第55話 閑話 氷の皇帝の独白 ――砂と、黄金のスープ――
いつもはエリアナ様の側から綴っているこの物語を、今夜だけ、
「氷の皇帝」ゼフィロス様の側から覗いてみますわ。
十年ものあいだ、何を口にしても砂の味しかしなかった男が、
黒い城の廊下で、夜ごと誰を盗み見ていたのか。
……陛下。あなた、あの厨房の灯りを何度数えましたの? おーっほっほっほ。
十年もの間、私の舌は死んでいた。
どれほどの美酒も、どれほどの珍味も、私の口に入れば等しく「砂」に変わった。乾いて、ざらついて、喉の奥で崩れていくだけの味のない粒。宮廷料理人たちは首を刎ねられることを恐れ、次々と新しい皿を運んできたが無駄なことだ。私を満たすものなど、この世のどこにも存在しなかった。
食えぬという欠落は、思っていたよりもずっと人を蝕む。腹は膨れても魂が飢える。飢えた獣は、やがて自分が獣であることすら忘れる。帝国の民が私を「怪物」と呼び忌み嫌ったのも、無理からぬことだったのだ。
――そう。あの雪の夜に、あの女が現れるまでは。
◇
黒い城の厨房に灯りが点いている。
深更だというのに、まったくあの女ときたら。私は回廊の柱の陰に身を潜め、その一角を睨みつけた。皇帝ともあろう者が夜半に己の城で盗み見のような真似をしている。もし側近のバルトあたりに見つかれば、末代までの笑い草だろう。
だが止められぬのだから仕方がない。
湯気の向こうでエリアナ・ヴェスタが鍋を振るっている。母から譲り受けたという黄金の木ベラが彼女の手の中で軽やかに円を描くたび、湯気が金の粉をまぶしたように輝く。
あの銀の小鍋――追放される際、これだけはと懐に忍ばせてきたという、みすぼらしい旅の調理具。宝石もドレスも世界一の厨房も与えると言ったのに、あの女は今もあの粗末な小鍋を後生大事に使う。
「……ふぅ。こんなものかしら」
小さく独りごちて、彼女はできあがったばかりの夜食を木匙で一口すくい、味をみた。その瞬間、彼女の頬が、ほう、とほころぶ。誰に見せるためでもない、ただ「美味しくできた」というそれだけの笑み。
私の胸の奥で何かが、ぎゅう、と締めつけられた。
この女は知らぬのだ。その何気ない一皿が、砂しか知らなかった男の十年をひと匙で塗り替えてしまったことを。その笑みひとつで神を殺した男の背筋が凍りつくことを。
――欲しい。
喉の奥で獣が唸る。あの湯気を、あの温もりを、あの笑みを、余さず私だけのものにしたい。誰にも一滴たりとも分け与えたくない。晩餐会で貴族どもがあの料理に舌を鳴らすたび、私は皿ごと叩き割ってやりたい衝動を皇帝の面の下で必死に噛み殺している。
まったく情けない話だ。氷の皇帝と恐れられたこの私が、たった一人の料理番に心臓を握られている。
◇
「あら、陛下。……そんなところで何をしていらっしゃいますの」
しまった。気配を読まれた。
振り向いた彼女の瞳が、悪戯を見つけた猫のように細くなる。逃げ場はない。私は咳払いをひとつして、いかにも今通りかかったという体で厨房へ入った。
「……夜回りだ。城の主が己の城を検分して何が悪い」
「まあ。それはご苦労さまですこと。……では検分のついでに、味見役もお願いできまして?」
差し出された木匙の上で黄金のスープが揺れている。滋養に富んだ肉の甘み、野生のハーブの青い香り、そして――火を通したばかりの太陽のような温もり。あの雪の夜に私の呪いを黙らせた、あの香りだ。
一口、含む。
刹那、世界から音が消える。何度味わってもこの瞬間ばかりは慣れることがない。舌の上で「味」が花開き、腹の底へ滑り落ち、冷えきった血を巡らせていく。死んでいたはずの体が、生きていると叫ぶ。
「……美味い」
「ふふ。存じておりますわ」
得意げに胸を張るその横顔を、私は左手でそっと引き寄せた。
――左手だ。いつも左手でしか触れられない。
右手は黒い包帯の下で今も渦巻いている。神を殺した代償に、永遠に「無」を生み出し続ける穴。この腕でこの女に触れれば、その柔らかな頬も、金の湯気を生む手も、ひと撫でで消し去ってしまう。だから私はこの十年よりもさらに長く思える夜ごとに、右手を背に回して封じている。
世界を救った腕が、たった一人を抱くことだけはどうしても叶わぬ。皮肉なものだ。
「陛下」
私の内心を見透かしたように、エリアナがふいに言った。
「そのお顔、また『触れられぬ』などと辛気くさいことをお考えでしょう。……おーっほっほっほ! 陛下、料理人を甘くみてはいけませんわ。世に『火が通らぬ食材』はあっても、『いつまでも硬い食材』はございませんの。時をかけ、手をかければ、どんなものだって、いつか柔らかくほぐれるものですわ」
彼女は私の包帯の右手を――迷いもせず両手で包み込み、まるで冷えた鍋でも温めるようにそっと握った。
「ですから、焦らないでくださいまし。あなたのその手も、いつか」
その先を彼女は言わなかった。言わずに、ただ笑った。
この女はいつもそうだ。断言しない。約束もしない。ただ、扉を閉じずに残していく。「いつか」という確かめようのない一滴を、私の砂漠のような胸に落としていく。
――それで十分だった。飢えた男には過ぎるほどの馳走だ。
私はもう一口スープを含んだ。温かい。腹の底から血の巡る音がする。この一皿が続く限り、私はまだ怪物ではなく男でいられる。
「……おかわりを所望する」
「まあ、意地汚い皇帝陛下ですこと。おーっほっほっほ!」
湯気の向こうで、黄金の木ベラがまた軽やかに円を描き始めた。
◇
――そして今、あの木ベラは炎の中へ消えた。
だが、黒い城の厨房には、今夜もまた灯りが点いている。
あの女が次に何を掬い上げるのか。私は右手を背に回したまま、まだ知らない。
夜更けまでお付き合いくださって、ありがとうございますわ。
「左手でしか触れられない」――この設定、実は本編でこっそり効いておりましたのよ。
陛下が右手を背に回しておられる間、エリアナ様は一度もそれを話題になさいません。
気づいていないのではなく、気づいたうえで黙っていらっしゃる。
……あの方のそういうところが、わたくしは少しだけ怖いのです。
さて、木ベラを炎にくべたあの日から、帝国の厨房では少しばかり妙なことが起きております。
次回から、第二部「起源・新世界編」。エリアナ様の朝食が、なぜか三十七分もかかりますの。
※陛下の右手が「いつか」どうなるのか、見届けてやろうと思ってくださった方は、
どうか【ブックマーク】をこのままに。黒い城の灯りは、まだ消しませんわ。




