眠る=生きることにいらないもの
その日は結果的に泣きながら駅前まで行く日なのだが、表の提出後に更にダメージを受けるとはその時には思っていなかったわけで。
その後は、相変わらずでちゃんと眠れましたという内容が書ける日がなく、色塗りすらしていない。
実際にそういったアナログな形で目にすると、本当に眠れない日々が続いていることに気づかされる。
だるいのも、その辺で歩いている時や買い出しの最中に寝落ちしかけるのも頷ける。
それと、よく生きているな……と。
特別いっぱい食べる人間じゃない。
そこそこ適度に、だ。
時々ネット仲間が心配してカロリー高めのお菓子を送ってくれるほどだ。
味覚障害を患っていることもあり、食に対して興味が湧かず何かを食べたいと思わない理由かもしれない。
唯一日課のように食べているのは、某100円ショップの甘栗くらい。
それとカフェインかカテキンが摂取出来れば、自分の精神が繋がるようなので、心さえなんとかなりゃ体は後からついてくるだろう。
なんて思っていたのだが、成長期の女の子を三人も抱えていると自分と同じ食事でいいわけもなく、日々なにを作ればいいのかわからないというのが現実だ。
三人の娘たちは、しっかり眠ってしっかり食べてこのままでいてほしいなと願う。
元旦那の収入云々問題にかち当たり、何度となく彼の首を絞めたくなりもしたが、そんなことをしても飯は食えないということをわかっていた。
そういった人間は、生きる時は生きるのだろうし、死ぬ時は勝手に死ぬのだろう。
なんせ、彼はある意味自由人だったから。
家庭を大事にして、子どもたちと仲良く過ごしたかった。
自分の手につかめなかったものを、子どもたちにはつかませてあげたかった。
たまに一緒にした晩酌の時、どこか寂し気に願いを語った彼がいた。
つかみたかったものは、きっと普通に手に入ると思っていたものばかり。
たまたま相手が悪かっただけ。
与えたいものだけを与えたい人だった。
彼も結果的には同じ人になっていた。
自分にとって都合が悪くないものだけ、都合がいい時にだけに与えたい。
相手が欲しがっているものかどうかは、知ろうともしないのは親子そっくり。
あたし自身、彼が欠乏しているものを知っていたから、同じことは起きないと思っていた。単純に叶うだろうと。
けれど、家族五人で暮らし続けることも彼が愛した妻を安心して眠らせられる日々も、彼は一切叶えられなかった。
手のひらにあったはずなのにと、彼は思っただろう。
指を開いてしまえば隙間からこぼれ落ちてしまうものが。
こぼれ落とさないための努力や工夫が必要なんだ。
本当に、単純なことだった。
今のあたしは、彼の存在を自分の中から消すことと眠ることに意識をもって過ごさなければと思う。
自分の中から彼を消すという意識をすれば、そのたびに彼の存在が逆に色濃く思い出されてしまうかもしれない。
幻聴や幻覚があるのも、そのせいだ。
考えないようにするということは、本当に難しい。
彼に支配され、執着され、逆に自分もどこか彼に依存していただろう関係は、そう簡単にいなくなってくれない。
暮らしのあちこちに、彼の名残が消えない。
ちゃんと眠るということは、いらないしがらみを頭から消すことでもあるのかな。
あたしの場合は、彼という遅効性の毒にも似たソレ。
ストーカーだなんだに躰を犯され、心も侵され。そのベースの上に、まさしく上書きしたような元旦那というデータがあって。
パソコンだって完全に消すのには、初期化しなきゃどこかにデータは残り続けるでしょう。
人の心も体も、初期化なんてできない。
積み重ねてきたもので構成されてしまう。
否が応にも。
わがままに生きて、母親に迷惑や負担をかけまくった二十代前半のあたし。
その後はその時の罪か罰かと思える、誰かしらに踏みつけられた日々だった。
うつむき続け、ふと視線を上げれば、こんな親でも一緒に笑ってくれた三人の娘たちがいて。
その子たちを思って別れずにいた部分があったとしても、「泣いてばかりのママよりもバカ笑いしてくれるママがいい」という言葉で背中を押してくれたのは、他の誰でもないその子たちだ。
この後がどんな生活になるか見えなくても、一緒にくだらないことで笑いあいたい。
満たされないものを求めたくない。
今の自分が満たさなければならないのは、ひとまずは睡眠欲だ。
みんなが普通に持っていて、叶えている人も多かろうもののはず。
それでもテレビが告げていた統計では、どの程度かの差はあれど四人に一人は睡眠での悩みを抱えているという。
自分もその一人。
焦っても眠れるわけではない。
とはいえ、眠らないと頭が働かない。
10分でも20分でもいい。
日に日に眠れる時間を増やせるように、その時々で取捨選択をし、無くてもいいものは失くそう。
眠るため=生きるために、彼はいらない。
それだけの話だったのに、どこで複雑にしてしまったんだろう。
気づけばマグカップになみなみとあったはずのコーヒーは無かった。
電気ケトルのスイッチを入れ直し、コーヒーを手に取って。
「いや。……次はココアにしよう」
選ぶ権利は誰にだってあるんだ。
こんな風に飲み物を選ぶように、選択肢だって視界にあるはずで。
「それに気づいて、手に取れるか取れないか」
そういうことなんじゃないかな。
ココアが入ったスティックを手にして、お湯を注いで。
ちゃんとかき混ぜれば、溶け残りもなく美味しく飲めるはずのモノ。
「これからも、選択肢を増やしていこう。すこしずつ眠れるようにさえなれば、今よりももっと冷静に立ち回れるはずだし、今のあたしに味方がいないわけじゃないのだから」
つらい毎日の中で手に入れた自分の武器を携えて大事にして、一日また一日と過ごしていけばいい。
生きていく中で満たせる欲を、その時々で叶えられる順に満たしていって。
その欲を叶えるために強者にも弱者にもならずに、“あたし”という人でいたい。
「なんてことない、単純な話だったな」
ココアを口にして、ホッと息をつく。
ほんのり甘いものも、たまにはいい。
苦いだけじゃないこれからを想像して、ココアをもう一口飲む。
胸の奥を通り過ぎていく温かさに、思わず顔がゆるんだ。
でろりと溶けたように、眠りたい。
それこそ『ぬむい。』と文字にしたように。
『ねむい』と書くと、どうしても真ん中に一本の芯が残っている気がする。
ペンを手に、“ぬ”の字だけ書いてみる。
どう書いてもシャキッとした感じにならないや。
わざと横に伸ばして書いてみて。
「……ぷふっ」
笑う。
「原型ないじゃん! でろでろだし」
くっだらないことで。
ちゃんと眠れたら、『ぬむい。』あたしは卒業出来るかな。
「くっくっ……ふは……っ」
その文字の上に、とろけた感じのスライムを描いて、でろでろさを増してみた。
「あー……、弱そっ」
ゲーム序盤に出てきそうなそれ。
「なんか楽しくなってきた♪」
眠れなかった最悪な時期には、こんなくだらないことすら笑えなかった。
すこしずつ増やしていけたらいい。
眠って。
食べて。
動いて。
笑って。
みんながきっと当たり前のように得ている時間を、自分にもあげられるように。
“ぬ”のスライムの横には、弱っちぃ子どもがいて。
指先でその子をなぞりながら、そっと呟く。
「きっとこれからだよ」
下手くそなイラストに、また笑いながら。
そうやって自分を何度も慰めて、励まして、次の通院までに心の準備をする時間をもらって。
結局クリニックに足を向けられたのは、当初の予定より三か月後。
受験生を二人抱えた我が家の状況が落ち着くまでに時間がかかったのと、自身の体調がなかなか整わなかったのと。
元々そこのクリニックは予約が三か月先とかになりがちな場所だったこともあって、こっちが行けるタイミングでの通院は厳しかった。