↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
私の料理を泥と捨てた王国、飢え死に寸前で戻れと言われても遅いです ~帝国の料理番になった私は、冷徹な皇帝陛下に胃袋を掴めと命じられました~  作者: 花菱 結愛
第5章:起源・新世界編

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
65/75

第65話 割れた皿が、そこらじゅうに積んでございました

 白の中へ足を踏み入れた瞬間、音が消えました。波の音も、帆の軋みも、仲間の息づかいも。

 残ったのは、私自身の心臓の音だけ。それも、しばらくすると聞こえなくなりました。どれほど歩いたのかは分かりません。半刻かもしれませんし、三日かもしれません。

 やがて足の裏に、硬いものが当たりました。私は、そこで顔を上げました。



 皿でした。


 割れた皿が、そこらじゅうに積んでございました。


 私の背丈ほどの高さに、幾山も。欠けたもの、砕けたもの、縁だけが残ったもの。大きさもばらばらで、素材もまるで違います。石のもの、貝のもの、金属のもの、何でできているのか分からないもの。


 どれも、使い終わったあとの顔をしております。汚れが、そのままですのよ。

 縁に汁が乾いて筋を引いております。底には焦げが張りついたまま。指の跡が残っているものさえございました。


「……エリアナ様」


 セリーナさんの声が、震えておりました。この方が震えるのを、私はもう三度目に聞いております。


「これは、何でございますか」

「お皿ですわ」

「それは、見ればわかります。……私が伺いたいのは」

「ええ。分かっておりますわ」


 私は、いちばん近くの山へ歩み寄りました。


 足元に落ちていた欠片を、拾い上げます。掌に収まるほどの大きさ。表面には、細い溝が渦を巻いておりました。

 ガストロノミアの地下で見た、あの床石と同じ形ですわ。ただし、うんと小さい。


 いいえ。小さいのではございません。

 あれと同じものが、砕けて、この大きさになっているだけですのよ。


「……世界ですわね」


 誰も、返事をしませんでした。



 私は山のあいだを歩きました。


 数えるつもりで歩き始めて、すぐにやめました。数えられる量ではございません。

 視界の端から端まで山です。その向こうにも山。さらに向こうにも山。どこまで行っても山。


 欠片の一つ一つに、それぞれ別の景色が焼き付いておりました。

 真っ赤な砂の色。深い緑の色。氷しかなかったらしい白。海しかなかったらしい青。

 どれも一度は誰かの住まいだったのでしょう。人がいたのか。人と呼べぬものがいたのか。それは分かりません。分かるのは、そのどれもが誰かに食べられて、下げられて、ここへ積まれたということだけですわ。


 私の世界の欠片は、まだこの中にございません。

 まだ、卓の上ですもの。



 ラグエルが膝をつき、両手で顔を覆いました。焦げた翼が、力なく地面を擦ります。

 ミラベル様は皿の山を見上げたまま、動きません。

 ハンスさんだけが、山のあいだをゆっくりと歩き、一枚ずつ手に取って裏返しておりました。


「……エリアナ様」

「はい」

「こいつら、洗ってねえんですわ」


 私は、その言葉に振り返りました。


「ご覧なせえ。縁に汁が乾いてこびりついてる。焦げも落ちてねえ。……こいつぁ下げただけだ。誰も洗っちゃいねえ」


 四十年の料理長が、割れた皿を月のように掲げました。


「厨房でこれをやったら、俺は弟子をぶん殴りますよ。……下げるだけ下げて、積んだまま放ってある。仕事が雑だ」


 私は、少しだけ笑ってしまいました。

 こんなところで笑えるのは、この方のおかげですわ。


「ええ、ハンスさん。まったくもって、雑ですわね」



 そのとき、後ろで声がいたしました。


「……味がする」


 ジュリアン様でした。


 この方は、山の裾に膝をつき、割れた皿の縁に指を這わせておりました。その指を、舐めております。


「ジュリアン様。今、何と」

「味がする、と言った」


 私の背中を、氷が滑り落ちました。


 この方の舌は壊れております。世界中のどんな下ごしらえも、この方には泥にしか届きません。

 その舌が、味を拾った。


「……何の味ですの」

「わからん。だが、泥ではない」


 男は指を見つめ、それから顔を上げました。四か月ぶりに、この方の目に光がございます。


「懐かしい。……なぜか、ひどく懐かしい」


 私は歩み寄り、その指を掴んで、自分の舌へ乗せました。

 セリーナさんが悲鳴のような声を上げましたけれど、構いませんわ。料理人が味を確かめるのに、行儀を気にしていては仕事になりません。



 舌の上で、それはゆっくりと広がりました。


 ……ああ。


 私は、目を閉じました。母の台所の匂いがいたしました。

 窯の前で焦げたパンを抱えた、あのパン屋のご主人の手のひらの熱がいたしました。

 三十七分かけて焼いた卵の、はじめの一口がいたしました。


 誰かが誰かのために作った、数え切れないほどの一皿の、いちばん最後に残った縁の一滴。


「……エリアナ。どうした」

「陛下」


 私は目を開けました。頬が濡れておりましたので、扇で隠しました。


「この皿たちは、みんな美味しかったのですわ」


 誰も、何も言いませんでした。


「割られたのは、不味かったからではございません。……食べ終わったからですのよ。ちゃんと、最後まで召し上がっていただいた証ですわ」


 私は割れた欠片を、そっと山へ戻しました。


「……ですから、なおのこと腹が立ちますの」



 私は、皿の山にいちばん近い平らな場所を選びました。


「ハンスさん。炭を」

「……ここでですかい」

「ええ。ここでですわ」


 竈を組むのに、四半刻かかりました。

 持ってきた水を張り、屑野菜の切れ端を落とし、塩をひとつまみ。何の変哲もない、旅の途中の汁物ですわ。


 湯気が立った瞬間、白の中の空気が、わずかに動きました。


「エリアナ様。……何を」

「ご挨拶ですの、セリーナさん」


 私は鍋を火から下ろし、椀に注ぎ分けました。七人ぶん。

 それから最後の一杯を、いちばん古そうな皿の山の裾へ、そっと置きました。


「割れた皆様に。……ずいぶんお待たせいたしましたわね」


 供えた椀から、湯気が細く立ち上ります。

 白の中で、それだけが動いておりました。ミラベル様が鼻をすすりました。ヴィクトリア様が声を上げて泣きました。

 ラグエルは、両手で顔を覆ったまま動きませんでした。この方は千年、下げるほうの側におられましたもの。



 顔を上げたとき、遠くに湯気が見えました。白の彼方。皿の山を越えた向こう側。

 立ち上っているのは、どこまでも真っ白な、けれど確かに温かい湯気。


 私はそれを見て、鉄のフライパンを構え直しました。

 私の胃が、正直に鳴りました。……ええ。悔しいことに、あの湯気は、いい匂いがいたしましたの。

本日もお運びくださって、ありがとうございます。

恐ろしい場所を書くとき、わたくしはいつも「片付けが雑」から入りますの。悪意より不作法のほうが、ずっと肌に刺さりますでしょう。

割れた皿の縁の一滴が、誰かが誰かのために作ったものの最後だった――ここは、この部でいちばん書きたかった場面のひとつですわ。

次回、陛下の右腕について、正面から向き合います。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。