさいますのね」
私は寸胴の縁に戻った主へ声を投げました。
「乱暴? とんでもない」
その方は心底心外だという顔をされました。
「ばらすときこそ丁寧にやるものだ。……粒を一つも損なっていない。全部取ってある。順番も覚えている」
「では、戻せますの」
「戻すよ。もっと美味しい形にね」
私の指が、フライパンの柄に食い込みました。この方は嘘をついておられません。それがいけないのですわ。
この方にとって、あの港の人々は失われていないのです。ただ、皿の上で位置を変えられているだけ。
「エリアナ。……あれを見ろ」
ゼフィロス様が、壁を指されました。北の牧舎が、ほどけました。
東の葡萄畑が、ほどけました。
そして渦が内へ内へと巻きながら、帝都へ近づいてまいります。
「陛下。手はございますかしら」
「ある。……この厨房ごと消す」
陛下が包帯を完全に解こうとされました。私はその手首を掴んで止めました。
「なりませんわ」
「なぜだ!」
「皿を持っておられるからですわ」
寸胴の縁で、その方は私たちの世界を片手に載せたまま、暢気に足を組んでおられます。
「厨房を消せば、あの手も消えますわ。……手が消えたら、皿はどうなりまして?」
「……落ちる」
「落ちますわね。ええ、粉々に」
私は陛下の手首を離しました。
「私たちは、いま、人質を取られているのではございません。……私たち自身が、あの方の掌の上のお皿ですのよ」
ラグエルが床に膝をつきました。
「……終わりだ」
「まあ、諦めるのがお早いこと」
「では聞くが、何ができる! 我らは皿だ! 皿が料理人に何をできる!」
男の焦げた翼が、床を叩きました。
「私は千年、盆を運んだ! 運ぶことしか知らん! 抗ったことなど一度もない!」
「ええ。存じておりますわ」
私はその前にしゃがみました。
「ラグエルさん。あなた、船で私が差し上げた生姜湯を覚えていらして?」
「……なぜ、今その話を」
「効きましたでしょう」
「……効いた」
「それですわ」
私は立ち上がり、皆に向き直りました。
「よろしくて、皆様。あの方は、私たちを『よく熟した』と仰いました。……熟したのは、ここ十年ですって」
「十年前、陛下が給仕の手を掴んで、この世界は自分で歩き始めましたわ。
王国が滅び、帝国が食卓を取り戻し、ガストロノミアが街を建て直し、天界の神々が初めて涙を流しました。
……全部、あの方が仕込んだのではございません。私たちが、勝手にやったことですのよ」
私は壁を指しました。ほどけていく世界を。
「あそこには、四万人の料理人がおりますわ」
セリーナさんがはっと顔を上げました。
「……二十日後の朝」
「ええ。……ちょうど、明日ですのよ」
私は懐から、船に積んできた書状の控えを取り出しました。四万通ぶんの返事の、いちばん上の一枚。
『うちのは焦げます。それでも構いませんか』
「構いませんわ、と私は書きました。……ですから、あの方たちは明日の朝、必ず鍋を振りますの」
私は、その場で献立を組み立て始めました。
こちらの手札を数えます。鉄のフライパンが一本。整えられていない食材が船三隻ぶん。四十年の料理長。鋼線の侍女長。天界の給仕長と洗い場の子。パン屋の二階に住む元・世界喰らい。壊れた舌の物差しが一人。
そして、東の彼方でほどけかけている、四万人の朝ごはん。
「ハンスさん。竈を六つ、こちらへ運べまして?」
「船からですかい」
「ええ。この方の厨房を、少しお借りいたしますわ」
「……勝手に使うと、怒られやしませんか」
「怒られますわね。ですから、急ぎましょう」
ミラベル様が、私の袖を引きました。
「ねえ。あたし、何をすればいいの」
「パン種を起こしてくださいまし。……千年ぶんの経験がおありでしょう」
「あたしがやってたのは、味付けよ」
「同じことですわ。今度は、こちら側の鍋に振ってくださればよろしいの」
少女の顔が、くしゃりと歪んで、それから笑いました。
寸胴の上で、主が首を傾げられました。
「明日の朝は来ないよ。もう、ばらしている」
「ええ。ですから、間に合わせますわ」
「間に合わせる?」
私は鉄のフライパンを構えました。柄の焦げ跡が、掌に沈みます。
「私、この十年で一つだけ学びましたの。……厨房というのは、火にかけている最中がいちばん忙しいのですわ」
私は笑いました。今日いちばん大きく。
「おーっほっほっほ! ばらしている最中に、横から手を出されるとお困りでしょう? ……わたくしの帝国を、盛り付け直さないでくださる」
そして私は、その厨房の床へ、鉄のフライパンを思いきり叩きつけました。鐘のような音が響きました。
棚の皿が鳴り、寸胴の湯が波打ち、主の輪郭が揺らぎました。厨房で音を立てるのは、そこで働く者の権利ですわ。
私は今、この方の厨房に立っております。
主は、揺らいだ輪郭をゆっくりと整え直されました。
怒ってはおられません。むしろ、面白がっておられる顔ですわ。
「手を出すのは構わない。……だが、間に合わないよ」
「あら。どうして」
「君の四万人は、東の端にいる。ここは外だ。……声が届かない」
ええ、そのとおりですわ。白の外側から、東の端の朝ごはんへ、どうやって声を届けるのか。
方法は、一つしかございません。私は、隣に立つ男を見上げました。
「陛下」
「言え」
「あなたの右腕、どこまで伸びますの」
ゼフィロス様の目が、細くなりました。
「……試したことがない」
「では、試しどきですわね」
最後までお読みくださって、ありがとうございます。
「ほどける」滅び方は、悲鳴が出ないぶん静かで嫌だろうと思って選びました。壊すより丁寧な破壊のほうが、こわいですもの。
ラグエルの生姜湯を伏線に使えたのが、書いていていちばん楽しかったところですわ。
次回、二十日後の朝が来ます。四万人ぶんの朝ごはんですわよ。




