第63話 あなたの舌にだけは、届いておりませんのね
北端の塔は、風の音しかしない場所でした。帝国が王国の生き残りを閉じ込めるために建てた石だけの塔。窓は一つきり。看守は三名。囚人は一名。
「エリアナ。……私が行く」
「いいえ、陛下」
「あの男を見るお前の顔を、私は見たくない」
階段の途中で、ゼフィロス様が私の腕を掴まれました。左手です。力が強い。
「陛下。私、あの方の顔を見に来たのではございませんわ。……舌を見に来たのですの」
最下層の扉が開かれました。
鎖に繋がれた男が壁にもたれて座っております。伸びきった髪。落ちくぼんだ頬。ひび割れた陶器のような肌は四か月前と変わっておりません。
「……ああ」
ジュリアン様は、顔を上げてこう仰いました。
「久しぶりだな、エリアナ。……何か用か」
私は少し驚きました。
縋りもせず喚きもせず呪いもしない。四か月前の絶叫が嘘のようですわ。
「ずいぶんと落ち着いていらっしゃいますのね」
「喚いても飯の味が変わらんとわかった。それだけだ」
私は看守に頼んで、粥を一杯運ばせました。
この塔で毎日出されている、なんの変哲もない麦粥ですわ。
「召し上がって」
「毒か」
「毒でしたら、もっと美味しく作りますわ」
男は無言で匙を取り、口へ運びました。三口。それから匙を置きます。
「……変わらん。泥の味だ」
私は静かに息を吸いました。
このひと月足らずで、世界中の食材から雑味が抜かれていきました。塩からは海が抜け、葡萄からは渋みが抜けた。誰の舌にも整えられた味が確実に届いております。
その大がかりな下ごしらえが、この男の舌にだけは、一滴も届いておりません。
「ジュリアン様。……その泥の味は、いつからですの」
「お前が出ていった夜からだ」
「四か月前からでも、木ベラを手放した日からでもなく」
「ずっとだ。ずっと同じ味だ。何ひとつ変わらん」
私は、粥の器を手に取りました。
この方の舌は四か月前に壊れました。私の祝福が、悪意を持つ者に「永遠に失った幸福」を思い出させたからですわ。
壊れた舌は上からの下味を受け付けない。
整えようとしても、この方の口の中では何もかもが等しく泥になる。
「……あなたの舌にだけは、届いておりませんのね」
「何の話だ」
「世界の話ですわ」
私は腰の鉄のフライパンを外し、床に置きました。
「ジュリアン様。一つ、お願いがございますの」
「……願いだと。お前が、私に」
「ええ。おーっほっほっほ! 可笑しいでしょう? 私も可笑しいですわ」
男の目が細くなりました。
「あなたには、これから起きることの中で、たった一つの役目がございますの。……お渡しするものを、噛んでいただきたいのです」
「噛む」
「そう。飲み込まなくて結構。口に入れて、味がするかどうかだけ教えてくださればよろしいの」
私は懐から布包みを取り出しました。
中身はあのパン屋の焦げたパンの欠片。奥様のことを思い浮かべて捏ねられた、下手くそな一切れ。男はそれを見つめました。長いこと。
「……なぜ、私なのだ」
「壊れているからですわ」
私は隠す言い方を選びませんでした。この方に情けをかけると話が長くなりますもの。
「世界中の舌が上から整えられております。整えられた舌には、整えられていないものが不味く感じられますの。……ですけれど、あなたの舌はもう壊れておりますから上からの手が届きませんわ。あなたにだけは、どちらも同じ泥ですのよ」
「……つまり」
「あなたは、世界でただ一人、味付けを疑える方ですわ」
沈黙が、長く続きました。やがてジュリアン様は震える手でパンの欠片をつまみ上げ、口に入れました。
噛みます。ゆっくりと。何度も。
「……泥だ」
私は頷きました。
「それでよろしいのですわ。……では、次はこちらを」
私はもう一つ包みを出しました。今朝、帝都で買ってきた整えられた小麦のパン。男はそれも噛みました。そして初めて眉を寄せたのです。
「……こっちは」
「はい」
「……こっちは、泥ですらないな」
塔の中の空気が変わりました。
「泥は泥の味がする。だが、これは何もない。……噛んでいる感触だけがあって、あとは何もない」
私は器を置き、深く息を吐きました。
四か月前に私はこの男へ「味のしない泥を噛み締めて生きなさい」と申し上げました。その罰がいま、世界でいちばん正確な物差しになっております。
「ジュリアン様」
「……何だ」
「あなたを、お連れいたしますわ」
ただし、その前に一悶着ございました。
「反対でございます」
塔の階段でセリーナさんが立ち塞がりました。腰の鋼線に指をかけたまま。この方がここまで露骨に感情を出すのは初めてですわ。
「お嬢様。あの男が何をしたか。私は忘れておりません」
「私も忘れておりませんわ」
「では、なぜ」
「忘れていないから連れていくのですわ」
私は彼女の前に立ちました。灯りが揺れて、二人の影が壁で長く伸びます。
「セリーナさん。あの方が壊れているのは、私が壊したからですの。……四か月前、私が自分の手で舌を焼きました。あれは断罪でしたし、後悔もしておりません」
「はい」
「ですけれど、壊した以上、私はあの舌の持ち主ですわ。……使わずに塔へ置いておくほうが、よほど無責任ですのよ」
セリーナさんが、しばらく黙りました。それから鋼線から指を離しました。
「……食材を捨てない、と仰るのですね」
「ええ」
「腐っておりますが」
「腐った素材ほど、火の通り方でよく分かりますのよ」
ゼフィロス様は、階段の上から一言だけ仰いました。
「私は反対しない。……ただし、あの男が二歩でもお前に近づいたら、私は皿ごと消す」
「二歩は狭すぎますわ、陛下」
「一歩に負けてやってもよいぞ」
鎖を外させたとき、男は少しだけ笑いました。
「……許されたわけではないのだろうな」
「当然ですわ。おーっほっほっほ! 私、あなたを許す気は、金輪際ございませんの」
「そうか」
「ええ。ですけれど、使い道がございましたの。……料理人は、使える素材を捨てませんのよ」
男は、答えませんでした。
ただ、四か月ぶりに立ち上がったその足は思っていたよりもしっかりしておりました。塔を出るとき、この方は一度だけ空を見上げて、目を細めました。
四か月ぶりの陽の光です。眩しかったのでしょう。
私は何も申し上げませんでした。眩しいと感じられるだけ、あなたの目はまだ壊れていないのですわね、とは。
今日もお付き合いくださって、ありがとうございますわ。
罰として与えたものが、四か月後にいちばん役に立つ道具になる。この転がし方をやってみたくて、第35話でわざわざ殺さずに閉じ込めておいたのですわ。
許してはおりません。使うだけです。エリアナ様はそういう方ですもの。
次回、世界の縁へ向かいます。陛下の右腕が、そこで妙な反応を始めますの。




