第30話:陛下の右手の包帯が解ける時――『神殺しの罪』の全貌
――ズブ、ズブ。
魔導馬車の車輪が、不気味に脈打つ「肉の地面」に飲み込まれ、不快な音を立てて停止しました。
窓の外を見れば、そこにはもはや土も石も存在しません。血管が網目のように走り、生暖かい蒸気が立ち上る漆黒の肉塊が、地平線の果てまでうごめいています。
「……気持ち悪い。お嬢様、窓を閉めてくださいまし。……これはもはや、生き物の腐敗臭ですらありません。……理そのものが、内側から腐り落ちた臭いですわ」
セリーナさんが吐き捨てるように言い、鋼線を指先に絡ませて周囲を警戒します。
私は、ゼフィロス様の胸の中で、ガタガタと震え続ける木ベラを強く握りしめました。
木ベラは、かつてないほどの『拒絶』を示しています。……目の前の光景は、料理人が慈しむべき「生命」への最大の冒涜なのだと。
「エリアナ。……ここからは、お前の『祝福』すら届かぬ虚無の領域だ」
ゼフィロス様が、私の肩を抱く手をそっと離し、立ち上がりました。
彼の瞳は、暗く、底知れない「虚道」の光を湛えています。
「……陛下、何をなさるおつもりですの?」
「包帯が、もう限界だと言っている。……この沼を喰らい尽くすには、私の『汚れ』をすべて外に吐き出さねばならん」
ゼフィロス様は、自らの右手を縛っていた最後の黒い包帯に手をかけました。
その瞬間、馬車全体が、物理的な重圧でミシリと悲鳴を上げました。
「陛下! それは……まだ早いのでは!」
セリーナさんの制止も聞かず、ゼフィロス様は一気に包帯を解き放ちました。
――刹那。
馬車の中から、光をすべて吸い込むような「漆黒の奔流」が溢れ出しました。
露わになった彼の右手は、もはや人間のそれではありませんでした。
肘から先は、形を持たない「闇の渦」となり、そこから絶えず赤黒い火花が散っています。その腕に触れるだけで、空気さえも消滅し、存在そのものが『無』へと削り取られていく。
「……これが、私の『神殺しの罪』の正体だ」
ゼフィロス様の声が、どこか遠く、何千もの亡霊が重なったような響きを帯びました。
「かつてこの大陸には、すべてを飲み込み、記憶すら消し去る『虚無の神』が降臨した。……私はその心臓を、この右腕で握り潰したのだ。……神を殺した代償として、私の右腕は永遠に『無』を生成し続ける穴となった。……私が私である限り、この腕は世界を喰らい続け、最後に私自身を飲み干すまで止まらん」
彼はその異形の腕を見つめ、自嘲気味に笑いました。
かつて、帝国の民が、そして王国の者たちが彼を「怪物」と恐れ、忌み嫌った理由。
それはただの呪いではなく、世界を救った際に植え付けられた、治癒不能の『欠落』。
「エリアナ……。これを見てもまだ、私を愛おしいと言えるか? ……私のこの腕は、お前の丹精込めたスープも、お前の柔らかな肌も、触れるだけですべて『無』に変えてしまう毒だぞ」
彼の言葉に、私は言葉よりも先に、体が動いていました。
私は馬車を飛び降り、沈み込む肉の沼を木ベラの光で焼きながら、彼の隣へと立ちました。
そして、その「闇の渦」と化した右手に、自分の手を迷わず重ねたのです。
「……なっ!? エリアナ、離れろ! 消えるぞ!!」
「消えませんわ。……おーっほっほっほ! 陛下、私の『祝福』を、そんな安物の呪いと一緒にしないでくださる?」
私の木ベラが、黄金色の猛火を放ちました。
私の指先から溢れ出す、無限の『生成』。
陛下の右腕が放つ『消滅』。
二つの相反する力がぶつかり合い、私の腕を焼くような熱痛が走ります。けれど、私は笑い続けました。
「陛下が『虚無』なら、私は『豊穣』ですわ。……陛下が世界を削り取るなら、私がその端から、新しい『彩り』を煮込んで差し上げます。……この腕、怪物だなんて仰らないで。……私にとっては、世界で一番頼もしい『特等席』にしか見えませんわ!」
「……お前という女は……」
ゼフィロス様の闇の渦が、私の祝福を食べて、次第に安定した「漆黒の刃」へと形を変えていきました。
彼は私の手を握り締め、そのまま、目の前に広がる巨大な肉の沼へと、その右腕を振り抜きました。
「――失せろ。私のエリアナが、歩く場所ではない」
轟音すらありませんでした。
右腕から放たれた『無』の波導が、触れるものすべてを存在ごと消し飛ばし、肉の沼を、瘴気を、蠢く血管を、一瞬で「ただの更地」へと変えてしまいました。
王都へと続く道が、一閃の下に切り拓かれたのです。
その浄化された道を進む私たちの前に。
王都の門が、まるでおぞましい生物の「口」のように開き、姿を現しました。
門の頂。肉の壁に埋もれるようにして、一人の老人が、虚ろな目を剥いてこちらを見下ろしていました。
「……エリ、アナ……。お前が……お前が、この国を……捨てたから……っ」
それは、かつて私を厨房の灰として扱い、ジュリアンに私を差し出した、ヴェスタ公爵――私の「父」の、変わり果てた姿でした。
彼はもはや人ではなく、城壁の一部として、絶え間ない苦痛の叫びを上げ続けていたのでした。
最後まで読んでくださって、ありがとうございますわ!
陛下……なんて重い過去を背負っていらしたの。
世界を救った代償が「永遠の虚無」だなんて、あまりにも不憫で……。
でも、それを「特等席」と言い切るエリアナ様、最高に格好良すぎますわ!
「生成」と「消滅」の共同作業、これぞ究極の夫婦の形ですわね。
さて、王都の入口で待ち構えていた、肉の壁と化した「父上」。
かつてエリアナ様を虐げた者たちが、魔王に飲み込まれてどんな無惨な姿になっているのか……。
おーっほっほっほ! 同情なんていたしませんわよ。
次回、第31話。
「ジュリアン王太子、狂気の果てに『魔王』の契約を交わす」。
父を、民を、国を捧げたジュリアン殿下。
彼が用意した「最悪のメインディッシュ」が、ついに私たちの前に供されますわ!
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あなたの応援が、陛下の右腕の闇を、愛の光へと変えるのですから!




