第59話 初代様の走り書きは、レシピではなく遺言でした
王国だった場所は、いまだに更地のままでした。
私が焼き上げてから、四か月。黄金の粉雪が降り積もったこの土地には、下草が生え、名も知らぬ白い花が咲いております。人はまだ戻っておりません。戻る理由がございませんもの。
「エリアナ。……無理をするな」
馬車を降りた私の肩を、ゼフィロス様が左手で支えてくださいました。
「無理などいたしませんわ。ここはただの空き地ですもの」
「お前が焼いた空き地だ」
「……ええ。ですから、片付けの責任がございますの」
私は歩き出しました。かつて王城があった方角ではございません。その裏手。使用人と荷馬車だけが通っていた、北の外れ。
そこに、石段が三段だけ残っておりました。
厨房の勝手口です。
城も、壁も、床も、私が焼いて消しました。けれどこの三段だけは残っている。焼き残ったのではございません。あの日、私の炎はここを避けたのです。
私が最後に閉めた扉。追放された夜、誰にも見送られずに出ていった場所。
「……お嬢様」
「セリーナさん。掘る道具をくださる?」
「掘る、とは」
「勝手口の下には、必ず何かございますのよ。うちの厨房でもそうでしたわ。料理人は、大事なものを竈の近くには置きませんの。火事で焼けますから」
三段目の石を、ハンスさんが両腕でずらしました。
その下の土は、しっかりと踏み固められておりました。十八年のあいだ、私が毎朝そこを踏んで通ったからですわ。
二尺ほど掘ったところで、鋤の先が硬いものに当たりました。
出てきたのは、油紙で三重に包んだ木箱でした。
中には、綴じ紐の切れた紙束。羊皮紙も、麻紙も、木の皮まで混ざっております。筆跡がまるで違う。時代がまるで違う。
「……代々、書き継がれておりますわね」
一番下の一枚は、もはや文字とも呼べぬほど掠れておりました。それでも読めます。私の木ベラに刻まれていたのと同じ、古い綴りの署名。
リヴィア。
私は指先で、その名をなぞりました。神域大図書館で会ったあの方は、こう仰いましたわ。「今の地上じゃ、私の名前は教典の隅っこに追いやられている」と。
違いましたのね。あなたの名前は、教典ではなく勝手口の下にございました。
「エリアナ。読めるか」
「ええ、陛下。……ですけれど」
私は紙を持つ手が震えるのを、どうにも止められませんでした。
「これ、レシピではございませんわ」
初代美食聖女リヴィアの走り書きは、たった数行でした。
『わたしは、あの厨房から匙を一本盗んで逃げた。
味を作るために盗んだのではない。ひっくり返すために盗んだ。
食卓の主は、皿が自分で味を選ぶことを許さない。
だから匙を持って逃げた。皿の側に、道具を一本だけ渡しておくために』
「……匙」
私は口の中で繰り返しました。木ベラは母の形見でした。母は祖母から受け取りました。その祖母もまた誰かから。
私はそれを、家の道具だと思っておりました。台所の隅で何代も使い込まれた、我が家の匙だと。
違いましたのね。
あれは、盗品でしたのよ。
「陛下。……あの木ベラが『真の食卓をひっくり返すために生まれた』と言ったのは、比喩ではございませんでしたわ」
「盗まれた道具だからか」
「ええ。持ち主にとっては、返してほしい一本ですわね」
紙束を繰る指が止まりませんでした。二枚目。三枚目。筆跡が新しくなっていきます。
どの代の持ち主も、同じことを書いておりました。
『使い切ること。使い切ったら、必ず火にくべること。あれは向こうの道具です。手元にある限り、こちらの居場所が知られます』
同じ文が、六代ぶん繰り返されておりました。そして、一番上の一枚。
他のどれよりも新しい紙。私の、母の筆跡でした。
たった二行でした。
『エリアナへ。
わたしには、火にくべることができませんでした。ごめんなさい』
私は、しばらく声が出ませんでした。
紙の端が、少しだけ焦げておりました。
母は一度、火の前まで持っていったのですわ。持っていって、それでも指が離せなかった。焦げ跡はその一度きり。二度目はございません。
母が亡くなったのは、私が十二の年でした。最後の朝も、あの人は寝台の中で私に木ベラを握らせて、こう仰いました。
『エリアナ。これは、あなたを守ってくれますからね』
嘘ではございませんでした。この十八年、確かにあれは私を守り続けましたわ。
ただ、あの人は続きを言わなかっただけ。守ってくれる代わりに何を差し出すことになるのか、その一行を、書けずに焦がしただけ。
母は知っていたのですわ。この道具が何であるかも、いつか代償が来ることも。
知っていて、それでも娘に渡した。渡すしかなかった。あの人にとってあの木ベラは、盗品である前に、台所で娘を守ってくれる一本でしたもの。
そして私は、半月前に、それを火にくべました。
母の遺言を読まないまま、まったく同じことをいたしましたの。
「……おーっほっほっほ」
笑い声が、うまく出ませんでした。二度目でどうにか形になりました。
「まあ、お母様。六代もかかったものを、娘が勝手に片付けてしまいましたわ。……申し訳ないやら、誇らしいやら」
ゼフィロス様が、私の背に手を回されました。左手です。いつもの、あの左手。
「エリアナ。……なぜ、代々が火にくべろと書いた」
「持っていると居場所が知られるから、と」
「では、くべれば知られぬのか」
私は、その問いに答えられませんでした。
答えは、この半月の出来事が全部教えてくれております。
私が火にくべた日から、大釜の火は消え、世界の下味は整えられ、天界には天井が降りてきた。
――違いますわ。逆ですのよ。
「陛下。……鍋を火から下ろすのは、いつだと思われます?」
「……料理が仕上がったときだろう」
「ええ」
私は、母の紙を胸に抱きました。
「火にくべるというのは、返却ではございませんの。……あれは、『ごちそうさま』の合図でしたのよ」
風が吹いて、更地の白い花が一斉に傾きました。
「六代の皆様は、こう考えたのですわ。手元に置けば居場所が知られる。だから使い切って捨てなさい、と。……その理屈は正しいのですけれど、片側だけですのね」
セリーナさんが眼鏡を押し上げました。
「もう片側は」
「捨てられるということは、もう要らないということですわ。……この匙がなくても立てるようになった、という証明ですの」
私は自分の腰に下げた鉄のフライパンへ手をやりました。柄の焦げ跡が、掌に馴染んでおります。
「向こうから見れば、こうですわ。皿の側が道具を手放した。もう抗う気がない。……いいえ、抗う必要がないほど、仕上がった」
「エリアナ」
「はい、陛下」
「お前は、悔いているのか」
私は、その問いにだけは即座に答えられました。
「まさか。おーっほっほっほ! 私、六代ぶんの誰にもできなかったことを、たった一日でやってのけましたのよ? ……ただ、少しばかり早すぎましたわね。お迎えの支度が、まだですの」
本日もお運びくださって、ありがとうございます。
第35話でエリアナ様が「厨房の勝手口を閉めた」と仰ったあの扉を、いつか掘り返したいとずっと思っておりました。四か月ぶりの再訪が、まさか発掘作業になるとは。
お母様、六代分の宿題をありがとうございます。
次回、集めた材料をぜんぶ並べて、この世界に何が起きているのかを申し上げます。




