第66話 その右手が向こうの持ち物でも、わたくしには関係ございませんの
皿の山のあいだで、私たちは野営をいたしました。
火を焚くものがございません。ハンスさんが持参した炭を組み、ミラベル様がパン種を寝かせ、セリーナさんが湯を沸かします。
白の中で火だけが妙に赤く見えました。ゼフィロス様は輪から離れて座っておられました。私は湯を二杯注ぎ、そのうち一杯を持って歩いていきました。
「陛下。冷えますわ」
「……近寄るな」
「まあ」
私は隣に腰を下ろしました。
「近寄るなと申し上げた」
「聞こえておりましたわ。ですけれど、皇妃ですもの。多少の不敬は許されますの」
陛下は右腕を見つめておられました。
包帯は半分ほど解けたままです。露わになった肘から先で、黒い渦が静かに回っております。ここへ来てから、この渦は一度も暴れておりません。
むしろ落ち着いております。それがこの方には耐えがたいのですわ。
「……エリアナ。私は、ここへ来て初めて楽になった」
「はい」
「あの白の中で、この腕は道を迷わなかった。……皿の山を見ても、驚かなかった。……見慣れているのだ」
陛下はご自分の右手を握ったり開いたりされました。
「私は、ずっと考えていた。……なぜ十年前、あの神は私の前に現れた。……なぜ私だけが、あれを握り潰せた」
黒い渦が鈍く光ります。
「答えは簡単だ。……同じものだからだ」
私は湯の椀を膝に置きました。
「私は、あの給仕の道具の一部なのだろう。……こぼれた欠片か、落とした匙か。何であれ、向こうの持ち物だ」
陛下が、ようやく私の顔を見られました。
その目は私の知っている皇帝の目ではございませんでした。
「エリアナ。……この十年、私はお前に触れられぬことを呪いだと思ってきた。だが違う」
声が掠れました。
「向こうの道具が、こちらの人間に触れてよいはずがないのだ。……この腕は、正しく仕事をしている。私を、お前から遠ざけて」
焚火のほうから、笑い声が聞こえました。
ミラベル様が生地を伸ばしすぎてハンスさんに叱られております。ラグエルが薪の組み方を間違えて煙を出しました。ヴィクトリア様がそれを見て腹を抱えて笑っております。
世界の外側で。割れた皿の山に囲まれて。人というものは、火があれば笑うのですわね。私はその声を背中に聞きながら、この十年ぶん重い男の隣に座っております。
この方だけがいまだに輪の外にいらっしゃる。
私は湯を一口飲みました。それから椀を置いて立ち上がり、陛下の正面に膝をつきました。
「陛下。一つ、伺ってもよろしくて」
「……何だ」
「私の鉄のフライパンは、どなたの持ち物ですの」
陛下が眉を寄せられました。
「……お前のものだろう」
「いいえ。帝国の下働きの誰かが、二十年使い潰したものですわ。名前も存じません」
「では、なぜお前が持っている」
「拾いましたからよ」
私は腰の柄に手をやりました。焦げ跡が掌に馴染んでおります。
「大釜の脇に転がっておりましたの。捨てられる寸前でしたわ。歪んでおりましたし、錆も浮いておりました。……ですけれど私、あれを見た瞬間に決めましたのよ。この一本で行こうと」
「エリアナ」
「素材の出どころを気にする料理人は、二流ですわ」
陛下が、何か言いかけて口を閉じられました。
「私、王国では『盗んだ』と言われましたわ。この祝福も、この腕前も、全部よそから盗んだものだと。……あのとき私、悔しくてたまりませんでしたの」
「……知っている」
「ええ。ですけれど今なら分かりますのよ。あれは半分だけ当たっておりましたわ」
私は自分の掌を開いて見せました。
「初代様が厨房から盗んだ匙を、私は十八年使いました。……盗品ですわね。まぎれもなく」
「エリアナ」
「ですけれど、盗品で焼いたパンは、盗品ではございませんの」
黒い渦の音だけが、二人のあいだで鳴っております。
「素材の来歴と、出来上がった一皿の値打ちは、別のものですわ。……私は十八年かけて、それを証明してまいりましたのよ」
私は包帯の解けた右腕へ手を伸ばしました。
「陛下! 触れるな、消え――」
「消えませんわ」
私の掌が黒い渦に触れました。じり、と焼ける音がいたします。痛いですわ。ええ、正直に申し上げれば、とても痛い。
けれど、消えません。私は歯を食いしばってそのまま握りました。
「……なぜ、消えぬ」
「さあ。……たぶん、あなたの腕が私を選り分けているからですわ」
黒い渦は私の掌の周りだけを避けるように流れておりました。触れているのに触れていない。器用なことですわ。
「陛下。……その右手が向こうの持ち物でも、わたくしには関係ございませんの」
私は顔を上げました。
「私は、拾ったものを使いますの。歪んでいても、錆びていても、出どころが分からなくても。……使うと決めた素材の来歴を、いちいち恥じるような真似はいたしません」
「……エリアナ」
「あなたは向こうの道具ではございませんわ。……私が拾って、私が選んだ、私の素材ですのよ」
陛下はしばらく動きませんでした。やがて空いている左手で、私の焼けた掌をそっと包まれました。
「……この掌は、後で必ず治す」
「まあ。料理人の手は傷だらけが普通ですわ」
「私が嫌なのだ」
「あら、そう。では、お願いいたしますわ」
私は立ち上がって椀を拾いました。
「陛下。ひとつ、覚えておいてくださいまし」
「何だ」
「私、あなたの右手が触れられる日を、まだ諦めておりませんの」
陛下が息を呑まれました。
「夜食のスープをお出しした晩に、申し上げましたでしょう。世に『火が通らぬ食材』はあっても、『いつまでも硬い食材』はございませんと」
「……あれは、慰めではなかったのか」
「まさか。料理人は、火の通らない素材の前で、そんな安い嘘はつきませんわ」
私は焚火のほうへ歩き出しました。
「時をかけ、手をかければ、いつか柔らかくほぐれますのよ。……ただ、今夜ではございませんわね」
焚火へ戻ると、ミラベル様が焼き上がったばかりのパンを割っておりました。
白の中で膨らむのかしらと案じておりましたが、ちゃんと膨らんでおります。世界の外側でも酵母は働くのですわね。少しだけ、ほっといたしました。
「エリアナ様。焦げてるけど」
「けっこうですわ。焦げているのが、よろしいのですのよ」
私は一切れを受け取り、二切れ目をゼフィロス様へ持っていきました。
陛下は黙って受け取り、左手で口へ運ばれました。その手が、少しだけ震えておりました。
背後で湯気の立つ音が変わりました。振り返ると、白の彼方の湯気がゆっくりとこちらへ傾いておりました。
風はございません。それでも傾く。誰かが大鍋の蓋を開けた形でしたわ。
ここまでお読みくださって、ありがとうございますわ。
拾って選んだ素材だから来歴は問わない、という言い方が、この主人公にはいちばん似合うと思っておりました。慰めではなく、職業倫理として言い切るところが。
番外編(第55話)の「いつか」を、ここで一度だけ拾い直しました。まだ答えではございません。
次回、湯気の向こうから、この一皿を仕込んだ方がいらっしゃいます。




