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第1章:三塁へ逆走したサウスポー

すべては、たった一瞬の憧れから始まった。


二〇〇六年、うららかな春の土曜日。まだ小学校に上がったばかりのごく普通の男の子だった息子は、私と手を繋いで、近所の小学校のグラウンドの横を歩いていた。


カキィィン。硬質な金属音が響き、白い球が青空に吸い込まれていく。地元の少年野球クラブの練習風景だった。


「……かっこいい」


息子の視線の先には、ユニフォームを着た六年生くらいのお兄ちゃんがいた。その少年は、バットを小慣れた様子で左肩にぽんと置き、土埃を上げながら堂々と歩いていた。ただの少年のその佇まいが、一年生の息子の目には「世界で一番かっこいいもの」として映った。


「パパ、僕、野球やりたい」


その夜、息子は興奮冷めやらぬ様子で言った。


私は少し驚いた。我が家に野球の経験者はいない。だが、我が子が自ら「やりたい」と目を輝かせて見出してきた世界だ。その芽を摘む理由などどこにもなかった。


翌週、私たちはその少年野球クラブの「新入部員体験会」へと足を運んだ。春の陽光が降り注ぐ黒土のグラウンドには、同じように緊張と期待を胸に膨らませた小学一年生が十二人集まっていた。


指導者たちは特別な計らいを用意してくれていた。一年生の小さな手でもしっかりと握れる、驚くほど軽いプラスチックのバット。そして、当たっても痛くない柔らかいボール。


「さあ、みんな! 順番にバットを持って、あの止まっているボールを打ってみよう!」


十二人の子供たちが一列に並んだ。


その列の中で、私は我が子の決定的な「個性」に気づく。他の十一人はみんな右打ち。右打席に立って、ごく自然にバットを構えている。


だが、息子の番が来た時、彼はごく自然にベースの右側、つまり「左打席」へと歩みを進めた。十二人の中で唯一の「左投げ・左打ち」。野球の神様からサウスポーというギフトを授かった少年の、最初の一歩だった。


息子の前に、一人の男の子が右打席に入った。その子はのちに親友となる運命の部員だった。その子がバットを振ると、カポッという軽い音を立ててボールが内野へ転がった。大人たちが「走れ、走れ!」と叫ぶ中、その子は一塁ベースに向かって一直線に走っていった。


息子の視線は、その背中をじっと追いかけていた。


そして、ついに息子の番が回ってきた。


「よし、思い切って振ってみな!」


左打席に入った息子は、小さな体をいっぱいに使ってバットを構えた。目だけは真剣そのものだ。ティースタンドの上の白いボールを見据え、鋭いスイングを放った。


ポコン。


頼りない音がして、ボールはサード側、つまり三塁線の方向へと転がっていった。


「当たった! 走れ、走れ!」


歓声がグラウンドに響く。


その瞬間、息子の頭の中で劇的な勘違いが完成していた。彼は左打席に立っていた。さっきの右打者の動きを「鏡」のように見ていたのだ。右打者が打って自分の右前方(一塁)へ走る姿。それを左打席からトレースすると、向かうべき方向は自分の左前方、すなわち「三塁ベース」になる。


息子はバットを放り投げると、満面の笑みを浮かべて三塁側へ猛然とダッシュを開始した。


「おいおい! そっちじゃない、逆だ!」


「一塁はあっちだよ!」


大人たちの慌てた声など、全力疾走する一年生の耳には届かない。息子は三塁ベースへ滑り込むような勢いで激走し、誇らしげに振り返った。


野球のルールなんて何も知らない少年が起こした、最高に微笑ましく、愛おしいデビュー戦。あの日、顔を少し赤らめて「僕、三塁に行っちゃった」と照れ笑いする息子を真ん中に歩いた帰り道が、我が家の野球物語の最高のプロローグだった。


しかし、そんな華やかなデビューの後に待っていたのは、泥臭く、果てしない下積みの毎日だった。


息子は深刻なほどに「ストライク」が投げられなかった。左投げというだけで将来の投手候補として期待されていたが、いざマウンドに立たせると、ボールはキャッチャーの手前でワンバウンドし、あるいはバッターの頭上を越えた。ノーバウンドでミットに届くこと自体が、彼にとってはエベレストに登るほどの壁だった。


週末の練習試合。息子がマウンドに上がるとフォアボールの連発で試合が進まない。「あいつが投げると試合が終わらない」——そんな空気が小さなグラウンドを支配していく。


結局、息子は早々にマウンドを追われ、ベンチを温める「控え投手」が定位置になった。


もしこれが、ただ親に言われてやっているだけの野球なら、彼はすぐに辞めていただろう。試合に出られず、ただ声を出すためだけにグラウンドへ行く。試合が終われば、誰もいなくなった片隅で一人、ボールを壁にぶつけ続けた。カツン、カツン。誰も聞いていないその音だけが、彼の存在を証明していた。


そんな日々が一年、二年と続いた。


「野球、楽しいか?」と、夕食の時にさりげなく聞いたことがある。


息子は口いっぱいに白米を頬張りながら、「うん、めちゃくちゃ楽しい!」と即答した。


「今日はね、壁当てで、狙ったところに五回連続でボールがいったんだよ」


彼は腐っていなかった。試合に出られない悔しさがないわけではない。だが彼は「他人の評価」に自分の心を支配されることを拒んでいた。ただ昨日より一歩、自分の左腕が思った通りに動くこと。あの日感じたボールを飛ばす楽しさ。その純粋な光だけを見つめて、黙々と下積みの時間を積み重ねていた。


エースになれなくても、彼は小学校六年間、一度も「練習に行きたくない」とは言わなかった。


そして、卒業が間近に迫った冬の夜のことだった。


「パパ、僕、中学に入ったら、地域の硬式野球のクラブチームに入りたい」


私は思わず耳を疑った。硬式クラブチーム。将来プロを目指す精鋭たちが集まる「ガチ」の環境だ。小学校時代、まともにストライクも入らなかった我が子が、なぜそんな修羅の国に飛び込もうとするのか。


「お前、あそこがどれだけ厳しいか分かってるのか?」


私は厳しいトーンで諭した。傷ついてほしくない。親としての防衛本能だった。


だが、息子の目はまっすぐだった。あの日、バットを担いだお兄ちゃんを見ていた時と同じ、絶対に譲らない光がそこにあった。


「分かってる。でも僕は、硬いボールで、本物のマウンドから、ちゃんとストライクを投げられるピッチャーになりたい」


その言葉には、六年間の屈辱が静かに燃えていた。悔しさは彼を諦めさせるどころか、巨大なエネルギーへと変わっていた。


「……よし、分かった。最後までやり通せよ」


「うん、ありがとう、パパ!」


嬉しそうに笑う息子の顔を見ながら、私は確信した。この子は自分で自分の運命を選び取ろうとしている。


あの日、三塁へ逆走した不器用なサウスポーは、誰も知らないうちに、逆風を受け止めて進むための「しなやかさ」を宿し始めていた。

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