第61話 帝国じゅうの料理人に、鍋を振っていただきますわ
結論から申し上げますわ。まるで足りません。
三日かけて、私は試せることを全部試しました。
一人で振る。二人で支える。祝福を絞る。逆に大きく広げる。木ベラの持ち方を鉄の柄で真似てもみました。
できたのは、鍋一つぶんの奇跡までですの。
「お嬢様。……本日で四十二鍋目でございます」
「まあ。もうそんなに」
「厨房の床が、脂で滑ります」
セリーナさんが濡れ布巾を絞りながら、恨みがましい目を向けてまいります。この方は三日間、私に付き合って一睡もしておられません。
私は湯気の立つ鍋を見下ろしました。
中身は、ただの澄んだスープです。私の祝福は確かに宿っております。飲んだ者は元気になりますし、傷も塞がるでしょう。
けれど、鍋一つぶん。
世界の下味を洗い落とすには、大陸をまるごと煮込める火が要りますのよ。
「陛下。……お知恵を拝借してもよろしくて」
厨房の入口に立って腕を組んでおられたゼフィロス様が、片眉を上げられました。
「言え」
「私の祝福は、以前の五分の一ほどですの。……足りない分を、どこかから借りてこられませんかしら」
「私の虚無を使え。何度でも言うが」
「それは足し算ではございませんわ。引き算ですもの」
陛下が不服そうに鼻を鳴らされました。この方は、ご自分の力で解決できない場面を心底嫌っておられます。
◇
その夜、私は厨房の床に座り込んでおりました。四十二の空鍋。冷えた竈。窓の外は、月のない晩。
膝を抱えて、私はぼんやりと考えておりました。
――五分の一。
では、残りの五分の四は、どこへ行ったのかしら。
私はずっと、木ベラが力を「持っていた」のだと思っておりました。あの一本が失われたから、私は弱くなったのだと。
けれど、リヴィア様の走り書きにはこうございました。『皿の側に、道具を一本だけ渡しておくために』。
道具、ですわ。
力そのものではなく、道具。
鋏は布を切りますけれど、鋏が布を欲しがるわけではございませんわね。切りたいと思っているのは、いつも持ち手のほうですわ。
「……あら」
私は顔を上げました。あの木ベラは、私の祈りを増やしていたのではございません。
束ねていたのですわ。私一人ぶんの、細い願いを。
◇
翌朝、私は帝国じゅうの料理人へ書状を出しました。宮廷料理人だけではございません。街のパン屋、屋台の煮売り、宿の賄い、軍の炊事番。
文面はたった三行ですわ。
『二十日後の朝、いっせいに鍋を振ってくださいまし。
献立は問いません。腕前も問いません。
どうか、誰か一人の顔を思い浮かべながら作ってくださいませ。
美食皇妃 エリアナ・ヴェスタ』
「……お嬢様。正気でございますか」
「ええ。至って」
「なぜ二十日後なのでございます」
「渦ですわ」
私は地図の糸を指しました。西の端から始まって、内へ内へ。木札が帝都へ寄ってくる速さは、この五日で測れております。
「あの渦が中心へ届くのが、早くて二十日後。……それより前では、まだ足りませんの。それより後では、間に合いませんわ」
「腕前を問わないとは、どういう」
「問う必要がございませんの。……セリーナさん。私の祝福が何から生まれるか、覚えていらして?」
彼女が眼鏡を押し上げました。三日ぶりに、きちんと拭かれた眼鏡です。
「……『誰かを温めたい』という祈り、でございますね」
「そのとおりですわ。おーっほっほっほ! であれば、私の祈りである必要は、どこにもございませんでしょう?」
◇
その日の昼、帝都の裏通りのパン屋で、実験をいたしました。
主人は五十がらみの、無口な男でした。上手ではございません。窯の癖を読み違えて、下側を焦がす方ですわ。
私はその方の隣に立ち、鉄のフライパンを持って、こう申しました。
「奥様のことを、思い浮かべながら捏ねてくださいまし」
「……かかあは、三年前に死にましたが」
「では、なおよろしゅうございますわ」
男は怪訝な顔をして、それでも黙って生地を捏ね始めました。
窯へ入れて、四半刻。焼き上がったパンは、やはり下側が焦げておりました。
けれど。
私が鉄のフライパンをその上にかざした瞬間、掌に熱が返ってまいりました。
私が出したものではございません。この、焦げたパンの側から。
「……ああ」
声が、漏れました。細い。ほんとうに細い。私の五分の一のさらに百分の一ほど。
けれど確かに、そこに祝福がございました。三年前に亡くなった奥様へ向けられた、この不器用な男の願いが。
「ご主人。このパン、いただいてよろしくて」
「……焦げてますが」
「ええ。焦げているのが、よろしいのですわ」
私は帝国の皇妃として、路地裏で焦げたパンを両手で抱えて泣きました。
セリーナさんが慌てて日傘を差しかけてくださいましたけれど、隠す必要などございませんの。
その晩、離宮の議場で反対が出ました。
「恐れながら皇妃殿下。素人の鍋に何ができましょうか」
声を上げたのは、宮内府の長でございました。悪い方ではございません。ただ、数を数えるのが仕事の方ですわ。
「一人ぶんが百分の一とすれば、四万人でもたかだか四百人ぶん。……殿下おひとりの祝福には、遠く及びません」
「ええ。算術としては、そのとおりですわ」
「では」
「ですけれど、あなた。お砂糖を四百粒お渡ししたら、菓子が焼けまして?」
長が、言葉に詰まりました。
「焼けませんわね。粉も卵も火も要ります。……料理というのは、足し算ではございませんの。掛け合わせて、初めて別のものになりますのよ」
私は卓に、あの焦げたパンを置きました。
「それに、この方たちは砂糖ではございませんわ。四万人が四万人とも、別の誰かの顔を思い浮かべますの。……向こうの厨房が世界中の味を均そうとしているのなら、こちらが並べるのは、揃わないものでなくてはなりません」
ハンスさんが、腕を組んだまま低く笑いました。
「聞いたか、旦那がた。……揃わねえのが、こっちの武器だとよ」
書状は四万通。二十日のうちに行き渡らせなくてはなりません。
伝令は間に合いません。ですからセリーナさんは、宿場の掲示板と、市場の触れ役と、行商の荷馬車に頼りました。文面が短いのは、そのためでもございますの。書き写すのが楽ですもの。
三日後には、返事が届き始めました。
『献立は問わぬとのことですが、本当に麦粥でよろしいので』
『うちのは焦げます。それでも構いませんか』
『女房と喧嘩中です。誰を思い浮かべればよろしいか』
私は、その一通一通に返事を書きました。よろしいですわ。構いませんわ。喧嘩中の相手でも、いっこうに構いませんの。
四万通のうち、断りは八通だけでございました。八通とも、すでに鍋を振れぬほど病んでいる方からのお詫びでしたわ。
二十日後。この国には、四万人の料理人がおります。
今回もお付き合いいただき、ありがとうございます。
主人公がチートを失ったあと、代わりに何を手に入れるか。ここは何度も書き直しました。結局いちばん腑に落ちたのが、下手なパン屋の焦げたパンでしたの。
奥様のことを思い浮かべて捏ねてくださった、あの生地の熱。
次回、ガストロノミアへ。少女の姿のあの方に、掘り返していただきたいものがございますの。




