第64話 陛下の右腕に、道案内をしていただきますわ
出発の朝、桟橋に並んだ顔ぶれを見て、私は思わず笑ってしまいました。
氷の皇帝。眼鏡の侍女長。四十年の料理長。焦げた翼の給仕長。翼を失った元・女神。パン屋の二階に住む元・世界喰らい。
そして、鎖こそ外れているものの、両脇を騎士に挟まれた元・王太子。
「セリーナさん。これ、なんの一団に見えますかしら」
「……賊でございますね」
「ええ。私もそう思いましたわ。おーっほっほっほ!」
船は西へ向かいました。
ゼフィロス様が右腕の包帯を半分だけ解き、舳先に立たれます。
漏れ出す黒い光は、もはや暴れません。細く伸びて、海の上をまっすぐ西へ指しております。まるで、匂いを嗅ぎ当てた犬のように。
「陛下。……お加減は」
「悪くない。むしろ静かだ」
「静か」
「この十年、この腕は常に叫んでいた。……今は、歩いている」
私は舳先の手すりに寄りかかり、その黒い糸を見つめました。
虚無というものを、私はずっと「奪う力」だと思っておりました。
けれど、器を空にするのは片付けの仕事ですわ。片付ける者は、必ず流し場の場所を知っております。
「陛下。この糸は、どこへ向かっておりますの」
「わからん。……だが、足が覚えている」
船は帝国の外洋艦を三隻。うち一隻は丸ごと厨房でございます。
これは私の我儘ではございません。行き先が厨房である以上、こちらも厨房を持っていくのが筋というものですわ。竈を六つ据えました。薪と炭を船倉いっぱいに積みました。水も塩も粉も卵も乳も、整えられる前の在庫をかき集めて詰め込みました。
ハンスさんは出航の前夜まで倉に籠もり、樽の一つ一つに鼻を突っ込んで確かめておりました。整えられた食材が一樽でも混ざれば、向こうに手の内を読まれますもの。
もう一隻には、二十日後の朝に備えた書状の控えを積んでございます。四万通ぶんの返事の写し。
なぜ持っていくのかとセリーナさんに問われました。私はこう答えましたわ。
「お守りですの」
◇
三日目の朝、海の色が変わりました。群青が薄くなり、乳白に濁り、やがて水そのものが粘り始めます。櫂が重い。波が立たない。
ハンスさんが舷側から桶で汲み上げ、指をつけて舐めました。
「……こりゃあ、出汁だ」
「まあ」
「魚と、藻と、貝と。……この海の全部が、煮出されてやがる」
私も舐めました。
濃い。舌が痺れるほどに濃い。そして、上澄みが澄んでおります。
「……灰汁を、取られておりますわね」
背後で、ジュリアン様が舷側に手をついておりました。
この方は船に乗ってから一度も喋っておりません。ただ、時々こうして海を見下ろしております。
「ジュリアン様。お味は」
「……泥だ」
「他には」
「……ない。いつもの泥だ」
私は頷きました。この方の答えが変わらないうちは、まだ大丈夫ですわ。
変わったときが、危ないのです。
◇
五日目の夜、ヴィクトリア様が私の船室へ来られました。寝台の端に腰かけ、少女は膝を抱えて足をぶらぶらさせております。
「ねえ、エリアナ」
「はい」
「あたし、天界にいたとき、地上のこと何だと思ってたかわかる?」
「さあ」
「材料よ」
ランプの火が、少女の横顔で揺れました。
「わたしたち神は、地上から満足を集めて、それを調律して、完璧にしていた。……あれ、下ごしらえだったのね。誰かに出すための」
「ええ」
「あたしね。ずっと、いちばん上の料理人だと思ってたの」
少女が、膝に顔を埋めました。
「洗い場の子だったのよ」
私は、その背中に毛布をかけました。
声をかけるべき言葉が見つかりません。この方の千年に、私は何ひとつ持ち合わせがございませんもの。ただ、一つだけ申し上げました。
「ヴィクトリア様。……洗い場の子は、厨房でいちばん最初に、味見を覚えますのよ」
少女が顔を上げました。
「……そうなの?」
「ええ。誰も見ていないところで、鍋の縁を舐めますの。……私もそうでしたわ」
◇
六日目。ラグエルが甲板で吐きました。
神が船酔いをするとは思いませんでしたわ。もっとも、この方はもう神の使いではございません。天界を捨てた時点で、ただの翼の焦げた男ですもの。
「……笑うな、人間」
「笑っておりませんわ」
「顔が笑っている」
「まあ。おーっほっほっほ! 仕方ございませんわね。給仕長ともあろう方が、盆の上で酔うなんて」
私は生姜を擂って湯に落とし、蜂蜜を垂らして差し出しました。
男は睨みながら受け取り、一息に飲み干して、それからぼそりと言いました。
「……これは、何だ」
「酔い覚ましですわ。効きます」
「なぜ、私に」
「船に乗せた者を吐かせたままにするのは、宿の主人として恥ですわ」
ラグエルは、しばらく空の椀を見つめておりました。
「……千年、私は誰にも何も出されたことがない。運ぶ側だったからな」
「では、これが最初ですわね。おめでとうございます」
七日目。
船が、止まりました。櫂は動いております。帆も張っております。それでも進みません。
舳先の先で、海が終わっておりました。崖ではございません。滝でもございません。
海面が、そこでぷつりと途切れて、そこから先が――白いのです。
水平線ではございません。もっと近い。手が届きそうなほど近くに、白い壁が立っております。
いいえ、壁ですらない。
高さも、遠さも、素材も分からない。ただ「何も置かれていない」ということだけが分かる、大きな白。
「……天井と、同じ色」
ヴィクトリア様が呟きました。
「ええ。……こちらは、縁ですわね」
私は鉄のフライパンを握り直しました。
柄の焦げ跡が、掌に食い込みます。
ゼフィロス様の右腕から伸びた黒い糸は、迷いなくその白の中へ吸い込まれておりました。
「陛下」
「ああ」
「お腹は、空いていらっしゃいます?」
「……この十年で、いちばん空いている」
白の手前で、私は皆を集めました。ここから先は帰れる保証がございません。残る者は船で待てとも申しました。
誰も残りませんでした。ジュリアン様でさえ、騎士の手を振り払って自分の足で舷側へ歩いてこられましたの。
「意外ですわね。あなたは真っ先に残ると思っておりましたのに」
「……塔と、大差あるまい」
「まあ。それが理由ですの」
「理由など要らん。……行くと言っている」
私は少しだけ考えて、それから頷きました。
使うと決めた素材に、動機を求めるのは無粋ですもの。私は、船縁に足をかけました。
「では、参りましょう。おーっほっほっほ! 厨房の場所は、空腹がいちばんよく知っておりますもの」
お読みくださり、ありがとうございます。
道中回は、目的地よりも顔ぶれのほうが大事だと思っておりまして、桟橋に並ぶところから書きました。皇帝と料理長と元・女神と元・王太子。賊ですわね。
ヴィクトリア様を洗い場の子にしたのは、書きながら決めましたの。千年いちばん上だと思っていた方の落とし場所として、これ以上のものが思いつきませんでしたわ。
次回、縁の外側へ出ます。見えるものは、あまり気持ちのよいものではございません。
※桟橋の「賊」の一団で笑ってしまった方は、ブックマークと評価を一皿。船倉の薪代に充てさせていただきますわ。




