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第4章:父さんの動画、そして約束

大学。彼は「投手」を捨て、「打者」として立つことを選んだ。


左肩の奥に消えない痛みを抱えながらも、彼は野球を諦めてはいなかった。


「父さん、僕、大学ではピッチャーをやめるよ」


入学式を控えた春、息子は静かに、けれどすっきりとした表情でそう言った。マウンドへの未練がないわけがない。しかし彼は自分の壊れた左肩の現実を冷静に見つめ、チームのために自分が今何ができるかを考えていた。


「これからは、バッターとして勝負する。レフトを守るよ。ボールが飛んできても、バックホームできるのは二回までなんだけどね(笑)」


自分の致命的な弱点すら、彼はユーモアに変えて笑い飛ばした。あの夜、食卓でうつむいていた少年は、逆境を笑顔で受け流すタフな大人の男へと脱皮していた。


投手一本でやってきた男が、大学野球の猛者たちが集まる舞台で野手としてレギュラーを掴むのは並大抵のことではなかった。息子が選んだ準硬式野球の舞台には、甲子園を目指した精鋭たちが集まっている。最初は、彼の打撃技術は完全に素人の域を出ていなかった。


そこからの息子の挑戦は、狂気としか言いようがなかった。


毎日、誰よりも早くグラウンドに入り、誰よりも遅くまでバッティングケージにこもった。手のひらの皮が何度も剥がれ、血が滲み、それが硬いタコへと変わっていく。


ー しかし、打てない ー。


いくら振っても、いくら練習しても、大学野球のレベルの投手のボールを打ち返すことができなかった。木製バットの芯に当てることすら、彼には難しかった。


「なんでだよ…」


深夜のグラウンドで、一人バットを置き、しゃがみ込む息子の姿を、私は何度も見た。高校時代の肩の痛みとは別の種類の「壁」が、彼の前に立ちはだかっていた。


投手として十二年間生きてきた代償は大きかった。バッターとしての経験値が、圧倒的に不足していたのだ。同級生たちが中学時代に何千回と経験してきた「打撃の引き出し」を、彼は持っていなかった。


ある晩のことだった。


リビングで野球中継を眺めながら、息子がぼんやりと呟いた。


「…なあ、父さん。投手ってさ、打者がこういうスイングをしたら、内角を狙うよね」


「え?」


「だって、バッターが外角のストレートを待っているスイングをしたら、投手は『よし、内角で詰まらせてやろう』って考えるじゃん。俺が投手だったら、そうする」


私は何気なく「そうかもしれないな」と答えた。


しかし、息子はそのまま続けた。


「……じゃあ、その逆をやればいいんじゃないか?」


その瞬間、彼の目に何かが宿った。


「俺が投手だったからわかるんだ。『この投手は今、どんな気持ちでこのバッターを見ているのか』が。追い込まれた時の表情、ちょっとした仕草、球種を選ぶ間の間。全部、自分がやってきたことの裏返しなんだよ」


彼は立ち上がり、バットを握った。


「…試してみる」


次の週末の練習試合。私は初めて、息子の打席に「何かが変わった」のを感じた。


カウント2-2。相手投手がワインドアップに入る。息子はバットを少しだけ寝かせ、外角のコースを「見せた」。


あ、これはわざとだ。


投手がそのスイングを読んだのか、ボールは内角低めへと鋭く食い込んできた。


だが、息子はすでにバットを引いていた。彼は外角を狙っているフリをして、内角を待っていたのだ。


バットが回転する。芯がボールを捉えた瞬間、甲高い金属音がグラウンドに響いた。


カキィィン!


打球はライトの頭上を越え、フェンス直撃のツーベースとなった。


ベンチから歓声が上がる。私は思わず立ち上がった。


走りながらガッツポーズをする息子の顔には、あの中学時代そして高校時代に、マウンドでバックを信頼して笑っていた頃と同じ、自信に満ちた笑顔があった。


「おいおい、まさか…」


私は呆然としながらも、確信した。


彼は「打ち方を覚えた」のではない。「投手の心理を読む」という、誰にも真似できない武器を手に入れたのだ。


その日から、息子は変わった。


打席に入る前に、相手投手の癖をじっくり観察するようになった。ちょっとした仕草、追い込まれた時の表情、セットポジションに入るまでの間。それらをすべて「かつての自分」と重ね合わせて、相手の次の一手を読む。


「この投手は、カウントが悪くなると外角の変化球で様子を見たがる。でも今日はその変化球が高めに浮いている」


「追い込まれてからのこの間、多分ストレート勝負に来る。だったら、真っ直ぐを狙って待っていればいい」


それらはすべて、彼がマウンドに立っていたからこそ気づける「投手だけが知る秘密」だった。


彼のバッティングは、もはや「打撃技術」ではなく「心理戦」へと進化していた。高校時代、あれだけの過酷な投げ込みを経験したからこそ培われた「投手の視点」。それが、まさかの形で打者としての武器に変わったのだ。


努力は裏切らない。血豆が潰れ、皮が何度も剥がれても、それでも彼は「自分の過去」という最強の武器を見つけ出した。


大学三年生の秋、息子はついに「六番・レフト」の定位置を掴み取った。「勝負強い」「ここ一番で打つ」という評価は、裏を返せば「相手投手の心理を読み切っている」からに他ならなかった。


そして迎えた、大学最後の年。全国大会へ繋がるブロック予選の決勝戦。


私はその日も、仕事の重圧に追われていた。息子の晴れ舞台をスタンドで応援することは叶わなかった。


また、行ってやれなかったな。


オフィスのデスクで、私は中学時代の涙や、高校時代の沈黙の食卓を思い出しながら、ただ祈るしかなかった。


夜九時を過ぎた頃、スマートフォンが激しく震えた。息子からのメッセージ。そこには一本の短い動画が添付されていた。


恐る恐る再生した瞬間、私は息を呑んだ。


画面の中で、左打席に入った息子が完璧なスイングを放つ。


カキィィン!


白球は美しい放物線を描いてレフトスタンドの芝生へ突き刺さった。起死回生のホームラン。ダイヤモンドを一周し、仲間たちと抱き合って爆発的な笑顔を見せる息子。その一本の裏には、高校時代に届かなかった「全国大会」の切符が確かに握られていた。


画面が滲んだ。


「よくやった…本当によくやったな」


誰もいない会議室で、声が震えた。


その夜、私は居ても立ってもいられず、パソコンに向かった。


動画編集の知識など素人に毛が生えたようなものだ。しかし私は夢中で作業に没頭した。息子の打席の映像にスローモーションのエフェクトをかけ、球場がどよめく字幕をつける。そして、彼の野球人生を祝福する応援歌のBGMを重ねた。


すまなかった。そして、最高の感動をありがとう。


言葉にできなかったすべての想いを、私はその動画に詰め込んだ。深夜二時、完成した動画を息子に送った。


翌朝、返信が来た。


『父さん、これマジで凄すぎるよ! チームの連中に見せたらさ、「お前の父さん、プロの動画クリエイターかよ!」って大騒ぎになった(笑)。一生の宝物にするよ』


そのメッセージを見たとき、私の胸の奥に長年沈んでいた「運動生理学の本を買えなかった夜」の澱が、すうっと消えていった。


私たちは、見に行けずとも、言葉を交わさずとも、あの動画を通じて確かに深く繋がっていた。


それから、数年が経った。

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