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第3章:夜九時の食卓

高校。彼が飛び込んだのは、想像を絶する過酷な世界だった。


名門チームの練習量は凄まじかった。ピッチャー陣に課されるのは一日五百球の投げ込み。週末の練習試合では一日二試合で二百球近くを投げることもザラだった。成長期の高校生の体への負荷は、大人の目には狂気の沙汰としか映らなかった。


それでも息子は前だけを向いた。一年生の秋からベンチ入りを果たし、背番号11、そして10。激しい競争の中で、彼は常にマウンドの一角を守り続けた。


しかし、限界は静かに、そして確実に訪れた。


三年生の春を迎えたある朝。玄関で靴を履こうとした息子がふと動きを止めた。


「……ねえ、父さん」


力なく、消え入りそうな声だった。


「ネクタイが締められないんだ。肩が上がらなくて」


その瞬間、私の頭を冷たい衝撃が突き抜けた。一日五百球、試合で二百球。その代償が、ついに彼の左肩を破壊していたのだ。


それからの私は、仕事中も息子のことばかりが頭をよぎった。焦燥感に駆られて本屋へ行き、医学書の棚の前で立ち尽くした。『運動生理学』の専門書を手に取り、ページをめくる。


これを読めば、何かケアをしてやれるかもしれない。


だが現実は残酷だった。連日の深夜業務の疲労が私の心身を削る。棚の前で本を持ったまま、「これを読み解く時間が今の自分にあるのか」という圧倒的な無力感が押し寄せた。


結局、その本をレジに持っていく気力さえ残らず、私は逃げるように店を出た。親でありながら、命を削ってマウンドに立つ我が子のために、何一つ救いの手を差し伸べられない。その自己嫌悪の澱が、胸の奥に深く溜まっていった。


肩の激痛を抱えたまま、息子は最後の夏を迎える。ベンチ入りメンバー発表の前日まで、彼は痛む左腕を引きずりながらグラウンドに立ち続けた。


そして迎えた、夏の地方大会前日の夜。


その日はたまたま仕事が早く片付き、久しぶりに家族三人で食卓を囲むことができた。湯気が上がる夕食。どこか懐かしい温もりに浸っていた、その時だった。


「……今日、夏の大会のベンチメンバー発表があったんだ」


リビングの空気が凍りついた。


息子は視線を落としたまま、淡々とした声で一人の漏れもなく名前を読み上げていく。十番、十一番。かつて彼が背負ってきた番号が、別の仲間の名前と共に通り過ぎていく。


そして二十番。最後の名前が読み上げられた。


その二十人の中に、息子の名前はなかった。


一年の秋からずっとベンチを守り続けてきた男の、最後の現実。肩の怪我という理不尽な理由だけで、彼は居場所を失った。


静まり返る食卓。換気扇の音だけがやけに大きく響く。私と妻は、なんて声をかけていいのか分からなかった。


息子はさらに深くうつむき、絞り出すように言った。


「ごめん。メンバーに選ばれなかった」


なぜ、お前が謝るんだ。一番つらくて、一番悔しくて、一番泣きたいのはお前のはずなのに。その「ごめん」という一言が、親である私たちの胸に容赦なく突き刺さった。


妻は自分の口元を手で押さえ、涙を堪えていた。私は箸を持ったまま言葉を失い、座りすくむしかなかった。


沈黙を破ったのは、やはり息子の強さだった。


彼はゆっくりと顔を上げると、いつものあのマウンドで見せていたような穏やかな笑顔を作った。


「でもさ。明日からは、チームのサポート全力で頑張るよ」


その笑顔の裏にどれほどの涙が隠されていたか。しかし彼はここでも腐ることを選ばなかった。背番号を奪われた瞬間から、彼は「裏方としてチームを勝たせる」という新しいマウンドに立つ覚悟を決めていたのだ。


翌日、もう一つの奇跡が起きた。


息子の代わりに「背番号10」を渡された控え投手。あの中学時代の親友がいた。彼は高校入学から次第に体格が大きくなり、投手に転向したのだった。彼は背番号を受け取ったその足で監督室のドアを激しく叩き、直談判したという。


「監督! なんであいつがメンバーに選ばれないんですか! 投手が3人しかいなくて勝ち切れるのですか! あいつがベンチ外なんて、絶対に、、、絶対におかしいです!」


息子のことを誰よりも知っている彼は、息子が投手としての能力をもはや発揮できないことはわかってた。それでも自分の背番号を剥奪されるリスクを冒してまで、親友のために本気で怒り、本気で泣いてくれる仲間がそこにいた。


その話を聞いたとき、私は胸の奥から熱いものが込み上げた。


息子の高校野球は、確かに背番号のないまま終わった。けれど、彼が三年間で築き上げたものは一枚の布切れよりも遥かに価値があった。エラーをしても嫌な顔一つせず、常に仲間を思いやるその「品格」が、一人の人間の心をそこまで激しく動かしたのだ。


「……いい友達を持ったなぁ」


背番号はなくとも、彼は間違いなくチームの精神的支柱であり、仲間たちの心の中に立つ「裏のエース」だった。


この夜の沈黙と、親友の咆哮があったからこそ、彼はまた一歩、大きな男になれた。それがやがて、大学での「奇跡の復活」へと繋がっていく。

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