第62話 ミラベル様、おままごとの砂場を掘り返しますわよ
ガストロノミアの朝は、焼きたてのパンの匂いから始まります。
かつて白銀の牢獄と呼ばれ、味のない完璧な料理だけが並んでいたこの街は、四か月でずいぶん賑やかになりました。露店が並び、値段の言い争いが飛び交い、子供が焼き菓子を落として泣いております。
実にけっこうですわ。市場というものは、こうでなくては。
「エリアナ様。……その、あの子、本当にここに」
「ええ。手紙をいただきましたのよ。『働いてます』とだけ」
案内された先は、街外れのパン屋でした。
その二階の窓から、粉まみれの小さな顔がひょいと出てまいります。
「……げっ」
「まあ。開口一番それですの、ミラベル様」
ミラベル様は、店の裏の樽に腰かけて足をぶらぶらさせておりました。
かつて神の心臓を運用し、世界を飲み込む器へと変貌した女。今は前掛けをして、爪の間に生地を詰まらせた十四、五の少女にしか見えません。
「……あたし、もう悪いことしてないわよ」
「存じておりますわ」
「じゃあ何しに来たの」
「掘り返していただきたいものがございますの」
少女の足が、ぴたりと止まりました。
「地下迷宮ですわ。神の心臓が据えられていた、あの部屋」
「……あそこ、崩れたじゃない」
「ええ。ですから、掘り返すと申し上げましたの」
ミラベル様は長いこと私を睨んでおりました。それから、ふん、と鼻を鳴らして樽から飛び降ります。
「……手伝ってあげてもいいけど。条件があるわ」
「どうぞ」
「あんたのタルト。あの、戴冠式のとき食べたやつ」
「まあ。……よろしくてよ。ただし焼けるのは、以前の五分の一の味ですわ」
「知ってる。……あんた、弱くなったって顔に書いてあるもの」
この方は、案外よく人を見ておられます。
◇
地下迷宮の跡は、瓦礫の下でひんやりと湿っておりました。
ハンスさんとゼフィロス様が石をどけ、セリーナさんが灯りを掲げます。ミラベル様は迷いなく先頭を歩きました。この方はここで千年、神の心臓の番をしていたのですもの。
「……この下」
「ええ、ミラベル様。何かございましたのね」
「心臓を据えるとき、床に細工をしたのよ。あたしじゃない。あたしが来る前から、そこにあった」
瓦礫をどけると、床石が現れました。
円形です。直径は、大人が両腕を広げたほど。表面には、細い溝が幾重にも走っております。私は膝をつき、指でその溝をなぞりました。ぐるり。ぐるり。中心へ向かって、渦を巻いております。
「……セリーナさん」
「はい」
「地図をお出しになって」
彼女が広げた大陸の地図には、百三十枚の木札から引いた渦の糸が張られております。
私は、それを床石の上へそっと重ねました。二つの渦が、寸分たがわず重なりました。
「……同じ形ですわね」
誰も答えませんでした。灯りの油が爆ぜる音だけが、地下に響きます。
「ミラベル様。この石は、何のためのものだとお思いになって」
「知らないわよ。……ただ、心臓はいつもこの上に置かれてた」
「置かれていた。……ええ。置かれていたのですわ」
私は立ち上がり、床石の縁を靴の先でなぞりました。円い。縁が少しだけ高い。中心に向かって、ごくわずかに窪んでいる。
溝は、汁を集めるためのもの。
「陛下」
「……言うな」
「申し上げますわ。これ、お皿ですのよ」
ゼフィロス様の右腕が、包帯の下で鳴りました。
「大陸に描かれた渦と、この石の溝が同じ形。……つまり、あちらの渦も同じものですわ。世界そのものが、この形に盛られておりますの」
そのとき、ゼフィロス様が床石の上へ足を踏み出されました。
瞬間。
包帯の下から漏れた黒い光が、石の溝へ吸い込まれるように流れ込みました。
「陛下!」
「……動くな。痛みはない」
陛下は片膝をつき、右腕を溝へ近づけられました。
黒い光は迷いなく渦をたどり、中心の窪みへ集まっていきます。まるで、そこに戻る場所があるかのように。
「……エリアナ。私の腕は、この石を知っている」
「まさか」
「十年前、あの神を握り潰した夜。あの感触が、指の先に戻ってきた」
私は陛下の隣に膝をつき、その黒い流れを見つめました。虚無は器を空にする力ですわ。空にする者は、必ず皿の場所を知っております。
この方の右腕は、呪いでも武器でもなく――帰る道を覚えている案内人ですのよ。
「陛下。……お腹が空いたとき、足はどこへ向かいます?」
「……厨房だな」
「ええ。ですから、あなたの右腕についてまいれば、私たちも辿り着けますわ」
「エリアナ様」
ミラベル様が、私の袖を掴みました。声が震えております。
「あたし、千年ここにいたのよ。……千年、あの心臓に餌をやってた。世界中から満足を集めて、心臓に食べさせて」
「ええ」
「あれ、育ててたんだと思ってた。神様を育ててるんだって」
少女の顔が、くしゃりと歪みました。
「……違うのね。あたし、味付けしてたのね」
私は、その粉まみれの頭に手を置きました。
叱る言葉も、慰める言葉も持ち合わせておりません。この方の千年を、私の四か月で埋められるはずがございませんもの。
ですから、代わりにこう申し上げました。
「ミラベル様。タルトを焼く約束でしたわね」
「……こんなときに」
「こんなときですからよ。おーっほっほっほ! 落ち込んだ料理人には、他人の焼いたものを食べさせるに限りますわ」
◇
地上へ戻る階段で、ミラベル様がぽつりと仰いました。
「ねえ。あの床、いつからあったと思う」
「さあ。千年より前でございましょうね」
「もっとよ。……あたしがここに来たとき、もう溝の底がすり減ってた」
少女は指で、自分の掌をこすりました。
「使い込まれてたの。何度も何度も、盛り付けられて、下げられて。……ねえエリアナ様。あの皿、あたしたちが最初の中身だと思う?」
私は答えませんでした。
答えは、たぶん、いいえですもの。
その晩、ガストロノミアの広場でタルトを焼きました。五分の一の味です。以前を知っている者には、はっきりと物足りないはずですわ。
それでもミラベル様は、二切れ食べて、三切れ目に手を伸ばしてから、私を見上げてこう仰いました。
「……ねえ。前より、あんたの味がする」
私はしばらく、返事ができませんでした。
五分の一になった腕で焼いたものを、この方はそう仰るのですわ。
……ええ。今夜だけは、素直に受け取っておきますわ。
最後までお読みくださって、ありがとうございます。
ミラベル様は敵役の中でいちばん救いを書きやすい方でしたので、パン屋の二階に住まわせました。千年の仕事が味付けだったと知る瞬間だけは、どうしても書いておきたかったのですわ。
床の溝と大陸の渦が重なる場面。ここは第57話の地図から仕込んでおりました。
次回、いちばん気の進まない訪問先へ参ります。北端の塔ですわ。
※ミラベル様の三切れ目に、にやりとなさった方は、ブックマークと評価をひとつ。五分の一のタルトの、粉代にいたしますの。




