第60話 この世界は、どなたかの晩餐に出される一皿でした
黒の離宮の大広間に、長い食卓を一つだけ据えさせました。
白い卓布。銀の燭台。着席したのは十二名。ゼフィロス様とセリーナさんとハンスさん。帝国の重臣が七名。そして天から落ちてきた二人。
卓の上には、料理がございません。小皿が四つ並んでいるだけですわ。
「本日はお集まりいただき、ありがとうございますわ」
私は上座には座りませんでした。皿の並ぶ側、給仕の立つ位置に立っております。
「これから申し上げることには証拠が四つございます。順に召し上がっていただきますわ。……信じてくださらなくて結構。舌が信じてくだされば十分ですの」
一皿目。西の港の塩。
「しょっぱいだけの塩ですわ。海の匂いが抜けております。汲んだ人の汗の気配も残っておりません。世界中の食材が、今この形になりつつありますの」
重臣の一人が舐め、顔をしかめました。
「二皿目。こちらは順番ですわ」
私は地図を卓に広げました。糸で描かれた渦。四十七枚だった木札は、今朝で百三十枚になっております。
「西の端から始まって、内へ内へ。渦の中心は、この帝都。……火の消えた大釜の底ですの」
「三皿目」
私は、ラグエルへ視線を送りました。焦げた翼の給仕長が、渋々と立ち上がります。
「……天界の神糧が、完璧になった。食った神から順に、何も欲しがらなくなった。……そして我らは千年のあいだ、誰が盆を運び誰が器を下げていたのかを知らん」
広間がざわめきました。ヴィクトリア様が、その上に小さな声を重ねます。
「天界の上に、天井があったわ。……何も置かれていない大きなお盆の色をしていたの」
「四皿目。これが最後ですわ」
私は、勝手口の下から掘り出した紙束を卓に置きました。
「初代美食聖女リヴィアは、こう書き遺しました。『わたしは、あの厨房から匙を一本盗んで逃げた』」
私は紙を一枚ずつ、卓の上へ滑らせていきます。六代ぶんの筆跡が、白い卓布の上に並びました。
「そして代々の持ち主が、同じ一文を書き継いでおります。『使い切ったら必ず火にくべること』。……私は半月前にそれをいたしましたの」
誰も、口を挟みませんでした。
「以上、四皿ですわ。……では、召し上がったものをまとめて差し上げます」
私は扇を広げました。今夜だけは、この扇の内側で震えていることを許していただきますわ。
「食材の下味を整えるのは、盛り付ける直前ですの。
外側から順に手をつけるのは、冷めやすいものを後に回すからですわ。
運ぶ者と下げる者がいる場所を、厨房とは申しません。
そして、匙を火にくべるのは――ごちそうさまの合図ですのよ」
燭台の火が、一斉に細くなりました。
「皆様。この世界は、どなたかの晩餐に出される一皿でしたの」
最初に立ち上がったのは、ラグエルでした。
「馬鹿を言うな! 我らは天上の存在だぞ! 地上を統べ律し裁く側だ! その我らが皿の上の……ッ」
言葉が、そこで途切れました。
この方は千年のあいだ、盆を運ぶ者の顔を見たことがない。それを今になって思い出したのですわ。
「……我らも、盛り付けだったというのか」
「ええ。しかも真ん中ではございませんわね。天界は、たぶん上に載せる飾りですの」
重臣の一人が椅子から崩れ落ちました。誰かが水差しを倒し、卓布に染みが広がっていきます。その混乱の中で、ただ一人、手を挙げた方がおりました。ハンスさんです。
「エリアナ様。……食材の側から、料理人に文句を言えるもんですかね」
「言えませんわね。普通は」
「でしょうな」
この方は、四十年ぶん皺の寄った太い指で、卓の木目を撫でました。俎板を確かめるときと、同じ手つきで。
「ですが、俺は四十年、素材に叱られ続けてきました。火が強い、切り方が雑だ、待ちが足りない、とね。……声は出さねえが、あいつらは必ず、皿の上で答えを返してきやがる」
彼は顔を上げ、私を真っ直ぐに見ました。
「なら、こっちも同じでさ。……不味けりゃ、突き返せばいい」
私は、しばらく言葉が出ませんでした。
四十年の料理人が、いま、世界でいちばん短い戦術を口にしましたのよ。
「……ハンスさん。貴方、後で厨房長の任を解きますわ」
「は?」
「作戦参謀に昇進ですの。おーっほっほっほ!」
「……エリアナ」
その騒ぎを断ち切ったのは、ゼフィロス様の低い声でした。
「私が殺した神は、何だった」
広間が、水を打ったように静まりました。
「陛下。それを申し上げる前に、一つだけ伺わせてくださいまし。……あの神は、この世界から何を奪おうとしておりましたの?」
「……すべてだ。記憶も形も味も。触れたものを無に還した」
「無に還す。……ええ、そうですわね」
私は、陛下の包帯を巻いた右腕を見つめました。
「陛下。食べ終えた器を、下げる前にどういたします?」
陛下の瞳が、大きく見開かれました。
「……空にする」
その一言で、広間の誰もが理解いたしました。
ゼフィロス様が十年前に握り潰したのは、神ではございません。私たちの世界を空にしに来た、給仕の手ですわ。
だから彼の右腕は、今も無を生み続けている。あれは呪いではございません。途中で折れた仕事の続きですのよ。
「……エリアナ。私は」
「陛下」
私は歩み寄り、その包帯の上へ両手を重ねました。
「十年前、貴方は皿を割られる寸前で、給仕の手首を掴んだのですわ。……お手柄でしてよ。おかげでこの世界は、十年ぶん長く生きております」
「さて、皆様」
私は卓の端に立ち、四つの小皿を片付け始めました。
「怖い話は終わりですわ。ここから先は、料理人の話をいたしますの」
私は空になった卓を、掌で軽く叩きました。
「皿の上で待つのは、性に合いませんの。……向こうが下ごしらえを始めているのなら、こちらは仕込みを終えて先にお伺いすればよろしいのですわ」
「エリアナ様。……伺うとはどちらへ」
セリーナさんが、震える声で尋ねました。
私は微笑みました。今度は、ちゃんと形になりましたわ。
「厨房ですわ。おーっほっほっほ! この一皿を仕込んだ料理人へ、直接ご挨拶いたしましょう。……ええ、勝手口から」
◇
その頃、帝国北端の塔の底では。
鎖に繋がれた男が、運ばれた粥を無言で口へ運んでおりました。
この半月で世界中の食材が整えられ、味が均されていきました。けれどこの男の舌にだけは何ひとつ届いておりません。
彼が噛んでいるのは、以前と同じ、味のしない泥。
ジュリアンは空になった器を見下ろし、久しぶりに声を出しました。
「……変わらないな。何も」
世界でただ一人だけ、上からの下味が届かなかった男は、そのことにまだ気づいておりません。
ここまでお読みくださって、ありがとうございますわ。
説明回というのは書き手にとって鬼門ですので、いっそ食卓に並べて召し上がっていただくことにいたしました。舌で分かることは、舌に任せたほうが早いですもの。
陛下の十年が、呪いではなく手柄だったという話も、いつか書きたかったのですわ。
次回から、お伺いする支度を始めます。まずは、鉄のフライパン一本で何ができるのかを確かめませんと。
※ここまでお付き合いくださった方は、ぜひブックマークと評価を。エリアナ様の勝手口訪問に、どうぞご同行くださいませ。




