第58話 翼を失った女神が、勝手口から訪ねてまいりました
落ちてきたのは、二人でした。
一人は白金の髪の男。四枚あったはずの翼は二枚に減り、残った羽も端から黒く焦げております。神域の給仕長ラグエル。戴冠式の朝、私を虫けらと呼んだ方ですわ。
もう一人は、小柄な少女でした。翼はございません。ぼろぼろの法衣。
「……ヴィクトリア様」
私が名を呼ぶと、少女は広場の石畳に膝をついたまま顔を上げました。かつて十二枚の黄金の翼で天界を統べ、私の一皿に敗れた女神。
あの日と同じ顔ですのに、瞳の中に傲慢は一粒も残っておりませんでした。
「……エリアナ・ヴェスタ」
「ええ。おーっほっほっほ! 随分とお久しぶりですこと。……ですけれど、うちは正門から入っていただく決まりですのよ」
「……ごめんなさい。もう、正門を通れる翼がないの」
私は扇を閉じました。
厨房の隅の作業台に、二人を座らせました。
ラグエルは屈辱に顔を歪めましたが、椅子から立ち上がる力は残っておりませんでした。
「陛下。少しだけお待ちになって」
「……この者どもを、先に喋らせろとは言わんのか」
「言いませんわ。空腹の証言は当てになりませんの」
私は鉄のフライパンを火にかけました。
牛乳は使えません。塩も、葡萄も駄目。整えられていない食材はもう、この城の地下倉にわずかしか残っておりません。
私が選んだのは、去年の秋に漬けた屑野菜の切れ端でした。誰も見ていないところで、私が勝手に仕込んでおいたもの。皮も芯も筋も、捨てるはずのものばかりを塩水に沈めた壺。
鍋に落とすと、酸っぱい匂いが立ちました。
褒められた香りではございません。ですが、この匂いには「誰かの手が入った」痕跡がございます。整えられた食材には、それがございません。
ハンスさんが火を送り、セリーナさんが柄を支えました。もう、言わなくても二人は動きます。
三十七分は、二十二分に縮んでおりました。
「どうぞ。……見た目は悪いですけれど、味は保証いたしますわ」
ラグエルは皿を睨みつけました。それから、震える手で匙を取りました。
一口。
「……っ」
この方の喉が鳴る音を、私は二度目に聞きました。
「……不浄な。……ああ、なんという、騒がしい……」
「まあ。二度目ですのに、まだ語彙が増えませんのね」
「黙れ人間。……もう一杯くれ」
ヴィクトリア様は、匙を持ったまま長いこと動きませんでした。
やがて一口すすり、俯いて、静かに泣き始めました。声は上げませんでした。ただ、皿の中へ涙が落ちて、私のスープの塩加減を勝手に変えていくだけ。
「……塩が濃くなりましてよ」
「……ごめんなさい」
「謝らなくてよろしいの。……お客様の涙で味が変わるのは、料理人にとって最高の褒め言葉ですわ」
二杯目を空にしたラグエルが、匙を置いて口を開きました。
「……天界が、静かになった」
私は続きを待ちました。
「神糧の味が、変わった。いや、変わったのではない。……整った」
「整った」
「一粒たりとも狂いのない、完璧な神糧だ。我らが千年求め続けた理想そのものだ。……あれを口にした神から順に、喋らなくなった」
セリーナさんの手が止まりました。
「喋らなく、とは」
「動くのだ。歩く。祈る。務めを果たす。……だが、何も言わん。腹も減らさん。何も欲しがらん」
ラグエルの焦げた翼が、力なく垂れました。
「私は逃げた。……給仕長の私が、主の食卓から逃げた」
「ラグエルさん。一つ伺ってもよろしくて」
「……何だ」
「その神糧、誰がお作りになりましたの」
男の顔が、そこで初めて止まりました。
「……厨がある。神域の最奥に、誰も入れぬ厨が。神糧はそこから運ばれてくる」
「では、そこで働いている方は」
「……知らん」
「千年、召し上がってこられて?」
「知らんのだ!」
ラグエルが拳を作業台へ打ちつけました。皿が跳ね、匙が転がります。
「毎朝、扉の前に盆が置かれている。誰が置いたかを見た者はおらん。……我らは、それを当然だと思って千年食ってきた」
私は転がった匙を拾い、布で拭いて、そっと彼の前へ戻しました。
「そうですの。……ではもう一つだけ」
私は微笑みました。おそらく、あまり優しくない笑い方で。
「その盆は、下げられておりましたかしら」
「……何を」
「食べ終えた器ですわ。誰が下げていたのかと伺っておりますの」
ラグエルの喉が、ひゅ、と鳴りました。
答えは返ってきませんでした。返ってこないことが、答えでしたわ。料理を運ぶ者がいて、器を下げる者がいる。それは厨房ではございません。
給仕がついている場所を、世間では食卓と呼びますのよ。
ヴィクトリア様が、そこで顔を上げました。泣き腫らした目で、まっすぐに私を見ます。
「エリアナ。……あなたに言わなきゃいけないことがあるの」
「どうぞ」
「天界の上に、天井があったわ」
厨房が、しんと静まりました。
「私、神格を捨ててから初めて上を見たの。神だった頃は見えなかった。……あそこには天井があって、私たちは、その下に並べられているだけだった」
少女の指が、震えながら宙をなぞります。
「順番に整えられているの。まず遠くの世界から。次に地上。今は天界。……ねえ、エリアナ。あなたなら分かるでしょう。これ、何をされているのか」
私は少女の手を取りました。冷たい手でした。神格を失った体は、こんなにも人間と同じ温度になるのですわね。
「ヴィクトリア様。天井は、どのくらいの高さにございました」
「……分からない。近いような気もしたし、遠いような気もした」
「では、色は」
「白かったわ。……ううん、違う。白いんじゃなくて」
少女が言葉を探しました。神だった頃には必要のなかった、地上の言葉を。
「……何も置かれていない、大きなお盆の色」
私の背中を、冷たいものが走りました。
私はそれを、扇を広げて隠しました。もう何度目かしら。この五日で、この扇はずいぶん働いております。
私は答えませんでした。代わりに、鉄のフライパンの柄を握り直しました。
答えは、五日前から私の中にございます。ただ、口にした瞬間にそれが本当になってしまうようで、私はずっと避けておりました。
「陛下」
「言え」
「……お皿の順番ですわ。奥から手前へ。冷めやすいものを後に」
ゼフィロス様の右腕が、包帯の下で大きく脈打ちました。
「……エリアナ。私はこの十年、あの神を殺した意味を考え続けてきた」
「はい」
「今、分かった気がする。……あれは神ではない」
陛下は自らの右手を持ち上げ、包帯越しに見つめられました。
「あれは、皿を運んでいただけだ」
お読みくださり、ありがとうございます。
かつての敵を勝手口から迎えて、まず食べさせる。この作品はずっとそれをやってきたので、女神様にもきちんと並んでいただきました。泣かれると塩加減が狂うのが困りものですけれど。
次回、初代美食聖女が遺した走り書きを読みに行きます。




