第56話 木ベラを捨てた皇妃の朝食は、三十七分もかかりました
黄金の木ベラは、もうありません。
残ったのは使い古された鉄のフライパンと、タコだらけのこの手だけ。
ええ、覚悟の上ですわ。……たぶん。
卵が、焼けません。
三度目です。
帝国の厨房。磨き上げられた作業台。窓から差し込む朝の光。すべては昨日までと同じですのに、フライパンの上の卵だけが、いつまでも透き通ったまま揺れておりました。
一度目は火が弱いのだと思いました。二度目は油が足りないのだと考えました。
三度目の今、私はようやく認めるところですの。問題は、鍋の外側にはございません。
私は火加減を確かめました。強すぎもせず弱すぎもせず。バターは黄金色の泡を立てております。手順に誤りはございません。
(……熱が、通らない)
右手に握っているのは、帝国の下働きが使い潰した鉄のフライパン。柄には焦げ跡が残り、縁はわずかに歪んでおります。
三日前、私はこれを自分で選びました。黄金の木ベラを建国の大釜へ投げ入れた、あの日に。
あのとき私は、世界中に向かって高らかに宣言いたしましたわ。私の祝福は道具ではない。愛された記憶そのものだと。
実に格好のよい台詞でしたこと。おーっほっほっほ。
卵は、まだ揺れております。
「……お嬢様」
背後からセリーナさんの声がいたしました。振り向かなくても分かります。眼鏡の奥で、この方は今、泣きそうな顔を必死に殺しておられる。
「何も仰らないで。今、いいところですの」
「三十分が経過しております」
「まあ。時計がお好きなこと」
「お嬢様。厨房の者たちが、扉の外に集まっております」
私は手を止めませんでした。止めれば、卵より先に私のほうが冷えてしまいますもの。
彼らが集まる理由は分かっております。昨日、帝都のパン屋で小麦が膨らまなかったそうですわ。一昨日は東の葡萄畑で実が落ちたと聞きました。
民はもう気づき始めております。皇妃の祝福が、細くなったと。
私は木匙で卵を混ぜました。祝福は、確かに出ております。指先から流れ出す光は、以前と同じ黄金色。
けれど、細い。糸のように細い。木ベラが束ねてくれていたものが、今は指の隙間からこぼれ落ちていく。
「ハンスさん」
厨房の隅で腕を組んでいた大男が、ぴくりと肩を動かしました。この方は三日間、一度も口を挟まずにそこに立っておられます。
「火を、少しだけ足してくださる?」
「……よろしいので」
「ええ。一人で振るのは、どうやら私の悪い癖でしたわ」
ハンスさんが炭を組み直しました。太い腕が風を送り、鍋底に熱が回ります。あの晩餐会で私に膝を屈した男の、四十年ぶんの手つき。
同時にセリーナさんが、私の背後から両手でフライパンの柄を支えました。震えを止めるためです。私の手が震えていることに、私は今まで気づいておりませんでした。
三人分の重みが柄に乗った瞬間。
じゅわ、と音がいたしました。
卵の縁が縮れ、白く固まり、黄金色の泡が香りを立てて弾けます。私の細い光が、二人の手を伝って太く束ねられていく。
ふわりと立ち上ったのは、あの朝の匂いでした。
「……焼けましたわ」
「はい」
「セリーナさん。手を離してくださらないと、お皿に移せませんの」
「……申し訳ございません」
彼女は手を離しませんでした。私も、しばらくそのままにしておきました。
扉の外で、誰かが洟をすする音が聞こえた気がいたします。
皿へ移す前に、私はセリーナさんへ尋ねました。
「昨日の小麦の件。膨らまなかったのは一軒だけですの?」
「三軒でございます。いずれも帝都の東区。……本日はまだ報告が上がっておりません」
「上がってきたら、時刻も一緒に控えてくださる?」
「時刻、でございますか」
「ええ。何時に起きたかが分かれば、順番が見えますもの」
セリーナさんが眼鏡を押し上げ、小さく息を吸いました。この方は、私が仕事の顔に戻ると必ずこうなさいます。
「……お嬢様。ご自分の力が細ったことより、そちらを先にお調べになるのですね」
「当然ですわ。私が下手になったのなら、下手なりに焼けばよろしいだけ。……ですけれど、小麦が膨らまないのは、私の腕の話ではございませんわ」
食堂へ運んだオムレツを、ゼフィロス様は無言で一口召し上がりました。
「……美味い」
「陛下。お世辞は要りませんわ」
「世辞ではない」
陛下は二口目を運び、それから静かに皿を置かれました。
「だが、遅い。三十七分だ」
「まあ。陛下まで時計をお持ちですの」
「私はこの十年、お前の作るものを待つ以外にすることがなかった。時間には詳しい」
私は思わず笑ってしまいました。この方は、いつもこうして本音を平然と混ぜてこられる。
「……エリアナ。木ベラを惜しんでいるか」
「いいえ」
「即答だな」
「惜しんでおりましたら、火にくべたりいたしませんわ。ただ」
私は自分の手を見つめました。タコと、火傷の跡と、包丁の傷。二十年ぶんの記録。
「思っていたより、私は小さかったのですわね。それだけのことですの」
陛下が左手を伸ばし、私の指先を包み込まれました。右手は、いつものように背に回されたまま。
「小さくなったのではない。……お前を大きく見せていたものが、一つ減っただけだ」
「あら。慰めですの?」
「事実だ。……足りない分は、私が焚べる」
「陛下の虚無で朝食を焼きましたら、皿ごと消えてしまいますわ」
「ならば皿を百枚用意しよう」
この方の愛は、いつも量で解決しようといたしますの。
その言葉が終わらぬうちに、窓の外が暗くなりました。
厨房の鍋が一斉に鳴り、皿が震え、私の手の中で鉄のフライパンがカタリと音を立てます。
私は駆け出しました。回廊を抜け、バルコニーへ。
帝都の中央広場。建国以来一度も絶えたことのない、帝国の不滅の火。
三日前、私が黄金の木ベラをくべた、あの大釜。
その炎が、消えておりました。
煙も上がっておりません。灰も残っておりません。ただ、釜の底に白い焦げ跡が一つ。
まるで何者かが指を伸ばして、中身をつまみ上げていったかのように。
「……陛下」
「ああ」
隣に立たれた陛下の右腕が、包帯の下で低く唸っておりました。神を殺したあの腕が、十年ぶりに怯えるような音を立てております。
「エリアナ。……この感じを、私は知っている」
「まさか」
「あの神を握り潰した夜と、同じ匂いだ」
消えた火の跡を見下ろしながら、私は思いました。
あれは炎を奪われたのではございません。
……あの大釜は、味見をされたのですわ。
最後までお読みくださって、ありがとうございます。
チートを手放した主人公が最初に直面するのは世界の危機ではなく朝食だろうと思っておりまして、まずは卵から始めていただきました。三十七分というのは、わたくしが実際に卵を焦がして立ち尽くした時間ですの。
消えた大釜の火。次回、帝国の外でも同じことが起き始めます。




