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第2章:背番号11と、ある親友の涙

中学。彼が選んだのは、「修羅の国」だった。


グラウンドに一歩足を踏み入れた瞬間、張り詰めた空気と地鳴りのような怒号が襲ってきた。指導者たちの鋭い眼光は、まだあどけなさの残る少年たちを容赦なく射すくめる。ミスをすれば即座に連帯責任のペナルティ。それは、生半可な気持ちで野球を楽しんできた子供なら、数日で逃げ出すような環境だった。


仕事を終えて深夜に帰宅すると、居間で泥のように眠る息子の姿があった。ユニフォームには擦り切れた跡と、落ちない黒土の汚れが幾重にも染みついていた。


「おい、本当に大丈夫か?」


ある夜、食卓でサポーターを巻く息子に私は思わず声をかけた。


「大丈夫だって。あの監督に怒鳴られるのに比べたら、学校の先生の小言なんて眠くなるレベルだよ(笑)」


その言葉を聞いて、私は背筋が伸びる思いがした。六年間の下積みが、彼の心に誰も壊せない「復元力」を与えていたのだ。彼は過酷な日々を、ただ耐えるのではなく、成長の糧として面白がることさえ始めていた。


しかし、硬式のマウンドは甘くなかった。チームには体格に恵まれた「エース」や、実力はあるが孤高な「実力者」がいた。息子は背が高いわけでも、突出したスピードがあるわけでもなかった。中学三年生になっても、彼の背中に与えられたのは「背番号11」。エースナンバーから遠く離れた位置だった。


だが、運命の歯車は予想外の形で回り始める。


全国大会へ繋がる中学最後の夏の地方大会。その直前、エースが肘を故障して戦線離脱した。残された実力者投手は、ピンチのマウンドでプライドに縛られ自滅していった。


誰もが絶望したその時、監督の視線がベンチの奥の背番号11に向けられた。


「おい、いくぞ」


初めての公式戦先発マウンド。しかし息子の心は驚くほど澄み切っていた。


ー 僕には速い球も鋭い変化球もない。だから、みんなに守ってもらうんだ ー


息子のプレースタイルは「利他」のピッチングだった。低めに丁寧にボールを集め、絶妙な緩急で打者の芯を外す。そして何より、仲間がエラーをしても決して嫌な顔をしなかった。むしろうつむく内野手に向かって「どんまい、どんまい! 次、次!」と笑顔で声をかける。


「お前、本当に『ダイヤのA』の沢村栄純みたいだな!」


あれよあれよとトーナメントを勝ち進んでいたある日、三塁手のチームメイトが最大の敬意を込めてそう言った。体格や球速ではなく、バックを信頼し、チームを巻き込んで勝利を手繰り寄せる姿。それはまさにマウンドの主人公そのものだった。


背番号11の快進撃で、チームは準々決勝まで勝ち進んだ。


しかし、トーナメントには残酷な「壁」があった。残り三試合には「一人の投手が投げられるのは合計7イニングまで」というルールが設けられていた。故障者を出したチームに残されたピッチャーは、息子を含めてわずか三人。


準々決勝の先発を任された息子の肩には、巨大なプレッシャーがのしかかる。


僕がこの7イニングを投げ切らないと、勝っても次の試合で他のピッチャーのイニングが足りなくなる。


自分の勝利ではなく「チームの明日」のために、彼はマウンドに立った。


プレイボール。一、二イニング。息子は完璧な立ち上がりを見せ、三者凡退の連続。


しかし、相手の老獪な監督は戦術を切り替えてきた。セーフティバント、ドラッグバントで息子のテンポを狂わせ、体力を削る。そして、痛恨の内野エラー。


いつもなら「気にするな」と笑えるはずのそのミスが、極限状態の息子の心に焦りを生じさせる。


ー 抑えなきゃ、僕が三振を取るんだ ー


初めてバックを頼らず、自分の力に頼ろうとした。三振を狙いに行った一球は、甘いコースへと入ってしまった。


キィィン!


鋭い打球が外野の頭上を越え、逆転を許した。降板。悔しさに唇を噛みながら、息子はマウンドを降りた。


だが、この日のチームは終わらなかった。


息子の後を託されたのは、あの実力者投手だった。普段は冷めた彼の目に、この時は猛烈な火が灯っていた。エースの離脱、そして泥だらけで投げ抜いた11番の無念。それらが彼の「本気」を目覚めさせた。


彼は打たせて取るタイプではない。息が止まる剛速球で次々とバッターをねじ伏せる。空振り三振、空振り三振、また空振り三振。彼は六回まで相手打線を完全にゼロに抑え込んだ。


「まだ終わってねえぞ! この試合、絶対勝つぞ!」


ベンチは最高潮に達した。そして最終回七回表、打線が息子の想いを繋いで土壇場逆転に成功する。


あと一イニング抑えれば、勝ち。


七回裏。二死走者なし。勝利まであと一人。


しかし、野球の神様は残酷だった。あと一人の場面から、彼のコントロールが狂い、連続フォアボール。二死一、二塁。一打サヨナラのピンチ。


渾身のストレートが放たれた瞬間。


キィィィン!!


打球はライトの頭上を越えた。サヨナラ負け。


歓喜に沸く相手ベンチ。対照的に、マウンドの彼はその場に崩れ落ちた。


試合終了の整列を終え、選手たちが応援席の前に並ぶ。


「ありがとうございました!」


一礼した瞬間、それまで必死に感情を堪えていた息子の決壊が、真っ先に解けた。


「……う、あ……っ」


息子はその場に崩れ落ちるようにしてわんわん泣いた。自分のせいでリズムを崩した。その自責の念が十四歳の胸を激しく引き裂いていた。


「お前のせいじゃねえよ!」


「お前も、あいつも、みんな最高だったよ!」


サードの親友をはじめ、誰もが息子の肩を抱き、涙を流しながら慰めた。実力者投手も、涙を流しながら息子の背中を叩いていた。誰もがすべてを出し切ったからこその、とめどない涙だった。


その時、バックネット裏の最前列で、一人の男がじっとその光景を見つめていた。地域の有力高校の監督だった。


彼はスコアブックを閉じ、泣きじゃくる息子の背中を見つめながら、静かに確信を込めて隣の部長に告げた。


「あの11番、うちの推薦枠で獲るぞ」


のちに、その監督は私に言った。


「お父さん、私は技術だけを見ているわけではありません。あの試合、バックがエラーした時、あの息子さんは一瞬たりとも嫌な顔をしなかった。それどころか笑顔で仲間を鼓舞していた。ピンチの時こそ人間の本質が出る。私は彼のあの『品格』を見て、推薦を決めました」


ストライクが入らなかった小学時代。ベンチを温め続けた六年間。あの暗闇の中で息子が培ってきた「腐らない心」と「仲間への優しさ」は、技術の何倍も強い武器としてマウンドで輝いていた。


涙で幕を閉じた中学の夏。しかしその涙の向こう側には、自らの生き方でこじ開けた高校野球への扉が確かに待ち受けていた。

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