29話 別人格の二人
授業終了のチャイムが校内に鳴り響いた。
ざわり、と教室の空気が一段階緩む。
椅子が引かれる音、ノートを閉じる音、次の授業の準備を始める生徒たちの声。
エルサは静かに席を立ち、机の中に手を突っ込んだ。次は数学、確か青い表紙の教科書だったはずだ。
――が、指先が止まる。
不意に、隣の机が視界に入った。
誰もいない机。
空っぽの椅子。
(……何してんだよ)
胸の奥が、きゅっと縮む。
(翔馬……)
次に浮かぶ名前。
(与志野……田野……)
体育祭が終わってから、もう一週間。
翔馬たちは、学校に姿を見せていなかった。
最初は、体調不良だと思われていた。
次は家庭の事情。
だが日が経つにつれ、その説明は誰の口からも出なくなった。
代わりに増えていったのは――噂だった。
「大井史先生行方不明らしいよ」
「体育祭の日、救急車来てたって」
「廃工場の方から、体育祭中変な音がしたってさ」
根拠のない話。
証拠のない憶測。
それでも、それらは妙に生々しく、校内を這うように広がっていた。
エルサは教科書を取り出しながら、もう一度だけ空席を見る。
机の上には、誰かが置き忘れた消しゴム。
椅子の脚には、体育祭の時についたままの土汚れ。
(……戻ってくるよな)
自分に言い聞かせるように、心の中で呟く。
だが、その言葉は教室の喧騒に溶けることなく、
胸の奥で、重く沈んだままだった。
「エルサ!早く来いよ!次、移動教室だぜ!」
その声に、エルサははっと我に返った。
「ああ……今行く……」
そう返事をし、机の上の教科書を抱える。
立ち上がり、教室の出口へ向かおうとした――その瞬間だった。
(……あれ?)
足が、止まる。
(山愚痴の机……)
視線が、自然と教室の端へ向かう。
いつも壁際、窓から少し離れた位置にあったはずの席。
――そこに、何もなかった。
机も、椅子も。
最初から存在しなかったかのように、綺麗に空いている。
(……そんな訳……)
胸の奥に、嫌な感覚が走る。
エルサはクラスメイトに声をかけた。
「なあ……山愚痴の席ってどうしたんだ?」
するとクラスメイトはあっさりとした口調で答えた。
「ああ、山愚痴?なんか怪我は治ったみたいなんだけどさ、転校したらしいぜ」
「転校……?」
「らしい、意味わかんねえよな急に」
別のクラスメイトも会話に入ってくる。
「でもさ、良かったんじゃねえの?」
「え?」
「あいつ、与志野のこと虐めてたんだろ?最初はあんな良い奴そうなオーラ出してたくせにさ」
「そうそう」
さらに別の声。
「初日は普通に人畜無害そうなイケメンって感じだったよな」
「な、入学式の日、俺たちによろしくって話しかけてきたじゃん」
「それがしばらくしたら急に人格変わったみたいに与志野虐めだしてさ、見てられなかったよ」
エルサの思考が、そこで引っかかる。
小さく声が漏れた。
「初日……?」
クラスメイトは不思議そうにエルサを見る。
「ああ、入学式の日だよ」
「俺ら何人かで話したよな?」
「そうそう、あの時は普通に感じ良かったのに」
「おいお前ら!突っ立ってないで早く次の授業に行け!」
廊下から先生の声が飛んできた。
「あ、はい……!」
「やべ……行こうぜ」
エルサ達は慌てて教室を出る。
だが、歩きながらも頭の中はざわついたままだった。
(……何か変だ……)
その違和感だけが、
エルサの胸に、確かに残り続けていた。
⸻
「一週間……意外と早かったな」
翔馬は息を整えながら拳を握る。
「……やれる、前より身体が軽い」
与志野も額の汗を拭う。
「俺も……蒼の気の流れ、だいぶ分かってきたよ。」
田野は腕を伸ばしながら言う。
「俺も……多少は戦場で動けるようになった気がする……」
無闘が頷く。
「じゃあ次だ、明日から残りの人格と蒼気達を探しに行こう、待ってたって何も始まんねえしな」
Fも指を鳴らした。
「無い野が動いてない今のうちに、
残りの人格を探さないと危険だよ。」
翔馬は決意を込めて答えた。
「……ああ」
(決着をつけてやる……無い野!)
⸻
夕暮れの坂道。
修行を終えた帰り道、翔馬と与志野は二人だけで寮へ向かって歩いていた。
「あー……腹減ったな……」
「俺も……帰る前になんか買って帰ろうか?」
そんな平和な会話をしていた、その時。
ふいに“花の香り”が吹き抜けた。
季節外れの甘い匂い。
「……?なあ与志野、何か良い匂い──」
振り返るとそこに、花びらを纏った様な柔らかい雰囲気の少年が立っていた。
髪には自然と色とりどりの花が咲き、
目は優しいけれどどこか空虚。
「……こんばんは、主人格さん。」
与志野が息を呑む。
「こいつ……翔馬の……?」
花びらの少年は柔らかく笑った。
「僕は花野、君の人格の一人だよ。」
そして、もう一人。
後ろの電柱の上から、
ひゅっと影が降りてくる。
鷹のような鋭い目。
「同じく当て野だ、今日は敵意はない。」
翔馬は思わず構えてしまう。
「お前ら……何のためにここに……?」
花野はそっと手を胸に当てた。
「無い野を止めたい、あいつが俺たちを全員吸収したら……この世界が終わる」
二人の瞳には嘘がなかった。
だが翔馬の胸はざわつき、手が震える。
自分の人格が、仲間として目の前に立つという現実。
(信じて……いいのか?でも……)
翔馬の脳内に塵野が襲撃してきた時の記憶が浮かぶ。
花野は優しく微笑んだ。
「大丈夫、僕たちは君を守るために生まれた人格。
無い野みたいなのばかりじゃないよ。」
当て野も静かに頷く。
「協力関係を結ぼう、亜里野翔馬。」
夕暮れの坂道に、四人の影が重なった。
花野がそっと振り返り、夕風に揺れる花びらを指先で散らした。
「……本当はもっと早く伝えるつもりだったんだけどね」
当て野もポケットに手を入れ、淡々と告げる。
「亜里野、覚悟して聞け。」
翔馬は息をのむ。
花野は静かな声で続けた。
「無い野の祝福──それは“人格分裂”。
僕たち全員……君も、僕も、当て野も……
無い野の祝福で生まれた人格の一人なんだ。」
与志野が信じられないという顔で翔馬を見る。
「翔馬が……分裂……?」
翔馬は混乱を隠せなかった。
「待てよ……俺は無い野から生まれた別人格ってことか?」
当て野は淡々と肯定する。
「元々はな……だが一六年前、無い野は神界の連中の手によって自らの肉体の中に意識を封印され、そして当時一番温厚で害が無いと思われた人格、つまりお前が代わりにその肉体に意識を固定された」
「て事は……今の俺の身体って……」
「ああ、元々は無い野の身体だったものだ」
翔馬は言葉を失った。
頭が回らない。
心臓だけがやけにうるさく鳴っていた。
(だから無い野は……俺の身体を狙ってるのか……自分の身体を取り戻す為に……)
すると当て野が、さらに重い現実を告げる。
「無い野には俺たちの“位置”が朧げに伝わる。
祝福の源が同じだからな。」
翔馬は息を呑む。
「じゃあ……ここで喋ってる間も……」
花野が頷く。
「固まっていれば、必ず寄ってくる。
無い野は僕たちの“統合”を望んでいるから。」
風が止まる。
夕暮れの坂道が、急に冷たく感じられた。
翔馬は震える拳を握りしめ、深く息を吸った。
「それなら……逃げても追ってくるなら……迎え撃つしかねぇ」
花野と当て野は同時に頷いた。
⸻
無闘達が住んでいるアパートの裏。
無闘が腕を組みながら言った。
「なるほどな、花野と当て野……無い野の別人格ってわけだ。」
Fも珍しく真面目な顔で頷く。
「否定から入るけど……うん、これはヤバい状況だよ」
翔馬は二人の名前を紹介しながら説明した。
無闘は頭を掻きながら言う。
「位置がバレるってんなら……人が多いとこにいるのは危険だな、巻き込まれちまう」
翔馬はすぐに答えた。
「だから……人のいない場所に行く、山奥で無い野を待ち構える。」
当て野が地図を広げる。
「ここだ、町から離れた森林地帯。
奴が来ても、周囲に被害は出ない。」
「ここって……俺たちが修行してたとこか、確かにここなら大丈夫だな」
花野も静かに微笑む。
「僕たちの匂い……無い野は必ず嗅ぎつける。
来ないという選択肢はないよ。」
翔馬は深く頷いた。
「……決めた、今日の昼過ぎに山奥で布陣する。
無い野をここで止める。」
風が鳴り、森の方角で木々がざわめいた。
まるで──
すでに“何か”がこちらへ向かっているかのように。




