もうあなたに恋はしていない(1/2)
それから数ヶ月が過ぎた。
シャーロットは物見やぐらの上に立ち、眼下の花畑を見つめている。
一面に咲く青く小さな花。それを食んでいるのは草食の魔獣たちだ。
魔獣牧場はミース城から馬車で一時間ほどのところに作られた。
シャーロットの仕事は時々この牧場に来て、結界にほころびがないかを調べることだ。牧場はいくつかの区画に分けられており、ともに飼育するとケンカを始める種族も多いので、常に結界を万全な状態にしておくのは大切な役目だった。
また、ミース城での仕事の合間を縫って牧場を訪れているのはシャーロットだけではない。ティモやリルもこの牧場を運営する上での重要人物だった。
魔獣の召喚はもちろん、どの種族からどんな素材が取れるのかリルより詳しい人物はほとんどいなかった。それに、彼女が長い間顔を見せないと魔獣たちがそわそわしだして、ついには牧場からの脱走を企てるようになるのだ。
枯れた土地に植物を生やすのは難しいと言っていたティモだが、花の種を植えたことでその問題も解決した。それに加えて、魔獣牧場では一定間隔で御供石を納めるほこらを建ててある。
これから牧場を拡大するに当たってもっとほこらの数も増やしたいところだが、最近御供石が見つかりにくくなっているのが少々気がかりな点だった。バスティアンが心配していた通り、この鉱物の埋蔵量はそんなに多くないようである。
とはいえ、当面の拡張計画には支障がないほどの量は確保してあるので、この問題に関してはまだそこまで頭を悩まさなくてもよさそうだった。
それにリルやティモが提案してくれた対策の中には、「御供石を人工的に作る」という面白そうなものもある。そんなことが本当にできるのかは分からないが、試してみる価値はあるだろうとシャーロットは思っていた。
「シャーロット様、冷えませんか?」
バスティアンが物見やぐらを上がってきた。
いつの間にか夏は過ぎ、秋も終わってミースにはすっかり冬の気配が忍び寄ってきている。朝晩だけではなく日中も冷え込む日も増えた。シャーロットもこの間厚手の外套を新調したばかりだ。
「平気です。今日はよく晴れていますから。商人さんとの話し合いは上手くいきましたか?」
「はい。これまでよりも良い値段をつけてくれる商会を見つけられました。これで来月から従業員の賃金を上げられます」
牧場の責任者となったバスティアンは、商人相手に素材の値段の交渉をしたり、花畑の拡張計画を練ったりと日々忙しく働いていた。
とてもではないが、これまで領地経営に関わってこなかった領主と同一人物とは思えない。それだけ彼がこの牧場に寄せている期待が大きいのだろう。
バスティアンはミースのために熱心に動き、財政改革を成功させつつある。
ミースの民が今までバスティアンに下していた評価は、「土地の行く末に無関心な堕落した領主」という悲惨なものだった。
だがシャーロットの目には、地の底にまで落ち込んでいた彼の評判も最近では少しずつ違ったものになってきているように感じられた。バスティアンは領民たちの信頼を取り戻しつつあるように思えたのだ。
「聖女様~! 見てくださいよ! ヒッポグリフの羽、こんなに集まりましたよ~!」
地面に落ちていた魔獣の羽を回収中の従業員が、やぐらの上のシャーロットに気付いて手を振る。シャーロットも上品に微笑んでそれに応じた。
領民たちがシャーロットを「聖女様」と呼ぶのは相変わらずだった。こうして牧場に立ち寄り、働き手たちを気遣う姿勢を見せるようになってからはなおさらである。
「売り上げを計算したのですが、今のペースですとミースは数ヶ月後にはどこからもお金を借りなくてよくなりそうですよ」
「まあ! 財政がやっと黒字になるのですね!」
魔獣たちのエサには氏神の加護がかかっている。そのためか、ここで採れる素材は自ずと一級品になるようで、商人たちも良い値段で引き取ってくれるのだ。
「といっても、これまでに溜め込んでいた借金はまだまだありますからね。それを返すまで油断はできません」
「大丈夫です。きっと上手くいきますよ。……そういえば、知っていました? 外に出稼ぎに行っていた若い人たちの中には、ミースに帰ってくることを検討している方もいるとか。この牧場の従業員たちがご家族に手紙を送って、職場を変えてみないかと誘ったそうです」
魔獣牧場の主な働き手は、土地を出て行くには年を取り過ぎているミースの領民たちだった。
これまでは息子や娘の仕送りで細々と暮らしていた彼らにバスティアンは進んで職を与えた。子どもたちにかける苦労が減ると皆は大喜びである。
「若い方が増えればミースも活気づきますね。牧場以外にももっと違った事業にも手を出せるかもしれません」
貧しく寂れていたミースは確実に変わり始めていた。急には豊かにならないかもしれないが、その先行きは明るい。ミースにはミースの良さがあると皆は気付きだしたのである。
「シャーロット様はこのミースの女神です」
バスティアンがうっとりと囁く。
「あなたが来たことでこの土地の運命は変わりました。そしてわたしの人生も良い方向へと転がりだしたのです。……いいえ、わたしだけではありません。嫌われ者だった邪神と忘れられた氏神。彼らもまたあなたに救われたのでしょう。あなたは日陰者に光を当ててくださいました。陽光はあまねく照らす。やはりシャーロット様は光なのですね」
「……ありがとうございます」
こそばゆい賛辞だったが、シャーロットは素直に受け入れた。けれど、驕る気持ちは湧いてこない。シャーロットは自分も日陰者と呼ばれる存在だった過去を忘れていなかった。
(私は誰からも軽んじられていた。そんな私だったからバスティアン様を見捨てようと思わなかったのでしょう)
仲間意識を抱いた。似た者同士だから放っておけなかった。ただそれだけのこと。けれど、そのささやかな気持ちが全てを変えたのだ。
「あとはシャーロット様が本当の意味で幸福になれば完璧ですね」
「……実はそれが一番難しかったりします」
シャーロットは苦笑した。
あなたもワガママを言ってみるべきだ、とバスティアンに指摘されてからもう長いこと経ったが、シャーロットは未だに自分の本当の望みが何なのか考えつけていなかったのである。
「ミースが豊かになり始めて皆が嬉しそうにしている。その様子を見ていると私も満ち足りた気持ちになってしまうのです。それ以上を望もうなんて考えることもできなくて」
「あなたは本当に無欲ですね」
「困ったものです。例えば、こうしてバスティアン様と穏やかにお話しできているだけで、もう充分だと思ってしまうのですから」
シャーロットはまだ自分の恋心の正体を掴めていなかった。
バスティアンを見ると時折ひどく切なく、胸を掻きむしられるような想いを抱いてしまうことがある。けれど、これが彼への激しい恋情の表れだとは結論づけられていなかった。
自らの恋心に浸って恍惚となりかける度、頭の中で「代替品」と呟く声が聞こえるのだ。その囁きがいつもシャーロットを現実に引き戻してしまう。
(こんなどっちつかずの状態は早く終わらせてしまいたい……。でも、どうすればいいのでしょう)
進退窮まったシャーロットは思い悩んでいた。
けれどその日の午後、シャーロットとバスティアンがミース城に帰った時に思わぬ転機が訪れる。
「久しぶりだね」
客が来ていると言われて足を向けた客間で、シャーロットは意外な人物と対面することとなった。
爽やかな笑みと華々しい装い。シャーロットが入室すると洗練された仕草で一礼したその人物は、元婚約者のエドガーだった。
「まあ、エドガー様……」
いきなりの元婚約者の登場に、シャーロットは何と言っていいのか分からなかった。ただ驚くばかりでろくに挨拶もできない。
「どうしたの、シャーロット。俺に会えて感激してるのかい?」
「は、はあ……」
シャーロットは呆けながら気のない返事を返す。彼女の胸の内ではよく分からない違和感が渦巻いていた。
(エドガー様……前と少し変わったような気がします)
シャーロットは相手の様子を探るようにエドガーをまじまじと観察した。そんなシャーロットの様子に気付いたのか、エドガーが相好を崩す。
「俺もまた君と話せて嬉しいよ」
エドガーがシャーロットに近づいてその手を握った。
途端にシャーロットは眉をひそめ、彼の手を振り解いてしまう。
「シャーロット?」
エドガーは驚いているようだったが、それはシャーロットも同じだった。
(いつもの私はエドガー様に手を握られたら、嬉しくて舞い上がっていたはずなのに……)
だが、先ほど感じたのは嫌悪にも近い感情だった。これは一体どうしたことだろう。
「照れなくていいんだよ、シャーロット」
エドガーがまたしても歩み寄ってくる。
「最後に会った時はちょっとした誤解があったけど、また仲良くしようじゃないか」
そう言って肩など抱いてくる。シャーロットは全身に鳥肌が立つような思いがした。
それと同時に悟る。変わったのはエドガーではない。自分の方だと。
昔はときめいていた彼の笑みにも何も感じない。再会しても嬉しいと思えない。体に触れられれば寒気を覚える。
(私がかつてエドガー様に抱いていた気持ちなど、とっくの昔に冷めていたのですね)
冷静になった今、シャーロットはエドガーに不快感しか抱けなかった。
以前は朗らかに思えたその性格はどうにも浮ついているようしか見えないし、女性の体に馴れ馴れしく触るなんて下品極まりない。
それに、一方的に婚約を解消したことを「誤解があった」などと表現するなんて不誠実でしかなかった。
(私って……とんでもないくらいにおバカさんだったのですね)
かつてのシャーロットは、今までひっそりと生きてきた自分に注目してくれる人が現われたという事実に心を奪われ、エドガーの悪い面など目に入らなくなっていたのだろう。恋は盲目ということか。
けれどエドガーに裏切られたことでシャーロットの目は再び開いた。今のシャーロットは彼を公平な目で見て、その人となりを判断できるようになったのだ。
その結果、シャーロットはこう断言できると思った。この先何があろうと、もうエドガーに恋をすることはない、と。
(やはり……私が本当に好きなのは……)
「シャーロット様!」
客間に大声が響き渡り、シャーロットはあっという間にエドガーから引き剥がされた。気が付けば逞しい腕の中に抱き留められている。
「お前、どういうつもりだ!」
血相を変えて室内に飛び込んで来たのはバスティアンだった。愛しい人に抱きしめられていると分かり、シャーロットは感激でオリーブ色の瞳を熱っぽく潤ませる。
(バスティアン様はエドガー様の代替品などではなかった。エドガー様への恋心は遠い日の思い出。もう存在しない。そして今の私はあの時よりももっと熱烈な恋をしている……)
身を焦がすような激情。甘く切ない気持ち。誰かに本気で恋い焦がれるというのがどういうことなのか、今のシャーロットにははっきりと分かっていた。
「これはこれは、ミースの領主殿」
エドガーが慇懃に礼をした。
「それとも、兄上と呼んだ方がいいですか?」
「こちらこそ、弟と呼んでやろうか」
バスティアンは嫌味たっぷりに言い返す。
「それとも、第六王子の方がいいか?」
エドガーの頬がピクリと引きつった。
先日送られてきた王妃からの手紙には、彼女が無事に男児を出産したとしたためられていたのだ。
この王国では王の子の位は年齢ではなく血統で決まる。正妻から生まれた王子は妾腹の男児よりも地位が高くなるのだ。その結果、第五王子だったエドガーが格下げとなり、第六王子となるのは自然な流れだった。
「廃太子が王族相手に随分と大きな口を利いたものだ」
降格の話題はエドガーの逆鱗に触れたようだ。柔和な仮面が剥がれた第六王子は瞳をギラつかせる。
「その気になれば兄上の爵位くらい、いつでも取り上げられるということをお忘れなく」
「そちらこそ、わたしが王妃の子だということを忘れるな。その首を飛ばして体で教えてやろうか?」
二人は火花を散らし合う。
それまでバスティアンの胸に頬ずりしながらうっとりしていたシャーロットは、そろそろ仲裁に入らないとまずいかもしれないと思い始めた。




