第67話 厨房の主は、たいそう腕のよい方でございました
湯気の向こうは、厨房でした。驚くほど、ただの厨房でしたの。
途方もない広さです。天井は見えません。竈がいくつあるのか数えられません。それでも造りそのものは、私の知っている厨房と何一つ変わりませんでした。
作業台があり、俎板があり、包丁が刃を上にせず並べてある。布巾が畳んで置いてある。床には水が撒いてある。
私は思わず足を止めました。
布巾の畳み方が、私と同じでしたの。
「……エリアナ様。ご覧ください」
セリーナさんが指した先に、棚がございました。
棚には、皿が伏せて並んでおります。まだ使われていない、真新しい皿。数え切れないほど。そして棚の下段に、渦の溝が刻まれた大きな一枚が、ぽつんと出してございました。
汁の跡がついております。使いかけの皿ですわ。私たちの世界です。私は棚の前で立ち尽くしました。
伏せられた新しい皿の一枚一枚に、うっすらと渦の溝が刻まれております。まだ何も乗っていない。まだ誰も生まれていない。
これから作られる世界が、ここに何万枚も積んでございました。
右手の棚には、使い終わって戻された皿もございます。こちらは洗ってございません。縁の汁が乾いたまま伏せてある。
外の山へ運ばれる前の、待ちの列ですわ。私は、そのどちらでもない場所に置かれた一枚を見ておりました。
まだ卓の上。まだ湯気が立っている。まだ、間に合う。
「――いらっしゃい」
声は上から降ってきました。振り仰いだ先。巨大な寸胴の縁に腰かけて、こちらを見下ろしている方がおりました。
姿は、なんと申し上げればよろしいかしら。
人のようでもあり、そうでないようでもあり。見るたびに輪郭が変わります。ただ一点、両手だけは、はっきりと見えました。
働いてきた手でした。
節が太く、爪が短く、甲に古い火傷の跡がいくつも重なった手。私はその手を見た瞬間に理解いたしました。
ああ、この方は本物だと。
「客が厨房まで来るのは、久しぶりだ」
その方は寸胴から飛び降りました。音がいたしません。
「もっとも、たいてい途中で潰れる。……よく歩いたね」
「おほめにあずかり、光栄ですわ」
私は膝を折り、最上級のカーテシーを披露いたしました。
「初めてお目にかかります。エリアナ・ヴェスタと申します。……そちらの皿の、中身でございますわ」
「知っているよ」
その方は私の前まで歩いてこられました。
「よく熟した。……いい仕上がりだ。特にここ十年、味が急に深くなった」
褒められました。
私は生まれて初めて、褒められて吐き気がいたしましたわ。
「……十年、と仰いましたわね」
「うん。給仕が一人、あの皿の上で壊れた。あれから中身が慌てて動き出した。危機というのは、いい火加減になる」
背後で、ゼフィロス様の右腕が唸りました。
「あなたが十年前に寄越した方ですわね」
「片付けをさせただけだよ。……ずいぶん早い片付けだったから、こちらの見立てが甘かった。あの時点ではまだ、下ごしらえの途中だった」
その方は私の顔を覗き込みました。
「おかげでこの十年、いい仕込みになった。……礼を言うよ。君たちが自分で灰汁を抜いてくれた」
「一つ、伺ってもよろしくて」
「どうぞ」
「あなたは、私たちを美味しくお作りになりたいのですわね」
「そうだよ」
「なぜですの」
その方は少し驚いた顔をなさいました。
「なぜ、とは」
「なぜ、美味しくなさりたいのかと伺っておりますの」
厨房が静かになりました。
巨大な寸胴の中で何かが煮える音だけが、ずっと遠くで続いております。
「……作るからには、美味しいほうがいいだろう」
私は思わず笑ってしまいました。
「まあ! おーっほっほっほ! ええ、ええ。そのとおりですわ。まったくもって、そのとおり」
私は扇を広げました。
「私、ずいぶん恐ろしい相手を想像しておりましたのよ。世界を弄ぶ悪意とか、意味のない破壊とか。……ですけれど、あなたはただの、腕のよい料理人でいらっしゃいますのね」
「そのつもりだ」
「ええ。だからこそ、最悪ですわ」
その方の輪郭が、ふっと止まりました。
「どういう意味かな」
「悪人でしたら、改心させればよろしいの。狂人でしたら、正気に戻せばよろしいの。……ですけれど、あなたは正しいのですわ。正しく、丁寧に、腕よく、私たちを仕上げていらっしゃる」
私は鉄のフライパンを外し、両手で構えました。
「腕のよい料理人ほど、鍋の中身の言い分を聞きませんもの」
その方はしばらく私を見つめておられました。
それから、ゆっくりと頷かれます。
「……なるほど。君は、いい素材だ」
「素材と呼ばれるのは、そろそろ飽きましたわ」
「では、何と呼べばいい」
「同業と呼んでくださいまし」
厨房の空気が、ぴん、と張りました。主は私の手元へ視線を落とされました。歪んだ縁の、錆の浮いた、下働きの使い古し。
「その道具で?」
「ええ」
「ずいぶん貧しい」
「まあ、失礼な。……お宅の匙より、よほど働いておりますわよ」
私は柄を握り直しました。
「それに、道具の値打ちで料理が決まるのでしたら、あなたの厨房にはもっと立派なものが並んでいるはずですわ。……ですけれど、そちらの俎板、ずいぶん使い込んでいらっしゃるのね」
主の視線が、私からそれました。
「……長く使っている」
「ええ。良い俎板ですわ。……ですから伺いますの。あなたは、道具を大事になさる方ですのね」
「当然だ」
「では、皿は」
厨房が、しんとしました。
「皿も道具でしょう。……あなた、割ったあとのお皿を洗ってすらいらっしゃらないわ」
「いいだろう」
その方は傷だらけの両手を打ち合わせました。
その音とともに、棚の皿が一斉に鳴りました。何千枚、何万枚。真新しい皿が、伏せられたまま歌うように震えます。
「では、盛り付け直そうか」
「盛り付け……直す?」
「そう。手前の皿はもう仕上がっている。……だが君が同業を名乗るなら、話は別だ」
その方は、私たちの世界の皿を棚から取り上げました。
片手で。何の気負いもなく。子供がおはじきを摘まむように。
「厨房に立つ者どうしなら、順序は知っているね。……仕上げの前に、一度、全部ばらす」
厨房の床が、揺れました。私の足元から、白が波打ち始めます。
遠く、ずっと遠くのほうで、何かが崩れる音がいたしました。私は、その音の方角を知っておりました。
東ですわ。私たちの、帰る方角。
「陛下」
「ああ」
「お仕事の時間ですわよ」
私は袖をまくりました。
厨房で袖をまくるのは、宣戦布告と同じ意味ですわ。同業なら、通じるはずですもの。寸胴の上の方が、口の端だけを動かされました。
「……いいね。久しぶりだ」
「あら。前にもいらして?」
「一人だけ。……匙を一本、持って逃げた娘がいた」
私は、鉄のフライパンを構えたまま笑い返しました。
「おーっほっほっほ! その方、私のご先祖様ですわ」
今回もお付き合いいただき、ありがとうございます。
悪意のない相手をどう恐ろしく書くか、というのがこの回の全部でした。「作るからには美味しいほうがいいだろう」と言われた瞬間に反論の足場が消える感じを、出したかったのですわ。
布巾の畳み方が同じ、というのは書きながら思いつきました。同業とはそういうものですもの。
次回、世界が一度ばらされます。
※「作るからには、美味しいほうがいいだろう」で背筋が冷えた方は、ブックマークと評価をひとつ。布巾の洗い賃にいたしますの。




