第65話 割れた皿が、そこらじゅうに積んでございました
白の中へ足を踏み入れた瞬間、音が消えました。波の音も、帆の軋みも、仲間の息づかいも。
残ったのは、私自身の心臓の音だけ。それも、しばらくすると聞こえなくなりました。どれほど歩いたのかは分かりません。半刻かもしれませんし、三日かもしれません。
やがて足の裏に、硬いものが当たりました。私は、そこで顔を上げました。
皿でした。
割れた皿が、そこらじゅうに積んでございました。
私の背丈ほどの高さに、幾山も。欠けたもの、砕けたもの、縁だけが残ったもの。大きさもばらばらで、素材もまるで違います。石のもの、貝のもの、金属のもの、何でできているのか分からないもの。
どれも、使い終わったあとの顔をしております。汚れが、そのままですのよ。
縁に汁が乾いて筋を引いております。底には焦げが張りついたまま。指の跡が残っているものさえございました。
「……エリアナ様」
セリーナさんの声が、震えておりました。この方が震えるのを、私はもう三度目に聞いております。
「これは、何でございますか」
「お皿ですわ」
「それは、見ればわかります。……私が伺いたいのは」
「ええ。分かっておりますわ」
私は、いちばん近くの山へ歩み寄りました。
足元に落ちていた欠片を、拾い上げます。掌に収まるほどの大きさ。表面には、細い溝が渦を巻いておりました。
ガストロノミアの地下で見た、あの床石と同じ形ですわ。ただし、うんと小さい。
いいえ。小さいのではございません。
あれと同じものが、砕けて、この大きさになっているだけですのよ。
「……世界ですわね」
誰も、返事をしませんでした。
私は山のあいだを歩きました。
数えるつもりで歩き始めて、すぐにやめました。数えられる量ではございません。
視界の端から端まで山です。その向こうにも山。さらに向こうにも山。どこまで行っても山。
欠片の一つ一つに、それぞれ別の景色が焼き付いておりました。
真っ赤な砂の色。深い緑の色。氷しかなかったらしい白。海しかなかったらしい青。
どれも一度は誰かの住まいだったのでしょう。人がいたのか。人と呼べぬものがいたのか。それは分かりません。分かるのは、そのどれもが誰かに食べられて、下げられて、ここへ積まれたということだけですわ。
私の世界の欠片は、まだこの中にございません。
まだ、卓の上ですもの。
ラグエルが膝をつき、両手で顔を覆いました。焦げた翼が、力なく地面を擦ります。
ミラベル様は皿の山を見上げたまま、動きません。
ハンスさんだけが、山のあいだをゆっくりと歩き、一枚ずつ手に取って裏返しておりました。
「……エリアナ様」
「はい」
「こいつら、洗ってねえんですわ」
私は、その言葉に振り返りました。
「ご覧なせえ。縁に汁が乾いてこびりついてる。焦げも落ちてねえ。……こいつぁ下げただけだ。誰も洗っちゃいねえ」
四十年の料理長が、割れた皿を月のように掲げました。
「厨房でこれをやったら、俺は弟子をぶん殴りますよ。……下げるだけ下げて、積んだまま放ってある。仕事が雑だ」
私は、少しだけ笑ってしまいました。
こんなところで笑えるのは、この方のおかげですわ。
「ええ、ハンスさん。まったくもって、雑ですわね」
そのとき、後ろで声がいたしました。
「……味がする」
ジュリアン様でした。
この方は、山の裾に膝をつき、割れた皿の縁に指を這わせておりました。その指を、舐めております。
「ジュリアン様。今、何と」
「味がする、と言った」
私の背中を、氷が滑り落ちました。
この方の舌は壊れております。世界中のどんな下ごしらえも、この方には泥にしか届きません。
その舌が、味を拾った。
「……何の味ですの」
「わからん。だが、泥ではない」
男は指を見つめ、それから顔を上げました。四か月ぶりに、この方の目に光がございます。
「懐かしい。……なぜか、ひどく懐かしい」
私は歩み寄り、その指を掴んで、自分の舌へ乗せました。
セリーナさんが悲鳴のような声を上げましたけれど、構いませんわ。料理人が味を確かめるのに、行儀を気にしていては仕事になりません。
舌の上で、それはゆっくりと広がりました。
……ああ。
私は、目を閉じました。母の台所の匂いがいたしました。
窯の前で焦げたパンを抱えた、あのパン屋のご主人の手のひらの熱がいたしました。
三十七分かけて焼いた卵の、はじめの一口がいたしました。
誰かが誰かのために作った、数え切れないほどの一皿の、いちばん最後に残った縁の一滴。
「……エリアナ。どうした」
「陛下」
私は目を開けました。頬が濡れておりましたので、扇で隠しました。
「この皿たちは、みんな美味しかったのですわ」
誰も、何も言いませんでした。
「割られたのは、不味かったからではございません。……食べ終わったからですのよ。ちゃんと、最後まで召し上がっていただいた証ですわ」
私は割れた欠片を、そっと山へ戻しました。
「……ですから、なおのこと腹が立ちますの」
私は、皿の山にいちばん近い平らな場所を選びました。
「ハンスさん。炭を」
「……ここでですかい」
「ええ。ここでですわ」
竈を組むのに、四半刻かかりました。
持ってきた水を張り、屑野菜の切れ端を落とし、塩をひとつまみ。何の変哲もない、旅の途中の汁物ですわ。
湯気が立った瞬間、白の中の空気が、わずかに動きました。
「エリアナ様。……何を」
「ご挨拶ですの、セリーナさん」
私は鍋を火から下ろし、椀に注ぎ分けました。七人ぶん。
それから最後の一杯を、いちばん古そうな皿の山の裾へ、そっと置きました。
「割れた皆様に。……ずいぶんお待たせいたしましたわね」
供えた椀から、湯気が細く立ち上ります。
白の中で、それだけが動いておりました。ミラベル様が鼻をすすりました。ヴィクトリア様が声を上げて泣きました。
ラグエルは、両手で顔を覆ったまま動きませんでした。この方は千年、下げるほうの側におられましたもの。
顔を上げたとき、遠くに湯気が見えました。白の彼方。皿の山を越えた向こう側。
立ち上っているのは、どこまでも真っ白な、けれど確かに温かい湯気。
私はそれを見て、鉄のフライパンを構え直しました。
私の胃が、正直に鳴りました。……ええ。悔しいことに、あの湯気は、いい匂いがいたしましたの。
本日もお運びくださって、ありがとうございます。
恐ろしい場所を書くとき、わたくしはいつも「片付けが雑」から入りますの。悪意より不作法のほうが、ずっと肌に刺さりますでしょう。
割れた皿の縁の一滴が、誰かが誰かのために作ったものの最後だった――ここは、この部でいちばん書きたかった場面のひとつですわ。
次回、陛下の右腕について、正面から向き合います。




