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私の料理を泥と捨てた王国、飢え死に寸前で戻れと言われても遅いです ~帝国の料理番になった私は、冷徹な皇帝陛下に胃袋を掴めと命じられました~  作者: 花菱 結愛
第5章:起源・新世界編

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第66話 その右手が向こうの持ち物でも、わたくしには関係ございませんの

 皿の山のあいだで、私たちは野営をいたしました。


 火を焚くものがございません。ハンスさんが持参した炭を組み、ミラベル様がパン種を寝かせ、セリーナさんが湯を沸かします。

 白の中で火だけが妙に赤く見えました。ゼフィロス様は輪から離れて座っておられました。私は湯を二杯注ぎ、そのうち一杯を持って歩いていきました。


「陛下。冷えますわ」

「……近寄るな」

「まあ」


 私は隣に腰を下ろしました。


「近寄るなと申し上げた」

「聞こえておりましたわ。ですけれど、皇妃ですもの。多少の不敬は許されますの」



 陛下は右腕を見つめておられました。


 包帯は半分ほど解けたままです。露わになった肘から先で、黒い渦が静かに回っております。ここへ来てから、この渦は一度も暴れておりません。

 むしろ落ち着いております。それがこの方には耐えがたいのですわ。


「……エリアナ。私は、ここへ来て初めて楽になった」

「はい」

「あの白の中で、この腕は道を迷わなかった。……皿の山を見ても、驚かなかった。……見慣れているのだ」


 陛下はご自分の右手を握ったり開いたりされました。


「私は、ずっと考えていた。……なぜ十年前、あの神は私の前に現れた。……なぜ私だけが、あれを握り潰せた」


 黒い渦が鈍く光ります。


「答えは簡単だ。……同じものだからだ」


 私は湯の椀を膝に置きました。


「私は、あの給仕の道具の一部なのだろう。……こぼれた欠片か、落とした匙か。何であれ、向こうの持ち物だ」


 陛下が、ようやく私の顔を見られました。

 その目は私の知っている皇帝の目ではございませんでした。


「エリアナ。……この十年、私はお前に触れられぬことを呪いだと思ってきた。だが違う」


 声が掠れました。


「向こうの道具が、こちらの人間に触れてよいはずがないのだ。……この腕は、正しく仕事をしている。私を、お前から遠ざけて」


 焚火のほうから、笑い声が聞こえました。


 ミラベル様が生地を伸ばしすぎてハンスさんに叱られております。ラグエルが薪の組み方を間違えて煙を出しました。ヴィクトリア様がそれを見て腹を抱えて笑っております。

 世界の外側で。割れた皿の山に囲まれて。人というものは、火があれば笑うのですわね。私はその声を背中に聞きながら、この十年ぶん重い男の隣に座っております。

 この方だけがいまだに輪の外にいらっしゃる。



 私は湯を一口飲みました。それから椀を置いて立ち上がり、陛下の正面に膝をつきました。


「陛下。一つ、伺ってもよろしくて」

「……何だ」

「私の鉄のフライパンは、どなたの持ち物ですの」


 陛下が眉を寄せられました。


「……お前のものだろう」

「いいえ。帝国の下働きの誰かが、二十年使い潰したものですわ。名前も存じません」

「では、なぜお前が持っている」


「拾いましたからよ」


 私は腰の柄に手をやりました。焦げ跡が掌に馴染んでおります。


「大釜の脇に転がっておりましたの。捨てられる寸前でしたわ。歪んでおりましたし、錆も浮いておりました。……ですけれど私、あれを見た瞬間に決めましたのよ。この一本で行こうと」


「エリアナ」

「素材の出どころを気にする料理人は、二流ですわ」


 陛下が、何か言いかけて口を閉じられました。


「私、王国では『盗んだ』と言われましたわ。この祝福も、この腕前も、全部よそから盗んだものだと。……あのとき私、悔しくてたまりませんでしたの」

「……知っている」

「ええ。ですけれど今なら分かりますのよ。あれは半分だけ当たっておりましたわ」


 私は自分の掌を開いて見せました。


「初代様が厨房から盗んだ匙を、私は十八年使いました。……盗品ですわね。まぎれもなく」

「エリアナ」

「ですけれど、盗品で焼いたパンは、盗品ではございませんの」


 黒い渦の音だけが、二人のあいだで鳴っております。


「素材の来歴と、出来上がった一皿の値打ちは、別のものですわ。……私は十八年かけて、それを証明してまいりましたのよ」


 私は包帯の解けた右腕へ手を伸ばしました。


「陛下! 触れるな、消え――」

「消えませんわ」



 私の掌が黒い渦に触れました。じり、と焼ける音がいたします。痛いですわ。ええ、正直に申し上げれば、とても痛い。

 けれど、消えません。私は歯を食いしばってそのまま握りました。


「……なぜ、消えぬ」

「さあ。……たぶん、あなたの腕が私を選り分けているからですわ」


 黒い渦は私の掌の周りだけを避けるように流れておりました。触れているのに触れていない。器用なことですわ。


「陛下。……その右手が向こうの持ち物でも、わたくしには関係ございませんの」


 私は顔を上げました。


「私は、拾ったものを使いますの。歪んでいても、錆びていても、出どころが分からなくても。……使うと決めた素材の来歴を、いちいち恥じるような真似はいたしません」


「……エリアナ」


「あなたは向こうの道具ではございませんわ。……私が拾って、私が選んだ、私の素材ですのよ」



 陛下はしばらく動きませんでした。やがて空いている左手で、私の焼けた掌をそっと包まれました。


「……この掌は、後で必ず治す」

「まあ。料理人の手は傷だらけが普通ですわ」

「私が嫌なのだ」

「あら、そう。では、お願いいたしますわ」


 私は立ち上がって椀を拾いました。


「陛下。ひとつ、覚えておいてくださいまし」

「何だ」

「私、あなたの右手が触れられる日を、まだ諦めておりませんの」


 陛下が息を呑まれました。


「夜食のスープをお出しした晩に、申し上げましたでしょう。世に『火が通らぬ食材』はあっても、『いつまでも硬い食材』はございませんと」

「……あれは、慰めではなかったのか」

「まさか。料理人は、火の通らない素材の前で、そんな安い嘘はつきませんわ」


 私は焚火のほうへ歩き出しました。


「時をかけ、手をかければ、いつか柔らかくほぐれますのよ。……ただ、今夜ではございませんわね」



 焚火へ戻ると、ミラベル様が焼き上がったばかりのパンを割っておりました。


 白の中で膨らむのかしらと案じておりましたが、ちゃんと膨らんでおります。世界の外側でも酵母は働くのですわね。少しだけ、ほっといたしました。


「エリアナ様。焦げてるけど」

「けっこうですわ。焦げているのが、よろしいのですのよ」


 私は一切れを受け取り、二切れ目をゼフィロス様へ持っていきました。

 陛下は黙って受け取り、左手で口へ運ばれました。その手が、少しだけ震えておりました。



 背後で湯気の立つ音が変わりました。振り返ると、白の彼方の湯気がゆっくりとこちらへ傾いておりました。

 風はございません。それでも傾く。誰かが大鍋の蓋を開けた形でしたわ。

ここまでお読みくださって、ありがとうございますわ。

拾って選んだ素材だから来歴は問わない、という言い方が、この主人公にはいちばん似合うと思っておりました。慰めではなく、職業倫理として言い切るところが。

番外編(第55話)の「いつか」を、ここで一度だけ拾い直しました。まだ答えではございません。

次回、湯気の向こうから、この一皿を仕込んだ方がいらっしゃいます。

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