エピローグ:26歳のキャッチボール
二〇二六年、初夏の風が眼前の丘陵を柔らかく吹き抜けていく。住宅街の片隅にある小さな公園で、一足のスニーカーが砂を小さく鳴らす。
「父さん、いくよ」
振り返ると、そこにはいつの間にか自分よりも一回りも大きくなった息子がいた。がっしりとした肩幅、無駄のない引き締まった体躯。かつて私の胸の高さまでしかなかった小さな少年は、二十六歳になっていた。
ポン、と小気味よい音が響く。息子が左手で白球を軽く放り、右手のグラブで受け止める。
「おいおい、手加減してくれよ」
私が言うと、息子は白い歯を見せて笑った。
「わかってるって」
放たれたボールが、夕闇を切り裂いて私のグラブへと吸い込まれる。パシィィン。乾いた衝撃が手のひらを震わせた。
軽い、と言いながら、なんていいボールを投げるんだ。
十球ほど続けた頃、私はふと手を止めた。
「なあ。お前、今でも時々、肩が痛むんだろ」
息子の表情が一瞬、動いた。
「高校の時、あんなに投げ込んでさ……。お前に無理させて、後悔してないか?」
張り詰めた沈黙。息子はゆっくりと顔を上げ、穏やかな笑顔を浮かべた。
「後悔? するわけないじゃん」
彼はあっけらかんと言った。
「あの時は、みんなで全力で駆け抜けたんだよ。甲子園には行けなかったし、肩は壊れちゃったけど……あのメンバーは、今でも最高の友達だしさ。もし戻れたとしても、僕は同じようにマウンドに立つと思うな」
「だから、父さんがそんな顔することないよ。僕は、自分の野球人生を誇りに思ってるから」
視界が滲んだ。私は慌てて顔を伏せた。
息子は、私が思っていたよりもずっとタフで、ずっと大人だった。
「父さん、今度の日曜日さ、もし時間あったらゴルフの打ちっぱなしでも行かない? 流石にクラブを振るくらいなら、この肩でも何回でもいけるからさ(笑)」
「お前な……。まあ、仕事の都合がつけばな」
「あはは、またそうやってはぐらかす。約束だからね」
オレンジ色の街灯に照らされながら、並んで歩く道すがら。息子の左肩はもう痛む様子も見せず、夜の静けさの中に溶けていた。
三塁へと逆走したあの日の小さな迷子。ストライクが入らずに壁当てを繰り返した少年。背番号11を背負い、バックを信じて腕を振った少年。夜九時の食卓で静かに背番号のない現実を受け止めたあの夜。そして、自分のバットで全国への扉をこじ開けた六番・クラッチヒッター。
失われたもの、流した涙、味わった挫折。何一つとして無駄ではなかった。すべての点と線が繋がり、今、私の隣を歩くこの立派な大人の男が存在している。
これは、天才でも怪物でもない。ただ、誰よりも泥臭く、誰よりも美しく駆け抜けた、ある一人のサウスポーの物語。そして、彼を不器用に応援し続け、その背中に人生の歩み方を教わった、父親の物語。
眼前の丘陵に夜の帳が下りる中、二人の影はどこまでも長く、しっかりと伸びていた。




