第57話 世界中の砂糖が、甘くなりすぎております
黒の離宮の大広間に、大陸の地図を広げました。
その上に、私は木札を置いていきます。小麦が膨らまなかった三軒。実を落とした東の葡萄畑。塩が溶けなくなった南の港。牛乳が分離した北の牧舎。
五日で、木札は四十七枚になりました。
「お嬢様。書記官が音を上げております。時刻まで控えろとは何事かと」
「音を上げるのは結構ですけれど、手は止めないでとお伝えなさい」
「もう三度伝えました」
セリーナさんが新しい札を運んでまいります。私はそれを、地図の上へ置きました。置いた瞬間、指が止まりました。
(……並んで、いる)
四十七枚の木札は、散らばってなどおりませんでした。
最も古い報告は、大陸の西の端。次が少し内側。その次はさらに内側。日付を追うごとに、木札は帝都へ向かって、きれいな輪を狭めながら近づいてきております。
「セリーナさん。この地図に、糸を張ってくださる? 時刻の順に、端から」
「……はい」
糸が張られていきます。ぐるり、ぐるりと。
できあがったのは、渦でした。
「陛下をお呼びして」
ゼフィロス様は、地図を一瞥して眉を寄せられました。
「侵攻の経路か」
「いいえ、陛下。軍の動きなら、道を通りますわ。この線は山も海も無視しております」
「では何だ」
私は答える前に、盆の上の小皿を三つ、陛下の前へ並べました。西の港から取り寄せた塩。東の葡萄。北の牛乳。
「お召し上がりになって」
陛下は塩をひと粒、舌へ乗せられました。
「……しょっぱいな」
「もう一度」
「しょっぱい。……いや」
陛下の眉が、わずかに動きます。
「……しょっぱいだけだ」
「ええ。そこですわ」
私も同じ粒を舐めました。舌の上に広がるのは、強く、正確な、一分の狂いもない塩味。海の匂いはございません。日に焼けた岩の匂いも、汲み上げた人の汗の気配も、何ひとつ残っておりません。
「陛下。この塩は、腐ってはおりませんの。傷んでもおりません。……ただ、余計なものが全部、抜き取られておりますのよ」
葡萄も同じでした。甘い。ただひたすらに甘い。皮の渋みも、種の苦さも、雨に打たれた年の酸っぱさも、丁寧に取り除かれております。
牛乳は、白すぎました。
「ハンスさん。この牛乳でバターを立ててくださる?」
控えていた料理長が無言で泡立て器を取り、銀のボウルへ牛乳を注ぎました。太い腕が回ります。十を数え、五十を数え、百を超えても、ボウルの中身は白いままでした。
「……立ちません」
「ええ。脂が分かれてくれませんの。均一にされておりますから」
「均一? 牛乳が、ですか」
「同じ牛の、同じ日の乳ですのに、一滴残らず同じ味ですのよ。……そんな乳を出す牛は、この世におりませんわ」
ハンスさんが泡立て器を置きました。手が、わずかに震えております。この方は四十年、素材を疑うことだけで生きてこられた職人ですもの。素材が「疑いようもなく正しい」ことの気味悪さは、誰より深く分かっておられる。
「エリアナ様。……これは、うまい飯を作るための手ではありませんな」
「では、何のための手だとお思いになって」
「……出す前の、盛り付けでさ」
私は、その言葉を扇の下で受け止めました。四十年の舌が、私と同じ場所へ着いた。
「世界中の砂糖が、甘くなりすぎておりますの」
私は小皿を置き、両手を作業台に突きました。
「陛下。これは災いではございませんわ。……仕込みですの」
「仕込み」
「素材の雑味を抜いて、味を整えて、輪郭をはっきりさせる。……料理人が、皿へ盛る直前にやることですわ」
広間の空気が、音を立てて冷えました。
セリーナさんの指から札が滑り落ち、床で乾いた音を立てます。
「……エリアナ。今、お前は何と言った」
「誰かが、この世界の下味をつけております」
言葉にしてしまうと、震えが来ました。私はそれを、扇を広げて隠しました。
「おーっほっほっほ! まあ、なんて図々しい。人様の台所へ勝手に上がり込んで、断りもなく塩を振るなんて。……礼儀というものを教えて差し上げなくてはね」
声は震えておりませんでした。上出来ですわ。
「渦の中心は」
「帝都でございます、陛下」
セリーナさんが、床から拾った札を握りしめて答えました。
「正確には、中央広場。……火の消えた、あの大釜の底です」
◇
その夜、私は一人で広場へ降りました。冷えきった大釜の縁に触れます。鉄は、朝と同じ温度でした。
私は釜の底の白い焦げ跡へ、指先を伸ばしました。
八日前まで、ここには黄金の木ベラがございました。私が自分の意思でくべた、母の形見。
あれは燃え尽きたのだと思っておりました。燃え尽きたのなら、灰が残りますわ。
燃え尽きたのなら、釜は熱を持ちますわ。
どちらも無い。あるのは、白く抜けた焦げ跡がひとつきり。
私は焦げ跡の縁を指でなぞりました。滑らかです。金属を削った跡ではございません。何か柔らかいもので、そっと拭い取ったような手触り。
(……お玉ですわね、これ)
けれど今なら分かります。
あれは燃え尽きたのではなく、火ごと持ち去られたのですわ。何者かが、この大釜を鍋のように傾けて、中身を確かめていった。
(味見を、されましたのね)
冷えた鉄に額を寄せて、私は目を閉じました。
――お前は、よく熟した。
声ではございません。音ですらない。ただ、そう思われたという事実だけが、私の背骨を撫でていきました。
顔を上げたとき、頭上の空に亀裂が走っておりました。
あの日と同じ、磁器が砕けるような音。降ってきたのは純白の羽。
けれど今度の羽は震えておりました。
戴冠式の朝に降った羽は、触れれば肌を焼くほど熱を持っておりましたわ。傲慢で、清潔で、地上を虫けらとしか見ていない光。
今、私の掌に落ちてきた一枚は冷えきっております。焦げて、縮れて、端が黒く欠けている。
落ちるものではございません。これは、逃げてきたものですわ。
亀裂の向こうから、悲鳴が聞こえました。神々の声というものを、私はこれまで一度しか聞いたことがございません。あのときは審判を告げる響きでした。
今度のそれは、鍋の底で跳ねる豆の音によく似ておりました。
「……あら」
私は扇を広げました。誰も見ていない広場で、それでも背筋だけは伸ばして。
「おーっほっほっほ! 随分と慌ただしいご来訪ですこと。……ようこそ、地上の台所へ。ちょうど、上のお客様に伺いたいことがございましたの」
今日もお付き合いくださって、ありがとうございますわ。
「腐る」より「整えられる」のほうが怖い、というのを一度書いてみたかったのですわ。塩から海の匂いが消える。それだけで、こんなに不気味になるものかしら。
次回、天界からのお客様。ただし今回は、逃げてこられたようです。
※ここまで読んでくださった方は、ぜひブックマークを。エリアナ様の台所に、まだ塩を振らせないために。




