第75話 まだ、取っておきますわ
帰り道は、行きよりずっと短うございました。陛下の右腕がほどけた粒を一つずつ返していくたび、道が短くなっていくのですわ。
港が戻りました。牧舎が戻りました。葡萄畑が戻りました。誰も、自分がいっとき粒になっていたことを知りません。
それでよろしいのですわ。
知らないままでいられるのが、いちばんの贅沢ですもの。
◇
白の外れで、私は一度だけ振り返りました。割れた皿の山が、そこにございます。
汁の跡が乾いて、焦げがこびりついたまま、幾山も。
「ハンスさん」
「へえ」
「あれ、洗いに来ましょうか」
「……いつです」
「そうですわね。……来年あたり」
四十年の料理長が、盛大に笑いました。白の中にこんな下品な笑い声が響いたのは、たぶん開闢以来ですわ。
「へえ。付き合いますよ、皇妃様。……あの雑な仕事は、俺ぁどうにも我慢がならねえ」
◇
帝都へ戻ったのは、それから十日後でした。中央広場の大釜に、火が戻っておりました。
誰が点けたのかは分かりません。パン屋のご主人だとも、賄いの女だとも聞きました。四万人の誰かでしょう。
私は釜の縁に手を置きました。あたたかい。広場には、朝から人が集まっておりました。
誰も、つい先日、世界がほどけかけたことを知りません。知っているのは、ひと月前に届いた三行の書状のことだけ。
「皇妃様。あの朝の鍋、あれは何だったんです」
「さあ。何でしたのかしら」
「……ご存じない?」
「ええ。ただの朝ごはんでしたわね」
私はそう申し上げて、笑いました。
それ以上のことを申し上げる必要は、どこにもございませんもの。
ヴィクトリア様はミラベル様と一緒にガストロノミアへ帰りました。パン屋の二階が二人になりましたわ。狭いでしょうけれど、賑やかでよろしゅうございます。
ラグエルは天界へ戻りました。喋らなくなった神々に、一人ずつ、こちらのパンを配って回るのだそうですわ。千年ぶんの盆の腕前を、ようやくご自分のために使えますわね。
ジュリアン様は塔へ戻られました。
ご自分から、そう仰いましたの。
「……許されてはいないのだろう」
「ええ。金輪際」
「では、戻る」
「けれど」
私は一つだけ申し上げました。
「塔の食事は、こちらから運びます。……毎日、違うものを」
「……なぜだ」
「物差しが錆びると、困りますもの」
男は少しだけ笑って、鎖の待つ塔へ帰っていきました。
◇
その夜、私は離宮の厨房に立っておりました。鉄のフライパンを火にかけ、卵を割ります。バターが黄金色の泡を立てました。
四分で焼けましたわ。だんだん腕が戻ってまいります。
「……エリアナ」
背後から、ゼフィロス様の声がいたしました。振り返ると、この方は右手を差し出しておられました。包帯は、まだ巻いてございません。
あの日から、この手は私に触れられます。
頬にも、髪にも、指にも。十年ぶんを取り戻すように、この方は毎日私に触れておられますわ。少々、度が過ぎるほどに。
「陛下。皿を持っておりますの」
「置け」
「まあ」
私は皿を置き、それから、棚から白い布を取り出しました。新しい包帯ですわ。
「……エリアナ?」
「陛下。手をお出しになって」
私はその右手にゆっくりと布を巻き始めました。陛下は動かれませんでした。ただ、信じられないという顔で私を見下ろしておられます。
「……なぜだ」
「なぜ、とは」
「触れられるようになった。……もう、巻く理由はない」
「ええ。ございませんわね」
私は布を一巻き、また一巻きと重ねました。
「ですから、巻きますの」
「……分からん」
「陛下。あの厨房で、私、学びましたのよ」
私は手を止めずに続けました。
「完璧なお料理には、二口目がございませんの。……満たされてしまうと、人は次を欲しがりませんわ」
包帯が、手首まで来ました。
「私、あなたに毎日触れられて、幸せですわ。ええ、それはもう。……ですけれど、このまま毎日続けましたら、いつか当たり前になりますでしょう」
私は最後の一巻きを結びました。
「ですから、まだ、取っておきますわ」
ゼフィロス様は、包帯の巻かれた自分の右手を見つめておられました。それから、たいそう不機嫌な顔で仰いました。
「……お前は、時々ひどく残酷だな」
「あら。料理人ですもの」
「十年待ったのだぞ」
「ええ。ですから、次は十年もお待たせいたしませんわ。……ときどき、解きます」
「ときどき」
「ええ。ときどき」
私は背伸びをして、その包帯の上に唇を落としました。
「おーっほっほっほ! お楽しみは、少しずつ召し上がるものですのよ、陛下」
――ところで、一つだけ。白の厨房を出るとき、私はあの方に伺いましたの。
「お客様。最後に一つ、よろしくて」
「どうぞ」
「あなたのお料理、どなたに教わりましたの」
その方はしばらく黙っておられました。それから、ご自分の手を見つめて、こう仰いました。
「……覚えていない」
「まあ」
「気がついたときには、この厨房に立っていた。……作り方は、最初から知っていた」
私は扇の内側で息を呑みました。最初から知っていた。
――ええ。そういう風に、置かれた方ですのね。
「あなたのその厨房、天井はございますの」
その方は答えられませんでした。
ただ、一度だけ、上を見上げられましたわ。
帝国の厨房で、私は焼き上がった卵を皿へ移しました。窓の外では、大釜の火が静かに燃えております。
四万人が今日も、それぞれの誰かのために鍋を振っているのでしょう。私は鉄のフライパンの柄を撫でました。歪んだ縁。錆の跡。掌に馴染んだ焦げ。
この一本で、まだ足りないものがございます。――あの方の厨房の、天井の上。
「……まあ、それは明日にいたしましょう」
厨房の扉が開いて、セリーナさんが顔を出しました。
「お嬢様。明日の朝、東区のパン屋のご主人が参られるそうです」
「あら。何のご用かしら」
「……焦げないパンの焼き方を教えてほしい、と」
私は、思わず吹き出してしまいました。
「まあ。断ってくださいまし」
「よろしいので」
「ええ。あの方のパンは、焦げているのが値打ちですもの。……ですけれど、お茶はお出ししてね」
セリーナさんが、久しぶりに声を上げて笑いました。眼鏡が、また曇っておりますわ。
私は火を落とし、皿を二枚並べました。窓の外で、大釜の火が揺れております。
この火は、消えたらまた誰かが点けるのでしょう。四万人もおりますもの。おーっほっほっほ!
今夜の晩餐は、二人ぶんですわ。
第二部『起源・新世界編』は、ここまででございます。
ここまでお付き合いくださって、本当にありがとうございました。
黄金の木ベラを失ったところから始めて、四万人ぶんの朝ごはんに辿り着くまでの二十話。
主人公が強くなったというより、抱えるものが増えただけ、という話にしたかったのですわ。
陛下の右手を、せっかく触れられるようにしておいて自分の手で巻き直す。あれを書けたときは、わたくし、扇を落としましたもの。
そして最後に伺った、あの一言。
「作り方は、最初から知っていた」
……あの方の厨房にも、天井がございますのね。
エリアナ様の鉄のフライパンは、まだ足りないものを抱えたままですわ。
その続きは、またいずれ。ぜひ【ブックマーク】はこのままに、そして【評価(★★★★★)】で、二人の食卓にもう一皿添えてくださいませ。
それでは、皆様の毎日が、最高に美味しいもので満たされますように。
また次の食卓でお会いいたしましょう! おーっほっほっほ!




